「残照のオペラ」10残照劇場第三幕④ | sunada3216の書きものブログ

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 近頃また具合が悪くなってきた。胸の辺りが苦しく、時折痛みが激しい。喀血することも、またあるだろう。
 息子の事をどうすべきだろうか。また千枝子さんに預ける?
 でも不安だ。
 いつまでも彼女の世話になっているというのも気が咎める。
 それ以上にあの人、どこか宏史に執着している様子が窺える。

 彼は思い返しながら憂鬱になった。夕べ母と争って、日記帳には関わらない方がいいのではないかと胸騒ぎを覚えた。
 しかし自分の出生に何か秘密があるらしいという事への、駆り立てられずにはいかない好奇心が、再び日記帳の続きを彼に読ませたのだった。
 最後の日付の日記は、力ないたどたどしくさえある字で記されていた。文面からは、明らかな焦燥感が窺えた。

 千枝子さんはご主人との間に子供が出来たが、残念なことに流産してしまったのだと言う。
 ご主人が漏らしていたが、千枝子さんは流産の後しばらくふさぎ込んでいたそうだ。ナーバスになり、時折発作的に奇声を発したり、理解出来ない事をしたりしていたと言う。
 私と出会った頃の千枝子さんは、とてもにこやかで親しみが感じられた。あまりにも熱心に息子を預かってくれると申し入れてくれるのは、正直言って戸惑いはしたが、世話好きな人なのかと思っていた。

 ホームルームの後のざわめきが教室に満ち始め、彼は考えにふけりながら鞄に荷物を詰めた。
「早川君、元気ないね」
 野本緑が気安く話しかけてきたが、彼は何でもないと生返事をして席を立った。緑が掃除した後で女子の友人と宿題をやってから帰ると、尋ねてもいないのに話してくれたが、彼はうわの空でじゃあと手を振って出口へ向かった。

 千枝子さんは宏史が欲しいのではないのかしら。亡くなった自分の子供の代わりに、宏史を私から取り上げるつもりなのでは・・・

 彼はすぐに帰宅する気になれなかった。まだ父は出張から帰ってこない。家に帰れば母と二人きりである。
 ふらふらと校門の横手にある、大きな桜の木の下へ歩いていった。俯いたまま座り込んで木の幹に背を預けると、彼は再び日記の内容を思い返した。

 怖いわ

 最後の一言の記された頁には、茶色の染みが広がっていた。書き記した人の名前は、ついに文中に現れなかった。
 彼の胸には、得体の知れない息苦しさがわだかまっていた。いつの間にか膝を抱きかかえるようにして、彼は少し肌寒い黄昏の中でじっと思いに沈んでいた。
「どうしたの?」
 声を掛けられてふと顔を上げると、野本緑が怪訝そうに見ている。両手で鞄を下げているのを見て、彼は緑が下校する時間まで、自分が長いこと考え込んでいた事に気が付いた。
「いや、ちょっと考え事をしてたんだ」
 ズボンをはたきながら立ち上がると、彼は校門へ向かって歩きだした。
「あ・・・」
 置いてけぼりにされて緑は声を上げたが、彼の背中を見て立ち止まったまま動けなかった。
 沈んだ背中越しに、夕闇と白い残照が寂しく映った。
(続く)