underworld1992-2002

tomato創設者JOHN WARWICKERのインタビュー記事を読んで。 『思考に声を持たせること。思考をコミュニケーションすること』『すべてはリズム/すべてはプロセス』『作品は自身の旅の地図』『自分自身から学びとる』『チャンスは周到な観察から』『芯がしっかりしているもの程よく回る/TSエリオット』『自分のいる場所に居る』『自然界の潮流。世界になっていく状態それを描くことでそのものを形成するーこの世界そのものが物事、オブジェに翻訳していくのであり私はメディア(媒体者)なのです。すべては翻訳であり、プロセスだということなのです。一つ一つがストーリー』

giacometti

ジャコメッティ|エクリ(みすず書房)。わかるようでわからない。わからないようでわかる気がする。何度も何度も読み返す刺激的な本。表現の根幹を詩的に私的にスケッチする断片的な《言葉》がボヤケタ脳みそに喝を入れてくれる、自分にとってそんな一冊。
こんなに素晴らしい映画ははじめてとはまでは云わないが、
本当に観て良かった。
~チェ・ゲバラ~の自叙伝からの映画化。
もともと感動しやすい単純な性格を差し引いても人生BEST3に入ると想えた映画。
恵比寿ガーデンシネマにてM師匠(整体の先生)に誘われ観賞。
その後感動覚めやらぬまま先生と一杯。
映画話を機に旅話に始まり興味深い整体談義まで心置きなく堪能。

素敵な一日となった。
この1週間、流行りの風邪で撃沈。整体的には『捻れ風邪』と呼ばれるもの。とにかくシツコイ。熱は丸4日間でっぱなしで、微妙に上がったり下がったり。だるい。体温計もない、薬ものまないとなるとどーするか?
基本は耐える。ひたすら水を飲む。そして頸を熱めの蒸しタオルで温める。これが快い。たまに足湯する。そうすると背骨というが上半身が弛んでポカ~ン。眠りが深くなる。汗をかく。拭く。着替える。だいたいこの繰り返し。
本当はあまり良くないのだけどここぞとばかりDVDを大量にレンタル。(風邪をひいている時に長時間画面を見ることでの目の負担、寝ながら画面を見ることでの頸の負担が禁物、らしい)破りまくり・・・
『ライク・ア・フィッシュ』『殺人の追憶』『永遠の片思い』『テイキング・ライブズ』『ドラムライン』『ツイステッド』
サスペンス、スポ魂、純愛・・・
ダントツで面白かったのが『殺人の追憶』これには感動。映画としての完成度は稀に見る程、と個人的に思う。韓国映画、ちょっと凄いぞ。他の映画が色褪せてしまった。
☆☆☆!!

最高。3枚目にして益々完成度を増しているような。久しぶりにCDを胸ときめかせて購入。想像以上に素晴らしい楽曲達&語りかけるように紡がれるメッセージ性の高い詩の世界。こうゆうマイペースであり、且つ信頼出来るアーティストはとても貴重な気がする。特典DVDもまた絶品!
『www.jackjohnsonmusic.com/』
~近代化され、西洋化された現代の日本で、アイデンティティという言葉が使われるようになって久しいけれど、幾重にも取り囲む多層な世界、多様な価値観、それぞれとの間断なき相互作用、その中心にある不安定で動的な『自己』に、明確なアイデンティティを自覚するのは生半可なことではないのだ、本当は。ましてやその『自己』が自身が取り囲む多層な世界を語り出す、などということは。その中に棲まう、地霊・言霊の力とおぼしきものを総動員して、一筋の明晰性を辿りゆくこと、それが『物語化』するということなのだろう。(梨木香歩)~<
引き続き『ぐるりのこと』。
この~大地へ~のエッセイは、近年急激に、(とりわけ)日本が孕んでしまった時代の虚無的退廃的空気の中で絶望とともに浮遊し続けざるおえない幼い魂達にむけて、出来うる限り誠実に見つめその着地点を模索し続けようという姿勢、そのヤルセナサとともに、希望を探そうという著者の立処が垣間見える秀逸な文章でした。
『全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を 得て、そこに住んだ。彼等は互いに言った、「さあ、レンガを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代わりにレンガを得、漆喰の代わりにアスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、街と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔を見て、言われた、「民は一つで、皆同じ言葉である。彼らはすでにこのことをし始めた。彼らがしようとすることは、もはや何ものもとどめ得ないであろう。さあ、我々は下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。』
 これがそもそも、地上の人間達が異なった言葉をしゃべる理由なのだ、と聖書は理由付けし、それが神の,思い上がった人間に対する罰のように言われてきたけれど、もしかしたら、これは、それぞれ異言語を持つということは、自分ではブレーキを利かせることの出来ない人間を哀れんだ、神の恩寵としてとらえる方が、極めて現代に即した解釈なのではなかろうか。(梨木香歩)
恥ずかしながらバベルの件を読んだのは初めて。梨木香歩の解釈が胸に残った。