中心となるのは演劇だが、小説についても多く触れている。芸術は無用であるとしながらも、芸術の意義は「カタルシス」を生み出す力ににあるとして、現在の芸術が「カタルシス」ではなく、芸術家と鑑賞者の「ナルシスム」でしかない現状を鋭く指摘していく。
従順な鑑賞者は作品の自我意識に同化し、反撥する鑑賞者はそれに対立して自分の内部におのれの自我意識を凝縮せしめる。今日では、ひとびとは芸術作品に自我意識の確立を求め、それを完全にはたしてくれる作品を偉大なる芸術と呼んでいます。芸術の効用はカタルシスではなく、ナルシスムに堕してしまったのであります。
P139-P140
劇場においてさえ、ひとびとは堅く殻をとざして自分のうちに閉じこもり、舞台から他人が得られるなにものかを自分だけが手にして帰りたいと願っている。自分がいちばん上等なものを、いちばんたくさん、貯蔵庫から盗みだしたいともくろんでいる。(中略)そしてそれは小説において――すなわち書斎において――もっともきわまれるものとなっております。
P109
カタルシスがじゅうぶんにはたされぬがゆえに、鑑賞者はどんな芸術作品を鑑賞しても、そのあとではけっきょく自我意識にもどってゆくよりしかたがないのであります。近代芸術においては、人間一般が英雄になるのではなく、個性が、自我が、英雄になるのであります。そこでは鑑賞者の自由は失われる。劇場における観客は、英雄になることではなく、英雄崇拝を強いられるのだ。
P130
著者は芸術の意義はカタルシスによって精神をゼロの状態にすることだとする。芸術から何かを得て、「なにものかになる」のではなく、精神を解放して「なにものでもなくなる」こと。そして「なにものでもなくなる」ことにより、「なにものにもなりうる」自分になること。
こうして読むと僕はカタルシスではなくナルシスムで本を読んでいるのだなと思う。この本は1950年に書かれたようだが、現時点で考えるとカタルシスが味わえるのは小説よりもマンガやアニメだ。自意識に絡めとられナルシスムに陥った小説よりも、カタルシスを追求してきたマンガ・アニメのほうが世界的にも芸術性を認められているのは、当然の帰結なのかも知れない。
