奈緒は古川の前でも優斗の話はしない。


あの日、海辺で困っている奈緒を助けた日、あの時だけ。


古川もわからなくなっていた。


奈緒に対する気持ちが何モノなのか。


奈緒の心がわかるから力になってやりたいと思った。


恋愛とは違うモノだと。


奈緒の穏やかな寝顔を見つめながらいつの間にか古川も眠っていた。


ゆっくり目を開ける奈緒。


隣りで古川が眠っている。


ソファーで眠ってしまった奈緒にフカフカの毛布が一枚掛けてある。


古川さん、どこまで優しい人なんだろう。


この人の寝顔、初めて見る。


静かだ。


もう二度と目を覚ますことがないような不思議な感じ。


「リュウ。


リュウ・・。


そう小さな声で呼んでみる。


奈緒の隣りで深い眠りの中にいる。


映画のスローモーションのように奈緒の顔がゆっくり古川に近づく。


そして・・奈緒の唇が古川の唇にそっと触れる。


(これって反則よね。


私、何やってるんだろう。)


急に恥ずかしくなって両手で顔を覆う。


眠っている古川をじっと見つめながら考える。


私はこの人を好きになったのかな?


あの日、冗談のように『俺を好きになればイイ』そう言って・・。


今、その時の古川の心がわかる。


『俺を好きになればイイ。』


それは奈緒のための言葉。


行き場のない奈緒の思いの居場所。


古川の気持ちは入っていないのだ。


自分のため・・古川にはそれが無い。


こんなに素敵な人なのに彼女もいないなんて考えられない。


近寄ってくる女の子たちを寄せ付けない何かがあるのだろう。


奈緒は、それを考えながら古川に寄り添ってもう一度目を閉じた。


グッスリ眠って目を覚ますとそこに古川の姿がない。


奥の部屋から音楽が聞こえる。


ガラスの扉の向こう側は薄暗い。


小さな明かりが灯されている。


そこでソファーに身を預けている古川。


どこかで耳にしたことがある曲。


ヴァイオリンの音色に引き付けられる。


軽くノックするとゆっくり古川の顔がこちらに向く。


見間違いかと思った。


暗くてはっきりは見えなかったが、古川の目には涙が光っていた。


奈緒は思わず扉に背を向けたまま動けずにいた。


少しして古川は部屋の外に出てきた。


「古川さん・・、私・・。」


思ってもいないことを突然目にして頭の中は混乱していて言葉は出てこない。


ただ、じっと古川を見つめた。


「奈緒、俺は大丈夫だから何も心配しなくていいよ。」


いつもの優しい笑顔がそこにある。


「そろそろ家に帰った方がいい。


送るよ。」


「はい。」


奈緒はいろんな疑問の中のたった一つも古川に聞けないままだった。

e+のGLAYのライブのチケット抽選結果発表日だったのですが・・落選です。


残念です。


今回ホールなので難しいとは思っていましたが・・。


ファンクラブに入っているお友達といつも一緒に連れて行ってもらっていたんだけど、今回はそう簡単にはいかないようです。


次は一般発売になるんですが・・さらに厳しくて行かれないかもしれない・・って嫌な空気が流れてきそうです。

「準備出来ましたよ。


温かいうちにいただきましょう。


あっ、私が仕切っちゃダメですよね。」


「そんな奈緒も可愛いよ。」


「こんな素敵なところで食事してるなんて、ママゴトしてるみたいで楽しいです。」


「奈緒、いつでも来てイイよ。


キミがそれを望むのなら。」


「からかわないでください。


これ、すっごく美味しいです。


古川さんって、何でもできちゃう人なんですね。


苦手なことって無いんじゃないですか?」


「そんな風に見えるかな~?」


「はい。」


どうでもいいような話をして、たくさん笑ってお腹も膨らんだ。


「私が片づけますから、休んでいてください。


美味しいお昼のお礼です。」


見る見るうちにキッチンは元通りすっきりした。


古川はコーヒーを入れて奈緒にすすめる。


「奈緒、今もアイツのこと思ってる?」


「・・・。」


「あの日、『俺を好きになればイイ。』って言ったの覚えてる?


あれ、本気だから。


奈緒にあの時あんな風に言ったのは、また次に誰かを好きになるまでの間、近くで見守っててやりたいと思ったからなんだ。


深く傷ついているのに必死にそれを見せるまいとしている姿が痛々しくてね。


俺はもう二度と誰かを特別大切だと思うことは無いと思っていた。」


奈緒は黙って聞いている・・のではなく眠っていた。


そう、古川と一緒だと眠れないことが嘘のようにぐっすりと眠れる。


安心しきっているのだ。


(まあいい、この話は次の機会にしよう。)


どんなに傷ついていても眠れるうちはまだよい方。


だんだんと眠れなくなる。


真っ暗な世界。


静かな世界。


それがとても長く感じてくる。


古川は知っていた。


その苦しみや恐怖を・・。


奈緒は今日も眠りながら泣いている。


(アイツのことを思ってるんだな。)







「さあ、乗って。」


「はい。」


古川の車がゆっくりと走り出す。


「身体はもう大丈夫なの?」


「いろいろ心配かけてすみませんでした。


本当はすぐに行きたかったけど、俺が学校に行くのもどうかと思ってね・・。


この前の弁当のお礼に昼飯、ご馳走するよ。」


「そんな~、でも嬉しいです。」


奈緒の笑顔がキラキラしている。


「模試、どうだった??


