- 外山 滋比古
- 読書の方法―未知を読む
ためにある。だから「マンガでわかる○○」とか「図解××」というのは広義の読書であっても、狭義の読書ではない。同じことが書かれているとしても、ただ情報をインプットするために文章を読む場合と、難解な文章から自分の思考力によってその意味を発見することでは、脳の働きはまったく違うのだろう。などということを思った。
「著者の意図した文章の意味が絶対ではなく、それより優れた意味を読者が発見する場合もある」などなど、読者こそが主役の読書論は大賛成。現代は社会全般で受け入れられる古典がなくなって、個人個人でみつけなければならない、などどという指摘も共感できて、今まで読んだ新書のなかでは斉藤孝『読書論』岩波新書にもっとも近い。
以下、気になった文章の引用
・教科書の未知
教育では、いかに苦しくとも、未知を読ませる訓練を避けて通るわけには行かない。そのコースを示す教科書がおもしろいわけがない。学校の生徒は教科書を手にすると心が重くなる。けわしい山をあえぎ、あえぎ登って行って頂上をきわめたときには、しばらしい達成感を味わうことができる。その眺望はこの世とは思われない。そこまでの登攀のコースがけわしければけわしいほど、登頂の喜びも大きい。
・社説の未知
どうして社説がそんなに読まれないのか、学校の教科書に似たところがあるためだ。生徒にとって学校の教科書は未知の連続である。それを理解するのには努力がいる。その苦しさのため学校がきらいになる。学校の本はいやだが、マンガならおもしろいと言う。
(中略)
とりあげられている問題について、読者は一次的情報が充分でない。そういう問題についての論説、つまり第二次的情報は、かりに論じられている事柄そのものについてまったく知らないわけではなくても、まず、未知に近いように思われる。それだからこそ、社説がどこか教科書の文章のように思われもするのである。こどもは学校で未知を読みすこしづつ既知の世界を拡大しているのに、大人が逆に、安易な既知の読み方へ退行してしまい、教科書読みからすっかり縁を切ってしまっている。これでは知的進歩はあり得ない。
・批評の未知
見ていない映画の紹介は、すでに、未知を読む力をもっていないものには歯が立たないのである。そういうものについての議論である批評は、二重の未知の要素を含んでいる。いっそう理解は困難になるはずである。
批評を読むというのは、高度の読み方の作業を前提とする。批評がおもしろいという人がふえないと、教育は人間らしい人間を育てているとは言えないだろう。いかに職業的技術があっても、文化に対する広い関心をもち、新しい世界への好奇心をいだくのでなければ、教養ある人間とは言えないだろう。
映画評、劇評、音楽評、書評が本当におもしろくなったら、その人の読む力は一人前になったと考えてよいであろう。
・悪文の効果
この訳文(『抽象と感情移入』岩波文庫)は、あえて言うならば、日本語としては悪文としてもよいものであろうが、これだけの感銘を生むにはそれが必要であったのだと思われる。
この百年の日本文化は、そういう難解な翻訳を何とか読み通そうとするエネルギー、未知を読まずんばあるべからずといった気魄によって推進されてきたというのは決して誇張ではあるまい。
・表現は表現だけで読まれるべき
文学作品を読ませるのに、教室では、作者の伝記とか作品成立の事情から、ときには時代背景までが理解への手引き代わりに与えられる。これは文学国語教育としても妥当とは言いがたい。表現は表現だけで、まず読まれるべきである。
おとぎ話は何でもないようでいて、なかなか難しい。虚構である。未経験の世界であるから既成の知識やことばだけでは役に立たない。それをどうしてわからせるのか。もっぱらくりかえす。何度も何度も同じ話をしていると、やがて、全体がのみ込めてくる。わけがわかるのではない。話がそのまま頭に入って、もはや未知のものとは感じられなくなる。パターンができる。後々のフィクションの理解の原型になる。
こういう感想(著者の文章が教科書に掲載された際の感想文)を書いてくれたのだから、わからないと言っているところには答えられるだけ答えようと思って、すぐ、それはいけないと考えなおした。わからないところがあるから、そこをわかろうとしているからこそ、かれらがすこしでもおもしろいと思ってくれたとすれば、おもしろいのではあるまいか。
・古典を選ぶ
戦後において、読書百遍とか暗誦とかがほとんどなくなったのは、価値がゆらいだためである。かつての古典は、それを支えていた価値が動揺し、疑問視されるに及んで、色あせ出した。それに代わる新しい価値の定立が見られないから、新しい古典があらわれにくい。
質に不安があるから量でまぎらせようとする。
未知への挑戦である読書には、その未知がその理解に要する労苦に値するという社会的合意の裏付けがほしい。はたしてこれだけの価値があるだろうかという疑念が頭をかすめるようでは、長丁場の難行を維持しにくい。
社会全般で公認する古典が明確でないなら、個人の責任で、めいめいの古典を決定する。
(中略)
とにかく、これこそわが生涯の書ときめた本があって、それを絶えず読み返していれば、かならず、それなりの成果はあげられるはずである。流れるようにあらわれる本を次々ひろい上げて読んでいるのとはおのずから違う。
・読書の奥義
かつてのような求道的読書がすくなくなったのは、若ものが物質的に豊かのなりすぎたためであろうか。すこしばかりは貧しさを感じていないと、人間は努力をしないものである。宗教が物資的な富裕を警戒してきたのは理の当然と言えよう。
(中略)
読書にはこういうネガティヴな面を表裏をなしているらしい。いわるゆ幸福な人はなかなか読書の奥義に参入することが難しい。
・時間をかけて読む
本当に読むに価するものは、多くの場合、一度読んだくらいではよくわからない。あるいはまったく、わからない。それでくりかえし百篇の読書をすることになる。時間がかかる。いつになったら了解できるという保障はどこにもない。
(中略)
わからぬからと言って、他人に教えてもらうべきものではない。みずからの力によって悟らなくてはならないのである。
正しい解釈、解決を得るのに、「時間」が大きな働きをするのが、こういう場合で見のがしてはならないところであろう。即座の理解では時の働く余地がない。その場でわからぬことは、あれこれ時間をかけて考える。そこで時間が加勢する。一度でわからぬ文章を何度も何度も読み返す。その間に時が作用する。時間によって未知である対象も、わかろうとする人間も、ともにすこしずつ変化して、やがて、通じ合うところまで近づくようになるのかもしれない。
・文章の妥当な意味とは
文章の意味として、かならずしも、その筆者の考えがもっとも正しいという保障はないということを知るのは、読みの考察には欠かすことができない。妥当な意味とは、存在するものではなく、発見されるものである。
筆者の意図したのも、ひとつの意味であって、決して絶対的なものではない。ときには、読者がよりすぐれた解釈を発見するこもありうる。
・古典は読者がつくる
古典化は逆から見れば、作者の意図した意味からの逸脱である。いかなる作品も、作者の考えた通りのものとして、古典になることはできない。だれが改変するのか。読者である。
未知を読む読者は、たえず誤解と理解のすれすれのところを歩んでいる。よるべきものがなければ、自己のコンテクストに導かれるほかはない。未知を読むことは、しばしば、読者の自己を読むことになる。それが小さな自我でなくて、大きな人間性に裏打ちされているとき、そこに万人の認める"発見"がある。古典はその結晶だ。作者は作品を生む。読者は古典をつくる。読みは、かくして、きわめて創造的でありうる。