サミーの「我がJW人生に悔いなし!」

サミーの「我がJW人生に悔いなし!」

0歳から30年以上に渡るJW人生・・・
JWの表も裏も知り尽くした?元長老の心の叫び(なんて大したものではなく)

我がJW人生に悔いなし!と思いたいがために
あれやこれやと書き連ね、自分の心を整理するためのブログです^_^;

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少し前にある方からメッセージをいただいた。その方はJW組織から抜け出したものの、孤独や罪悪感など複雑な感情を味わっている最中で、なかなか前向きになれないということだった。また、サミーさんが今とても元気なことは分かるのですが、元気になる前がどういった状態だったのかできれば書いて欲しい、そしてどうやって立ち直ったのかも。それを知ることで逆に力をもらえるように思う、というような内容でもありました。

 

 

それで私がJWとしての活動をやめた直後、私が闇の間(笑)と呼んでいる時期のことを書いてみたいと思います。こんな辛い時期があっても、やがて元気になれるという誰かの励みになれたら。

 

闇の間の状態

 

・集会や奉仕に行かないことへの罪悪感

・霊的な活動をしていない自分はダメな人間だという強い思い

・妻が集会に行っている間、家で一人でいることへの罪の意識

・かつて集会に行っていた時間になると精神不安になり吐き気や頭痛がする

・町で奉仕している人たちを見ると強まる罪悪感

・自分の人生は無駄だったのではないかという思いに囚われる

・家族や兄弟や友人と疎遠になることからくる孤独感

・不眠

・悪夢

・時々原因不明の吐き気やめまい、涙が止まらず自暴自棄になるなどの情緒不安

・聖書や出版物への過度の拒否反応

・信じるものや生きがいを失ったことの喪失感

・今後の人生への絶望

・死にたいという気持ち

・親を悲しませているということへの申し訳なさ

・何をやってもむなしく、喜べない

・雷が鳴ると神に撃たれるのではないかという恐怖感

 

など

 

ざっとこんな感じでしょうか。

 

 

JWを辞めた直後から4,5年はこんな調子が続きましたね。病院に行くとうつ病と診断され薬を飲むことになりそうなので、それが嫌で病院には行きませんでしたが、行けばきっとうつ病と言われたことでしょう。

 

これがカルト宗教を辞めた人の誰もが通る辛い後遺症なんだと思います。

 

 

私の場合はそれに加えて、開拓者や長老として組織の拡大に貢献してしまったという罪悪感も強いものがありました。多くの人を組織に引き入れてしまいましたし、組織に留まるように励ましてもきました。無知とはいえ、多くの人の人生を狂わす片棒を担いでしまったことの罪深さはこれからも感じながら生きていくのだと思います。

 

 

どうやって回復していったのかは長くなりそうなので、詳しくはまた別の記事で書きたいと思いますが、簡単に言うと私がやったことはとにかく色々な情報を取り入れることでした。他の宗教書、JWを批判している書物、哲学、心理学、自己啓発など、JWが禁止していた資料を読み漁りました。また、役立つと思えるセミナーなどにも出かけて行って、とにかくJWの教えしか知らなかった私の脳にたくさんの情報の波を送り続けました。

 

 

初めはまだJW思想に囚われていたので、受けた情報を否定したり受け入れられないと感じる時もありましたし混乱もしました。でも徐々に受け入れられるようになりましたし、情報の正誤の見極めもできるようになっていきました。気に入った言葉を書き留めたり、自分のためになる考え方を実践する努力も払いました。

 

中でもアドラー心理学はとても役立ちました。ちょっと過激な考え方でもあるのですが、私の場合は回復に非常に役立ちました。

 

 

また、新たに知り合ったお友達の優しさに何度も助けられました。わたしたちがサタンの世と毛嫌いし、避けていたこの世界は優しさで溢れていました。カルト宗教に40手前までどっぷり浸かっていて世間知らずな、周りから見たらかなり変わったおじさんだったと思います(笑)それでもみんなが優しく受け入れてくれました。

 

 

家に呼んでくれたり、一緒にキャンプに連れて行ってくれたり、飲み歩いたり。きっと、こいつ何かちょっと変わってるなーってみんな思ってたと思うんです(笑)それでも優しかったです。きっと色んな人に迷惑をかけたりしてきたんだと思います。でも、そういった優しい人たちのおかげでかなり回復できたんだと思います。

 

 

どんな過去があってもそれが自分の人生だったのだと受け入れていくこと。親のせいや組織のせいにしたところで、何も終わらないし何も始まらない。自分の過去に不平や不満を言う暇があるのなら、未来に希望と夢を語ろうと決意して歩んできました。

 

 

JWのようなカルト宗教の家庭に育つということは、簡単に言うと機能不全家庭に育つということだと思います。子どもが子どもとして扱われない、純粋な親の愛情を味わえない、しつけと称した虐待を日常的に受けるなど。子どもの人格形成に多大な悪影響を与えることは間違いありません。

 

 

でも、そういう家庭に育ったこと、カルト宗教の子どもとして生まれたことを、もう受け入れるしかないのだと思います。それを受け入れてからすべてが始まるように思います。

 

 

カルトの影響力から立ち直るために色んな資料を読んできましたが、特に自分にとって励みになった一文をご紹介したいと思います。「カルトからの回復-心のレジリアンス-」という本の中にあった言葉です。

 

 

