「救い」ということを考えた時に
二つの立場があることがわかります。
すなわち、救う立場と救われる立場。
では救われたいと願う人をいったい誰が「救う」のでしょうか?
それから
救われた状態とは、いったいどのような状態なのでしょうか・・
たとえば
水に溺れている人を救助する場合
救助する方は、より安全な場所にいるか、その場所へ導く力がある側の人でなければなりません。
助けてくれ~ と叫んでいる人に手を伸ばし、救おうとするけれども、
救う人が再び危険な場所に助けを求めている人を案内するならば
危険な状態は一向に改善がなく、かえってもっと悪い立場に立つ可能性だってあるわけです。
ですから「救い」とは、ある目標とする場所があるということです。
危険でない、安全で平和な場所があるということを意味しているのです。
宗教的に人間を見れば、
「救い」という言葉が出てきている以上、
人間自身が、本来の健康で、平和で安全な状態ではないということを意味しています。
神様によって創造された「人間」が、どうして救われなければならない状況になってしまっているのでしょうか。
その原因、そしてそうなってしまった経緯、などを詳細に知らなければ
人が「救われた」状態にはならないでしょう。
また、神様がいらっしゃるのなら、神様の存在さえもわからなくなってしまっている人類をどのような方法で「救って」いかれるのでしょうか?
色々と考えていくと、様々な疑問が生まれていきいます。
まさにこれらのことが、神様の「事情」なんですね。