- 茂木 健一郎
- 「脳」整理法
僕の茂木健一郎に対する予備知識は「脳科学者」「最近、人気があるらしい」だけだった。最先端の脳科学の観点からみた情報整理について書かれた本だと思い(タイトルも「超」整理法」とかかっているし)買ったのだが、読み終えてみてもなにやら腑に落ちない。
科学者なのに、書いてある内容はなにやら啓蒙書のようだった。この本はなんだったのだろうと思っているところに、今年の三月号の「オール読物」に鏡リュウジと茂木健一郎の対談を発見。タイトルは「スピリチュアル旋風を解き明かす!」目を通すと、次のような一文があった。
鏡リュウジ
根本的なソリューションではないのですが、僕の中では茂木さんの本を読め、というのがあります。持ち上げるわけではありませんが、今、文章を書いている人達の中で、一番スピリチュアルなのは茂木先生だといつも言っているんです。
……特に興味もないのに僕はスピリチュアルの本を読んでいたらしい。確かに、スピリチュアルというのは生き方の指針のようなものであり、それは世界をどう捉えるかという認識の問題に違いない。もちろん脳の研究では認識というのは重要な分野だ。特に茂木健一郎は「クオリア 」(意識にある状態で感じる様々な質感?)という認識の根源ともいえるものを研究しているので、そのあたりからスピリチュアルに繋がってくるのだろうか。
本書のキーワードは「世界知」「生活知」そして「偶有性」。クオリアは分からなくとも、この3つを押さえておけば本書は理解できる。
・世界知とは、私たち人間が住む世界は「このようになっている」という世界観にかかわる知。近代においては科学が骨組みを提供。
・生活知とは、一人の人間として生きていく中で、いきいきと充実した人生を送るために必要な知恵。私たちの生活実感、哲学や思想、文学、道徳、人生訓などの知的探求によって支えられる。生まれた時から学び始める生きていくための知識。言葉や感情表現などのコミュニケーション能力などもこちら。
・偶有性とは、半ば偶然、半ば必然に起こること。
以下、気になったところ。
まえがき
人間の脳は、単発的な機能を果たすための臓器ではなく、より広く人間の知性一般、世界観一般を支える「魂の器」なのです。
第1章 脳は体験を整理し、知を創造する
科学は、決して万能ではありません。それでも、科学技術文明が、現代の人間生活の隅々までを満たすようになってきていることも事実です。そのような変化を背景に、「いかに生きるべきか」という生活知において、科学的裏づけを求める人びとの要求も高まってきています。昨今の脳科学ブームも、その一つのあらわれでしょう。
「偶有性」こそが、私たちが一人称の生を生きる「生活知」、さらにはそこからミネルヴァのふくろうのごとく飛翔した「世界知」を生み出す「脳」整理法を駆動するエンジンです。
「カオス」では、あるシステムの最初の状態がほんの少し変化するだけで、その後の軌跡が大きく異なってしまいます。このような「初期状態依存性」があると、統計的な平均をとってその性質を論じる、というアプローチでは本質をつかみ損なってしまいます。一つ一つの軌跡の一回性に寄り添って考えなければ、本質は見えてこないのです。
現代を生きるうえで、科学的知見を無視するのは愚かなことです。(中略)現代においては、むしろ、夢や愛情を大切に、人間らしく生きるためにこそ、科学的知見が必要とされているのです。
第2章 生きて死ぬ人間の知恵
科学技術の有無を言わせぬ力に背中を押されて前に進む現代人は、一人残らず、「何をしても結局物質のふるまいとしては同じなのだ」という究極のニヒリズムを胸の中に抱えて生きている
第3章 不確実な時代こそ脳が生きる
厳密にいえば、ある事象が完全にランダムに起こっていると数学的に証明することは、きわめて難しいことが知られています。したがって、「このような規則性があるはずだ」と推定してかかるギャンブラーの態度は、必ずしも間違っているというわけではありません。
科学の発達は急速です。素粒子から宇宙、分子生物学から脳科学まで、科学が提供する「世界知」に、私たちの「生活知」がなかなか追いついていないというのが現状です。しかし、こと偶有性の問題に関していえば、「生活知」のほうが、「世界知」よりもはるかに先を行っているといってもよいのです。だからこそ、偶有性を研究する脳科学者、認知科学者は、いま、日常の中で積み上げられてきた人間の知恵に学ぼうとしています。
