その夜、またあの夢を見た。
長い髪の女の人ではなく、おかっぱ頭の少女が彼を静かに見つめていた。
「あなたは・・・」
彼は少女を以前のように「君」とは呼ばずに、大人の女性のような呼び方をした。
「あなたはどこにいるのですか?」
何を思ってか彼はそう尋ねた。が、少女は無表情なまま、ふと目を閉じた。
焦れたように彼がまた声を掛けようとすると、少女の姿がぼおっと霞みはじめた。
「!」
彼は最初少女がそのまま消えてしまうのではないかと思ったのだが、少女は消えてしまわずに、代わりに髪が伸び、ふっくらとした頬がほっそりと痩せ、背が高くなり、肌に精気が満ちて・・・そうして大人の女性になった。悲しげな眼差しをした女性に。
「ひろし・・・」
今日ははっきりと聞き取れた。間違いなく彼の名を呼んでいる。
「ひろしぃぃ・・・」
遠くからのこだまのように、赤い唇から漏れる声は震えていた。彼はなぜか怖くてわなわなと全身を震わせ、一言も応えられずにいた。
「私に、私に会いにおいで・・・」
そう言い残しながら、名残惜しげに女性は遠ざかって、そして消えた。
×
彼は目を覚ました。
開いた目でしばらく天井を見つめていたが、意識ははっきりとしていたし、不思議なくらい冷静な精神状態だった。
会いにおいで・・・
今し方見た夢を思い返した後、彼はベッドから抜け出した。
「思い出した」
無意識に独り言を漏らしながら、部屋を出て階段を下りた。
「あの女の子が何に似ているのか」
玄関を出て、物置へと向かった。
「あれだったんだ」
以前から夢に出てくる少女が、「何か」に似ていると気になっていた。それが何かを、彼は思い出したらしかった。宏史は憑かれたように、無表情に物置へ向かっていた。まるで夢に現れた女性の、「会いにおいで」という声に誘われるかのように。
冷えきった空気を切るように物置にたどり着き、彼は戸を開けた。窓から漏れる薄明かりだけを頼りに中を見回す。彼の視線はすぐに、積まれた荷物の一角にぴたりと釘付けになった。
「どうして、気付かなかったんだろう」
そこには夢の少女のように静かな白い面持ちの、人形があった。黒いおかっぱの髪、ふっくらとした頬、赤い唇、朱色の着物。前で手を合わせるようにして、人形は静かに立っていた。身長三十センチほどの、少女の人形だった。
×
彼は誘われるように人形へ手を伸ばした。人形は埃まみれのガラスケースに収まっている。埃を手でこすり落とし、ケースを持ち上げて顔に近づけた。
その人形は以前、彼が幼い頃には居間に飾ってあった気がする。いつの間にか物置に移され、ここに来た時には目にしていた筈だ。つい先日の、日記帳を見つけた日にも。
それなのに、よく見れば人形が夢の少女に似ていることに、どうして気付かなかったのか。
埃をかぶっていたから?小さな人形だから?
いやもっと何か、別の理由があった気がする。
「何してるの?」
不意に背後から声がした。驚いて振り向くと、母が寝巻姿で立っていた。一瞬母とは分からないほど、薄明かりに浮かぶその姿は寒けのするような雰囲気を漂わせていた。
「それに触っちゃいけないって、あれほど言ったでしょう?」
彼はハッとした。思い出したのだ。
小さい頃、居間にあった人形をケースを開けて見ていた。
母はそんな彼を見るなり、激しい剣幕で怒鳴りつけた。そんな物に触っちゃいけない、そんな「薄気味悪い」人形なんか放っておけと。
彼がこの人形のことを記憶から消し去ったのは、あの日の母の形相があまりにも恐ろしかったからだ。真っ赤な目をして彼の髪の毛を掴み、歯を剥いた母の顔が。
「母さん、これ何?」
微かに震える声で、彼もまた憑かれたように尋ねた。
「俺、どういうわけかずっと、この人形のことを夢に見てきたんだ」
彼が人形を差し出すようにすると、暗がりでも分かるくらいはっきりと母の表情が険しくなった。
「!」
突然飛び掛かるように母が人形を掴んだ。すごい力でガラスケースをひったくろうとする。
「よこしなさいっ!」
「な、何でだよ!」
彼は驚きながら、必死でガラスケースを抱え込もうとした。
