『「かわいい」論』四方田犬彦/ちくま新書 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

四方田 犬彦
「かわいい」論


「かわいい」に関する文化史。世界を席巻する「かわいい」について言葉の語源から現在どのように使われているか、また「かわいい」の美学からその本質を追及し、世界各国の価値観と照らし合わせて「かわいい」の独自性を分析するなどなど、幅広い内容となっている。

「かわいい」は今や全世界を覆い尽くす一大産業と化している。任天堂はポケモン・グッズで五〇〇億円を越すビジネスを商い、日本発のキャラクター商品の総売上げは年間に二兆円を越している。キティちゃん関連のグッズは六〇ヶ国で販売され、その点数は五万点に及んでいるのだ。

最近はなんでも「かわいい」と言うなと思ったのはもう10年ぐらい前だろうか。何にでも使っている最近の「かわいい」は、あきらかに言葉の守備範囲が広いなと漠然と感じていたが、この本の中に書かれていた、『「かわいい」の反対語は何だと思いますか』というアンケート結果が、「かわいい」の強大な守備範囲を明確に表していた。

A 同語反復的なもの 
B 「美しい」などの肯定的形容詞 
C 「醜い」「気持ちが悪い」などの否定的形容詞 
D 感覚的不在・希薄さの形容詞 

Aを構成しているのは「かわいくない」の一点だけである。

(引用者注・Bで)もっとも多いのが「美しい」「きれい」である。これが男性性と関わってくると「カッコいい」「男らしい」が、成熟度が基準となると「大人っぽい」「アダルト」「完成している」「クール」が、さらに知的側面に重きが置かれると「頭がいい」「知的」「スキがない」「シャープ」「賢い」「鋭い」が、「かわいい」と対立するものを考えられている。(中略)
この系列から推測できるのは、以下のことである。「かわいい」の人格化として浮かびあがってくるものは、成熟した美しさの持主ではなく、どちらかといえば女性的で、子供っぽく、隙だらけで、たとえ頭の回転はよくなくても、従順で無垢な存在であるということだ。

(引用者注・Cでは)とりわけ「醜い」「不細工」「ブス」といった容貌に関する否定的印象が三三%。(中略)「気持ち悪い」「きもい」「変」「汚い」「不気味」「不快感」「見苦しい」といった形容詞が、それに続いて二六%。これは容貌を越えてより広い範囲で、主体の快不快を判断基準としている。最後にそれほどの量ではないが「憎たらしい」「うざい」「腹立たしい」「嫌い」「ムカつく」。「かわいい」ものとは側に置いておきたいもの、清潔で安心ができ、快適なもの、居心地のいいものであることが、ここから逆に判明する。

BとCは一見したところ、対立しているように思われる。だがDを考慮に入れてみると、「かわいい」がさらに複雑な様相をもっていることが判明する。そこでは「かわいい」に対立しているのは、他ならぬ「無感動」であり、「ふつう」「つまらない」「ダサイ」「味気ない」「興味がない」「無反応」「愛嬌がない」「シンプル」「ときめかない」「さえない」「はずれ」「そっけない」といった言葉である。
これは逆にいって「かわいい」が感覚的な躍動感を喚起し、溌剌とした生に基づいて好奇心をそそる状態であることを意味している。
(中略)
いずれにしても「かわいい」の根底にあるのは心の躍動であり、それが親しげで好奇心をそそり、かつどこかしら未完成なところをもっている。

いつのまにやら「かわいい」は「スシ」とか「カラオケ」のように国際的に通用する言葉になっているらしい。スシやカラオケが外国には無かったので、そのまま使われているのは理解できるが、「かわいい」と「キュート」は違うのかという疑問があったのだが、上記に引用したように「キュート」の守備範囲と「かわいい」では大きく違う。日本で使われている「かわいい」にあてはまる言葉は海外ではないというのは驚いた。

ここで(引用者注・諸外国での「かわいい」「美しい」の表現)興味深いのは、いずれの言語においても、「かわいい」に相当する単語にはいくぶんかの軽蔑的で否定的な含みが漂っていることであり、それは「美しい」に対応する単語を横に置いてみたときに、より明確に理解される。イタリアでも、アメリカでも、韓国でも、女性は「美しい」と呼ばれることに賛意を示すのであって、「かわいい」ではいつまでも子供扱いされているという不満、不充足感を抱くものだという意見を、わたしは機会あるたびに耳にしてきた。

アメリカでは、成熟の途中である少女それ自体が社会のなかで価値付けられることは、まずありえない事態である。

「かわいい」というのは日本独自の美学であり、それが世界を席巻しているという立場の意見も紹介されているが、僕としては以下に引用したもう一つの立場の主張のほうが納得できた。海外にも「かわいい」は沢山あることだし。

日本の「かわいい」は、世界の他の文化に横たわる「かわいい」を覚醒させたにすぎないとされる。欧米にしても東アジアにしても、「かわいい」という的確な形容詞こそ口にされていないものの、いたるところにミニアチュールのスーヴニールは存在している。幼年時代をめぐるノスタルジックな感情を物質化しておきたいという衝動は、人間心理に普遍的なものである。日本発の「かわいい」商品はそれを喚起し、消費の欲望として覚醒させたにすぎないというのが、この立場の主張である。

最後に「かわいい」の本質を分析した箇所を引用しておく。「かわいい」の本質は「きもかわ」らしい。つまり「かわいい」の本質を理解するためには「アンガールズ」を理解しなくてはいけない。グローバルでムーブメントの話が、とたんに貧乏臭くなるのだが、「きもかわ」といえば「アンガールズ」なのでしかたない。

わたしは本章の冒頭で、「かわいい」が「美しい」の隣人であると記したが、この言葉は厳密に訂正をしなければならないだろう。すなわちグロテスクであること、畸形であることこそが「かわいい」の隣人なのだ。両者を隔てているものは実に薄い一枚の膜でしかない。(中略)
そして「きもかわ」とは、この二つの世界の境界領域において生起する事件であり、それを通してわれわれが「かわいい」なるものの本質を垣間見ることもできる稀有の状況である。


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笑ビ! アンガールズ ~ナタリー~