最初に少し言葉の使い方を考えてみます。
ある物事に対して「わからない」
と表現した場合なんですが、
逆に「わかる」とはどういう状態なのかを先に考えた上で、
「わからない」とは何かをみていきましょう。
「わかる」ようになるのは、人によってそれぞれ微妙に違っています。
たとえば、わからないから、わかるようにその物事に関する情報を大量に提供したとします。
情報を詳細に伝えることによって「わかる」という状態になるのかというと
逆にその情報が詳し過ぎて、「難しくて」わからない
となるケースが往々にしてあるんですね。
簡単すぎても、どうなっているのかという疑問が湧き、「よくわからないなあ」ということになります。
特に新しいことを誰かに教えるときに、このような状態が生じます。
これは「わかる」=「納得する」ということでもあり、
そこには情報量としての「知」による理解よりも、
感情面においての「納得」の方が強いわけです。
神様の存在についても、存在する証拠をいくら並べ立てて説明をしたとしても、
「それはそうかもしれないが、だからいって確実に存在するとは限らん。
やっぱりわからないのだ」
と言ってくるわけです。
わからん、と意固地になるその感情が正しい情報の理解を邪魔するのです。
目にみえるものであれば、
「ほら、こうでしょ」
と説明もしやすい
また、理解できなくても、同じ条件下で何度でも再現できるような科学的根拠を提示できれば、仕組みがどうであれ「納得」するわけです。
このように
「わかる」とは、気持ち、感性に非常に大きく左右されるということで、
情報はそれを裏付ける証拠であります。
性差による納得の仕方の違いもありますよね。
男性の場合、より情報量を要求し、論理性、秩序などを重要視して、
最終的に自分の中に落としこみながら「納得」する傾向があります。
一方、女性は「感性」の方が先行する傾向が強いのではないでしょうか。
理論理屈よりも、自分の感情をたよりにし、そのうえで「納得」するというものです。
どちらにしても、「わかる」「納得する」というのは、
知的情報量よりも、心の感性の部分の影響が最も強いということが、
それこそ「わかって」いただけたでしょうか?
ということは、「わからない」というのは、心が「感じない」という状態であり、
「わからなくなった」というのは、
その「感じなくなる」状態に陥ったことを意味していることになります。
ですから、
人が神様をわからなくなったのは、人と神様の心情的関係に、何かの原因で亀裂が入り、
人の心が神様の存在を「感じなくなってしまったこと」だと言えますから、
そのような人間の心の性質を知った上で、
この「神様がわからなくなった理由」を紐解いていかなければならないのです。