「去年はいい年になるだろう(上・下)」山本弘
一言でいうと、「SF」。正当派SF。懐かしい。
通常なら以上で記録が終わるのであるが、後からじわじわ来てまだ終わらない。
理由は、自分が医療系の人間で、学生時代からずっと引きずっているテーマがあるからだと思う。
リハ学校の授業で、その時のテーマが先進医療、といってもかなり前の話なので、今では先進でもないが、生体移植についての講義。
その授業の講師をされていたドクターが、もし自分の子供が生体移植が必要な時に、自分が臓器を提供するかという仮定に、彼はきっぱりと答えた。
「私は、自分が適合者であっても子供に自分の臓器の提供はしません。
なぜなら、その手術では、提供者が死ぬ確率もある。もし手術で私が死んだら、妻と残りの子供が路頭に迷ってしまう」
その判断は、倫理的にも論理的にも間違いでないだろうと思う。
ただ、もしわしが母親で、一緒に稼いでくれる夫=子の父親が存在するならば、危険を承知したうえで臓器提供に同意するような気がする。そしてそれもまた世間には間違いと言われないと思う。
本作品中での山本氏は叫ぶ。
「こっちの方が犠牲者が少ないから正しい-そう言うんやろ?」「人数なんかどうでもええんや!僕にとって大切なんは真奈美と美月(註:山本氏の奥方とご息女)の二人だけや!他の人間なんかどうなってもかまへん。」
他の誰よりも、大事な存在を自分の命に代えても守りたい。これも間違いとは言われまい。
しかし、この「身内こそが大切」が「身内のみ大切」という思想になると、一歩間違えると民族主義に変化するかもしれん、そう考えるとロボットの「より多くの人間を救うべき」という考えの方が、倫理的にも論理的にも正しいのかもしれない。
そうであっても、その正しいように思えるロボットの考えすら、「生きとし生けるもの」全てを対象とすれば「人間だけ救えばいいのか?」となり、間違っているかもしれない。そのあたりは、かつて星新一がタロとジロがペンギンを食べて生き延びたことを風刺してショートショートを書いている。
これは自分が「救う側」の場合だけではない。
もし、自分が病気になり、強い副作用を伴う治療を受けねばならなくなったとする。
10年生存率は30%程度の微妙な線。自分としては、あまり無理をしたくない。しかし家族は自分を生存させることを強く希望しており、高い治療費も厭わないとする。お金を払うのは家族だが、副作用に耐えるのは自分。その時に「きついのはイヤだよ」と断れるか。それとも家族とともに生きることを望むか。
・・・これはここで止めときます。自分の中での結論が出てないんです。
とりあえずは、もし倫理的に論理的に間違うことになったとしても、「守り守られる存在」が、いることに感謝します。失った場合の悲しみは想像を絶すると思うけれども、それが”今”存在することは、限りなく幸せだと思うから。
まあ、それはさておきこの小説で一番おもしろかったのは、過去の唐沢氏が自分にあてたメッセージのくだりだわなあ。
確かに当時は、オタキング岡田斗司夫が50キロ減量して書いたダイエット本がベストセラーになるとか、仮面ライダーが電車にのるとか、マッハGoGoGoやヤッターマンが実写化していずれも成功するとは思わなかったよなあww
10年前のわしも、まさかわしが大学院にいって研究はじめるとは思わなかったよ・・・
本日の結論:未来は何がおこるかわからんぞ、ということで。