なんにもない | サミーの「我がJW人生に悔いなし!」

サミーの「我がJW人生に悔いなし!」

0歳から30年以上に渡るJW人生・・・
JWの表も裏も知り尽くした?元長老の心の叫び(なんて大したものではなく)

我がJW人生に悔いなし!と思いたいがために
あれやこれやと書き連ね、自分の心を整理するためのブログです^_^;



JWの活動を止めてから私はあることに気付いた。

それは、自分には「なんにもない」ということだ。


学歴も資格も技術も社会の常識も慣習もマナーも、この世の中で生きていく上で必要とされるものはなんにも持ち合わせていないことに気付いた。


JWの現役時代は、私はすべてのものを持っていると思っていた。

唯一真の神に仕えること、将来の希望、神の言葉である聖書の知恵、幸せな家庭、数多くの友人、組織の中での立場、自分が積み上げてきた何十年もの霊的な記録など。

しかし一旦組織から外に出てみると、自分がよりどころにしていたものは何の役にも立たなかった。

そして、むしろどうでもいいプライドだけが残った。約20年も開拓奉仕をしていたとか、長老として働いていたとか、何人の人をバプテスマまで導いたとか、色んな難しい問題を解決したとか。

自分が誇りに思っていたことのすべては、世間一般の人からしたら「はあ?それがなにか?」そんなレベルだ。

どうでもいいことや何の役にも立たないことを、さも素晴らしくて立派な経歴のように感じていた自分を恥ずかしく思った。

聖書の中でキリスト教に改宗してからのパウロは、かつてユダヤ教を信奉していた時代の数多くの特権や恵まれた自分の立場のことを「ちり・あくた」のように感じたと述べている。

私もJWとしての活動を止めてからは、JW時代の自分が得ていた立場や数多くの特権と呼ばれていたものを「ちり・あくた」のように感じたのは、ほんとうに皮肉なことだと思った。

過去の栄光などどうでもいい。そんなことを認めてもらえるほどこの世の中は甘くない。みんな自分を生きるのに必死なのだ。人の過去の苦しみや悩みなどに同情や感情移入している暇などないのだ。

自分の過去を分かって欲しい、こんな辛い過去があったのだ、自分の不幸な生い立ちを理解して欲しいと切に願ったそんな時期もあった。

でもそんなことは単なる甘えだ。

じゃあ同じように誰か他の人の過去をお前はすべて理解できるのか?自分にそう問い質した。

人のことを理解できないくせに、なぜ自分のことだけは理解してもらおうとするのだ。その傲慢で身勝手な態度は一体どこからでてくるのか。

JWの現役時代、私はこんなことをしていました、あんなこともしていました、そしてこんな傷があります、こんな辛い思いを今経験しています。だからどうか分かってください。

しかし、そんなことはどうでもいい。

自分の過去の栄光も受けた傷も、どうでもいいことなのだ。


自分を大事にとか、まず自分を愛しましょうだとか、昔の傷はきちんと癒さないといけないとか、色々な考えがあることは知っているし、それなりにその分野のことは勉強もした。

しかし他の人は分からないけれども当時の自分は、自分には「なんにもない」ということを謙虚に認める必要があった。自分を憐れんではいけないと思った。徹底的に自分を踏みつける必要を感じた。

すべてを手にしていると、すべてを持っていると勘違いをしていたことを素直に認め、今の自分には「なんにもない」のだ、ということを自分に言い聞かせる必要があったのだ。

お前がJWの現役時代にやってきたことなど、どうでもいいことなのだと。この社会からしたら何の価値もない、価値がないどころか社会の悪にもなっていたということを徹底的に認める必要があった。

何十年もどっぷりとこの組織に浸かり、長老として多くの人たちを誤導し、その立場ゆえに自分自身の自尊心や承認欲求を満たしてきた人間は、そこまでして徹底的に自分を破壊しなければまともな人間として生きていけないと思った。

自分をどん底まで落とし、実は「なんにもない」人間だったのだということをこれでもかというほど自分に分からせることが必要なのだと自覚した。


そしてそこから這い上がり、今度こそほんとうに価値のあるものを提供できる人間にならなければいけない。

ゼロから、いやマイナスからの再スタート。
でもそれも仕方のないことだ。

世間一般の方々が死に物狂いでこの世の中で生きている間、自分はお花畑の社会の中で何も考えず、のほほんと無駄な時間を過ごし、多くの周りの人からチヤホヤされていい気になっていた、そんな人間だったのだから。

自分には「なんにもない」という、そのことを認め受け入れること。

私のJWとの決別と再生はそこから始まりました。