私の「心」をつくり出している神経細胞の結合様式は、決して同じままとどまることはありません。神経細胞はつねに自ら活動を続け、脳の成り立ちは一瞬たりとも止まることなく変化するのです。(中略)どうせどうなるかわからない人生を生きるのであるならば、自分の脳の中のインフラを信頼し、自分の目の前にある偶有性を避けるのではなく、その中に飛び込んでいくしかありません。偶有性の海の中で自らの有限の立場を引き受けて生きていくことが、最良の「脳」整理法であり、世界知と生活知を一致させる道なのです。
第4章 偶有性が脳を鍛える
よく設計された占いは、必ず、ある程度予想がつくような規則性と、その一方で「意外な」驚きの要素に満ちています。脳に、偶有的な刺激を与えるように設計されているのです。その意味では、よい占いの文章を書くという行為は、一つの芸術であるといえます。
私たちの脳は、自己の範囲、自分の身体の範囲を、成人になっても遇有的/ダイナミックに表現し続けることによって、環境との時々刻々変わる相互作用に備えているのです。
祈るだけで、ものごとがコントロールできるのならば、それほど楽なことはありません。良質の宗教的感覚を持つ人は、祈りが時分の無力感の認識であることを知っています。自分のコントロールの及ばないこと、自分の無力さを思い知らされる対象に対してこそ、祈りを捧げるのです。
私たちは、占いでも、「ギャンブラーの偏見」でも、使えるものは何でも総動員して、この世界の中における体験を、何とか整理し、理解しようとします。そこに立ち現れるものは、科学のような洗練された「世界知」ではありませんが、「世界知」と「生活知」がいわば未分化のまま姿を現すだけに、かえって、偶有性の海の中を泳ぐ人間の姿をリアルに伝えてくれるのです。
第5章 偶然の幸運をつかむ脳の使い方
「セレンディピティ」という造語の元になったのは『セレンディプの三人の王子』という童話でした。(中略)三人の王子は旅をする中で、自分たちが求めていたものではないものに出会います。そのような偶然の出会いが、結果として王子たちに幸運をもたらしました。そのような偶然の幸運に出会う能力を、ウォルポールは「セレンディピティ」と名づけたのです。
それまでの考えを一変させるような大発見には、必ずといっていいほど偶然の幸運に出会う能力が関与しているのです。セレンディピティこそが、科学を支えてきたというのは、イデオロギーでもファンタジーでもありません。それは、厳然たる経験的事実なのです。
「行動し、気づき、受容する」
先に挙げたセレンディピティを支える要素は、科学に限らず、すべての人生の営みにおいても大切なものです。そして、ここにこそ、科学のような「世界知」と、私たちが一人称の人生を生きるうえでの「生活知」の間を橋渡しする契機があるといえるでしょう。
偶然素敵な恋人に出会う能力と、偉大な科学的発見をする能力は、実は同じである。
第6章 「自分」を離れて世界を見つめる
科学的世界観とは、理想的には、あたかも「神の視点」に立ったかのように、自らの立場を離れて世界を見ることによって成り立っています。そのことを科学者たちは、「ディタッチメント」をもって対象を観察する、と表現します。
「パフォーマティヴ」とは、事実もしくは真理にもとづいて自分の議論を淡々と述べるのではなく、それが論壇において、あるいは現実社会においてどのような効果を与えるのかを、あらかじめ計算して言葉を選ぶ態度を指します。
たとえば、人間関係における言葉の用法は、ほとんどがパフォーマティブなものです。(中略)言葉のパフォーマティヴな側面を効率的に駆使できることこそが、人間らしいコミュニケーションの要諦であるように思われます。
とりわけ、今日のようにグローバルな結びつきが強固になる中で、ときに異なる宗教、言語、文化の間で緊張関係が高まることもある時代においては、いたずらにパフォーマティヴな言説の海に溺れることなく、世界の現状をあたかも机の上のオブジェを見るがごとく、ディタッチメントをもって観察し、思考する態度がどうしても必要になると思われるのです。
第7章 「他人」との関係から脳が育むもの
