宗教を信じる人は「救われる」という言葉を使用します。
「救い」とはなんでしょうか。
宗教が嫌いな人はこの「救われる」という言葉が嫌いです。
なぜなら、別に救ってもらわなくても立派に自分の足でしっかりと立っている、或いは立てる自身があるというからです。
宗教に頼らなくても良いということでしょうね。
ところが、
そんな人の中でも、自分の力ではどうしようもできないところまで追い込まれた時に
特に窮地に立たされた時に、すがるような思いで神を呼び、それこそ「助けてほしい」と
救いを求めることがあります。
自分の立場が、本来の理想とする状態から大きく逸脱している時に
人は現状を脱却したくて、救われたい思いにかられるというのです。
罪を実感している人にとっては
その罪から解放されたいと願うでしょう。
結局「救い」「救われたい」とは、本人自身がそう感じない限り、どうすることもできないということになります。
宗教者が「伝道」と称して勧誘活動をするのは
自らが救いの実感を持っていることと、そこで受けた言い知れない解放感、喜びをみんなにも味わってもらいたいという動機があります。
キリスト教の信徒は、「イエス様を信じなさい」「イエス様を信じれば、あなたの罪は解放され、救いに預かり、昇天して天国にいくでしょう・・・」
と言いながら宣教活動を行います。
しかし、はたして、信じれば罪が許され、救いにあずかり、天国にいけるのでしょうか?、
聖書ではイエス様が「主よ、主よと叫ぶものが天国にいけるのではない、主のみ心のままに行うものが
天国に行く」と語っておられます。
結局この世界を天国に変えて行くのは、見えない神の力というよりも、見える人間の力によってなされるということを肝に命じなければなりません。
他力本願ではなく、自力本願こそ、「救い」に向かう道であるということです。