暗がりの中で、母子の異様な争いがどのくらい続けられたのだろうか。彼にとってぞっとするような時間が流れていく。母が何かわめき散らしているが、何を言っているのかほとんど理解出来ない。どうして母はこの人形に固執するのか。
「わけぐらい聞かせてくれよ!」
「いい加減にしなさい!」
頬に熱い痛みがはしり、彼は崩れるように倒れた。母に頬を張られたのだと気付くよりも、床に叩きつけられたガラスケースの割れる音にはっとするのが先だった。
「こんな物!こんな物っ!」
呆然とする彼の目の前で、母は手近にあった大きなスコップで人形を叩き壊していた。
何度も叩きつけた後、母は荒く息をつきながらスコップを取り落とし、よろよろと物置を出ていった。
彼は無残に首がもげて潰れた人形を、何か痛ましい気持ちで見つめ続けた。
再び静けさを取り戻した闇は、何事も無かったかのようにしんしんと夜に満ちていた。
×
彼は何か泣きたいような気持ちで人形の残骸を手に取った。焼き物の首や手は折れていたし、着物は埃にまみれていた。
「ん?」
ふと彼は、人形の首の辺りに折り畳まれた紙片を見つけた。それは人形の背中と、着物の間に押し込むように挟んであった。
抜き取って広げてみると、何か字が書き込んである。が、暗がりでは読むことが出来なかった。
彼は物置を出て、家の玄関に回った。そっと様子を窺いながら、家に入って二階の部屋へ戻る。
机のライトを点けて、目を瞬きながら手紙を広げ直した。予想した通り、日記帳と同じ筆跡の手紙だった。
宏史、あなたはこの手紙を読んでくれるかしら。私はもう、ペンを持つのも辛いくらいなの。
千枝子さんや良介さんに見つかったら、この手紙を取り上げられてしまうかもしれない。考えすぎかもしれないけど、そういう気がする。
だからこの手紙は、枕元にある人形の襟元にでも隠しておくわ。どうか宏史、あなたが見つけてくれますように。
良介というのは、彼の父の名だ。母も父も、この手紙の主と面識があったようだ。
私はね、身体が弱いことでどれだけ、あなたを苦しめたかしれないと思うの。何一つ母親らしいことをしてあげられなかったと。
そこにははっきりと、「母親」という言葉が使われていた。もう彼は驚きはしなかった。日記帳も人形も、自分の本当の母親のものであろうと、しばらく前から気付いていたのだから。
むしろ千枝子さんが、あなたを自分の子供として育ててくれるのなら、その方があなたにとって幸運かもしれないわね。
私は見守っているわ。ただあなたの行く末を見守っているわ。ずっと・・・
幸代
最後の署名から、彼はしばらく目を逸らせなかった。「ゆきよ」と読むのだろうか、その名前には何とも言えない懐かしさがあった。
×
彼はほっとため息をついた。胸につかえていたものが、少し楽になった気がする。
「夢に出てきたのは、きっとこの人なんだろうな」
ずっと見守っているという手紙の言葉通り、夢の少女はじっと彼を見つめていた。多分この人は、もうこの世にはいないのだろうと思った。だからこの人の日記帳や人形が、早川の家に引き取られたのだろう。彼自身と一緒に。
「母さんか・・・」
この人が自分を生んだ母親だとわかっても、母と呼ぶのには抵抗があった。彼の側には、ずっと自分を育ててくれた母がいるのだから。
「やっぱり俺の母さんは、今の母さんだよ」
目を閉じて、彼はじっと頭を垂れた。それは実の母、幸代に捧げる黙祷だった。
彼は顔を上げると、部屋を出て母の寝室へと階段を下りていった。先程の母と争った事、自分の方が謝っておくべきかもしれないと思ったのだ。自分を育ててくれた母に、少しばかり配慮が足りなかったのかもしれないと、漠然とながら感じていたのである。
「?」
居間を通り過ぎようとしたところで、開いたドアから人影が見えて立ち止まった。
「母さん?」
覗き込むと、母は床に倒れていた。
「母さん、どうしたの?母さん!」
抱き起こして呼んでも、母は眉を寄せたまま閉じた瞼を開かなかった。
救急車を、呼ばなくちゃ。
慌てて彼は電話へと駆け出した。
(続く)