「私」という自我が形成されていく過程において、「私」と環境の間に存在する相互作用は、徹頭徹尾偶有的なものであることに注目すべきです。(中略)私たちは、半ば過去の履歴から予想がつく存在ではあるが、その一方で私たちをつねに驚かし、期待を裏切るランダムな挙動をする存在でもある、まさに偶有的な存在としての他者に心惹かれ、その他者とのコミュニケーションから多くのことを学びながら、自我を確立していくのです。
科学的世界観によって象徴されるような公共的「世界知」が、私たちの個々の生と深く関係した「生活知」とのいきいきとした関係性を失うのも、それが偶有性を伴って知覚されなくなってしまったときです。「世界知」と「生活知」の間の乖離は、「世界知」が絶対的なものだと認識され、偶有性の喪失が起こるときに始まります。
元来、国家というものは偶有的存在のはずです。国家の基本属性である「領土」や「国境」にしても、歴史的にそれが決定されるプロセスは、まさに偶有的です。国家と国家の境界線の確定は、私たちの身体の範囲が環境との遇有的相互作用を通して決まっていくプロセスと、多くの共通点を持っています。
ところが人間には、国境線を、絶対的な「規則」として確立したいという欲望が存在します。そのような欲望と、本来偶有的であるはずの国民国家をめぐる歴史的プロセスの間に齟齬が生じるとき、そこに紛争が生まれるのです。(中略)「日本」や「日本人」といった概念が、偶有性を失って固定されたものになるとき、どのような弊害が生じるか、私たちはすでに知っています。
第8章 主語を入れ替えて考える
自然言語は、本来、偶有性をもっています。(中略)「神」という言葉にしても、その使われ方は、一回ごとに、その置かれた文脈や経緯などによって少しづつ変わっていきます。そして、それぞれの言葉の含意も、それが使用される偶有的な事例の積み重ねによって脳の中で整理されて、しだいに変化していきます。
世界をお互いに動かし難い個物の集合に分裂させてしまうのではなく、お互いに操作によって変換可能なものの集合に置き換えていくこと、そして、そこにいきいきとしたダイナミクスを立ち上げることこそが、科学的な精神の最良の部分なのです。
第9章 脳に勇気を植えつける
自分のプロフィールを見て、「これは誰のことだ」と違和感を覚える気持ちは誰にでもあるはずです。止まってしまっている情報には、私たち人間という存在を考えるうえで欠かすことのできない生命の躍動(エラン・ヴィタール)が欠けてしまっているのです。
偶有的な世界におけるさまざまな事象の進行においては、現実に起こったことと同じくらい、起こったかもしれないことが大切になってきます。(中略)(恋愛に関して)その人の脳の中では、現実の表象と反現実、仮想の表象が複雑な多様性として絡み合い、驚くほどダイナミックな心の動きを生じさせているのです。そこには人生でもっとも切実で甘美な偶有性の束が立ち現れています。
人生の本質は、予測不可能性、制御不能性、不確実性にあります。成功するかどうかわからない、不確実な状況に直面したときに、不安な気持ちを乗り越えてチャレンジし、それが成功するといった体験が一度でもあると、「不確実な状況下でチャレンジする」という脳のルートが強化され、そのような行動が苦労しなくても無意識のうちにとれるようになります。
第10章 「脳」整理法ふたたび
現代社会でにおいては、何かを無から生み出したり、いままで知られていなかったことを「発見」したりするよりも、むしろすでにあるもの、世の中に存在して流通しているものを「整理」することこそが本来的な命題になっている
文明が発達し、人工物の「生態系」が高度なものになるにつれて、人工物の世界は、個々のものの存在の重さに寄りかかるというよりは、むしろ多数のサンプルの存在を前提にした整理、選択の時代にシフトしてきました。「マニア」や「オタク」といった人間類型は、そのような人工物の高度化なしにはありえないことです。
科学は、「生活知」から「世界知」を切り離すことで進展してきました。一人称の「個」として世界に生きるという「知」のあり方から、「個」を離れて世界を客観的、ありのままに見るという「知」のあり方を分離することで科学は成り立ったのです。
私たちの生の輝きの本質は、決して確率などになく、「かけがえのないこの私」に寄り添った偶有性の中にしかないことは事実です。二つの「知」が統合されるのは残念ながらまだまだ先のことになりそうですが、「偶有性」を手がかりに人間について考えるだけでも、自分の、そして世界にあふれる他者の生命の輝きが増して感じられることだけは、確かなのです。