『文盲』アゴタ・クリストフ/白水社 | 砂場

砂場

本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

アゴタ・クリストフ, 堀 茂樹
文盲 アゴタ・クリストフ自伝

この本はアゴタ・クリストフの自伝。僕は今まで読んだ小説のなかで、彼女が書いた『悪童日記』が一番好きだ。僕はこれを超える小説には生涯もう出会わないと思っている。

本書の淡々とした描写は『悪道日記』の雰囲気と似ている。子供時代の兄妹とのエピソードは『悪道日記』にそのまま繋がる。ハンガリーとオーストリアの国境近くに生まれたアゴタ・クリストフは動乱のなか祖国を脱出し、難民としてスイスに亡命をする。

朝のバスの中で、車掌がわたしの横に坐る。朝はいつも同じ車掌。太った、陽気な男だ。バスが走っている間ずっと、話かけてくる。わたしはこの車掌が何を言っているのは、よくは理解できない。が、それでも彼が、ロシアの連中がここまで侵入してくるようなことはスイス人が許さないと説明して、わたしを安心させようとしていることくらいは理解できる。彼はわたしに言う。もう怖がることはない、もう悲しむことはない、今ではもう安全なのだと――。わたしは微笑む。わたしは彼に言うことができない。自分はロシア人が怖いわけではない、わたしが悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、すべきことも、考えるべきこともないからだ、ただただ日曜日を待って、その日ゆっくりと眠り、いつもより少し長く故国の夢を見ること以外に何ひとつ、待ち望むことがないからだと――。

著者は多くを語らない。音声の消されたドキュメンタリー映像をみているような気分だ。文章に引きこまれる。100ページ程度の内容なのですぐに読み終えてしまう。ちょっと物足りないかなと思って、ページをパラパラ捲っていたら再び引き込まれてしまった。何度読んでも色あせない文章。

アゴタ クリストフ, Agota Kristof, 堀 茂樹
悪童日記