出来た??


志望校って決めてるの??」


「・・・。」


奈緒は黙ってしまった。


どう答えたらいいのかわからなかったから。


「ゴメン、変なこと聞いちゃったみたいだね。


俺に話さなきゃいけないことでもないもんな。


話題変えよう。」


「古川さん、私、自分がどうしたいのかわからないんです。


何も決められなくて。」


「そっか・・。


誰だって迷いながら生きてるさ。


大学で何か見つかるといいな。


ここだよ。」


「えっ、ここ?


どこですか??」


「驚かせてゴメン。


俺のマンションなんだ。


今日は俺の手料理をご馳走しようかと思ってね。


朝から準備してたんだ。」


いきなり・・彼のマンション??


そう思った奈緒だったが、何も言わずに従った。


大きな通りに面した新しいマンションの最上階。


「その顔は・・驚いてる顔だね。


これは父の持ちモノなんだ。」


「すご過ぎます。


私には考えられない世界です。」


「そう??


奈緒が当たり前に手にしてるモノを俺は持っていないかもしれない。


さあ、ここに座って。」


「えっ、私も手伝います。


何をすればいいか言ってください。」


トマトベースのよく煮込まれたソース。


茹であがったパスタを手早くフライパンの上で絡めて盛り付ける。


冷蔵庫にはサーモンのマリネとコーンスープが収められていた。


「中の出していいんですよね。」


「ああ。」


「奈緒、すごく手際いいな。」


「母がずっと勤めていますから、少しは料理とかできるんですよ。」


古川はあの日の弁当のことが頭の中にスッと浮かんだ。


食器棚の中にある上品で使いやすそうな食器。


古川が選んだのだろうか。


それとも・・この人につり合う素敵なヒトがいるのだろうか。


奈緒の心の中に嫉妬のような感情が生まれた。


「古川さん、ここの食器出して使ってもイイですか?


どれにしようかな~。


どれも素敵なので迷いますね。」


「ああ、安江さんはパーフェクトだからな。


俺のことを『お坊ちゃま』そう呼ぶことを除けば。」


思わず笑ってしまった。


古川も同じように笑っていた。

少し得意なところから出題されていた数学、思っていた以上にできた気がした。


英語は出来なかった・・いや全滅に近いかも。


陽子と二人帰り道に、あそこの問題がどうだったとか言いながら教室を後にする。


「あっ、私これから古川さんと昼ごはん行くんだった。


陽子も一緒にどう?」


「あなたね・・。


私はこれからバイト。


奈緒、いつまで『古川さん』って呼んでるのよ。」


「そうよね~。


でも、何て呼んだらいいかわからないし。」


「奈緒って中学生みたいなこと考えてるのね。


あっ、最近の中学生だってそんなこと考えてやしないと思うわ。」


二人で話しながら下る坂道の先に紺色の車が見える。


ドアが開いて古川の姿が見えた。


「奈緒。」


軽く手を上げてそう声をかける。


「じゃあね。」


陽子に短くそう言うと古川の待つ方へ急ぐ。


(ふ~ん、心配して損しちゃった。


あの二人、結構イイ感じになってるじゃん。)


「陽子、ちょっと待ってくれよ。」


後ろから呼ばれて立ち止る。


そこには急いで走ってくる優斗がいた。


「昨日はありがとな。


『こんなこともうしないで』って言われたよ。


『津田君』って呼ぶんだ、俺のこと。


すごく寂しい気分になったよ。


別れて友達に戻るどころか、すごくキョリ置かれた感じがした。」


二人はスタスタと坂を下りながら真面目な顔で話していた。


「優斗が奈緒の手を離したんだからね。」


「ああ。


さっきの人、奈緒が付き合ってる人?


あの人って古川さん?」


「そうよ。


それがどうかしたの?


優斗、奈緒にはもうかかわらないで、わかってるの?


優斗に別れようと言われた日、一日だけ奈緒は泣いた。


夕方、私の家に来てから夜通し。


私はそんな奈緒の傍にいた。


そんなことしか私にできることはなかったのよ。


考えてみ・・、あの泣き虫の奈緒がそれから一度もグズグズも言わなきゃ、泣きもしない。


その意味を自分で考えてみたら。


優斗が決めたことなんだからね。」


「わかってるよ。


将太にも同じようなこと言われた。」


「そう、わかってるならいいわ。


じゃあ、私これからバイトだから。


「ああ。」