『自分を取り巻く世界がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく経験をしたことはありますか?または想像することはできますか?自分が信じていた人たち、信じていた考え、信じていた生き方すべてが目の前から消え去ってしまうという経験です。大切に思っていた人が突然いなくなってしまうことだけでも、その苦しみや悲しみははかりしれません。しかし脱会者は、脱会することによって自分のまわりの人々だけではなく、それまでの自分自身についても一度失ってしまうのです。』

 

 

とても思いやりのある言葉だと思いませんか?この一文を読んだ時、涙が止まりませんでした。自分の心をこんなにも分かってくれる人がいて、それを言語化してくれていることを嬉しく感じました。しかも自らがカルト宗教に関わっていた訳ではないのにです。力になってくれる人は世の中にいるということ、理解しようとしてくれる人もいるということを知って、力強く感じました。

 

 

確かにカルトを抜けることで、わたしたちは自分自身を失いましたよね。そしてもう一度宗教を抜きにした自分、本当の自分、変な色のついていない自分自身を取り戻すことが必要だった訳です。その過程はとても苦しくて、あきらめてしまいそうになりますが、それでも何とか踏みとどまっていくと必ず光が見えてきます。

 

 

闇に居た時は私自身も、ずっとこういう状態が続くと錯覚していました。しかしそんなことはなく、少しずつ光が見えて、そしてそれがだんだんと大きくなって、やがて太陽の下に出ることができるようになりました。だから今闇の間で苦しんでいる方も、必ず光が訪れるようになると希望を持って頂ければと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先日JW現役妻との離婚が成立した。

私がJWの活動を離れる前までは、共通の価値観を持ち将来の希望も同じで、本当に仲良く幸せな生活を送っていたと思う。でも私が組織と距離を置き始めることで、わたしたちの仲も段々とおかしくなっていった。

一緒に辞めてくれると信じていたけれども、それは向こうも同じでいつか戻ってきてくれると信じていたわけです。

妻は大会や記念式に私を誘ったり、JWを家に呼びたがり私と接触を図ってもらおうとする。それを断ったり、家を空けてJWと会わないようにする私。本音を語り合えない、騙し合いのようなそんな生活に疲れ約2年前に別居。

そこから本格的な離婚話が出たわけですが、妻としては離婚はしたくないの一点張り。現役JWとして離婚という選択肢は基本的にないのもよく理解できる。

私は何度も気の良い未信者のご主人のようになれないかと努力してきた。妻の宗教活動を私は尊重もするし、JWを続けることは本人の自由だと思っている。でも夫婦として、肝心なことで分かり合えないということの淋しさはどうすることもできなかった。

片やこの世は終わると考え、片やこの世はこれからもずっと続いていくと考えるようになった。この一つをとってみても二人の価値観は大きくずれ、同じ方向を向いて歩んでいくことはできなくなった。


悪いのは私なのだと思っている。一緒に楽園に行く、文字通り永遠の愛を誓ったのにJWを辞める選択をしたのは私のほうで、それは大きな裏切りなのもよく分かっている。

でも、組織の間違いや偽善に気が付いたのに見て見ぬふりをしてそのまま留まり続けることはできなかった。

そして、価値観も未来図も全く異なった人と共に居ることの淋しさと切なさに耐えることもできなかった。

何度も説得を試みた。組織の間違いを理路整然と話したつもりだったけれど、JW2世として何の疑いもなく育ってきた妻、両親も兄弟も親族も多くがJWである環境を考えると、組織を離れるという選択を彼女はできなかったのだと思う。

「楽園は絶対くるんだもん、そしてあなたと一緒に行くんだもん」と涙ながらに言われた時、もう説得はやめようと思った。信じたままのほうが幸せな人もいる、たとえそれが嘘や偽りであっても、騙されたまま生きていくほうが幸せな人もいるんだと思った。

でもそんな騙されたままの妻をこれからもずっと傍で見ていくことはあまりにも辛く、私にはできなかったのです。


少し前に妻の両親に離婚のお詫びをしに行った。妻と必要の大きな地で開拓奉仕をずっと続けてきたわたしたちを、本当によく援助してくれた。貧乏開拓時代には特にお世話になった。本当に優しいお二人で、私はそんな二人をも裏切り、悲しい思いをさせてしまっていることへの罪悪感でいっぱいになった。


妻は本当によくできた人で、何も不足はなかった。私が長老として忙しくしていた時も、文句一つ言わずいつも機嫌良くしてくれていた。会衆の人とも仲良く、みんなから慕われ愛されていた。控え目で、不平不満など一切言わない人だった。

ずっと支えてくれた妻には感謝の気持ちしかない。

JWを辞めて、色々な元JWの方にお会いしたけれど、結婚されている方はご夫婦で揃って辞めている人がほとんどだった。それは本当に羨ましく思った。

どうして私の妻は一緒に辞めてくれなかったのだろうか、私にやっぱり魅力がなかったのだろうか、もっとうまく説得できなかっただろうか、など色々考えた時期もあった。でもまあ結局は、妻は私よりエホバを選び、私との生活より信仰の道を選んだ、ただそれだけのことなんだとも思う。

JWを辞めて両親や兄とも疎遠になり、今回妻とも離婚になり、これで家族というものがある意味なくなってしまった。家族って一体何なんだろう。宗教がいつも優先される家族生活しか経験がない私が、これからまともな家族を作ることなどできるのだろうか。

色々と考えることはまだまだ多いですが、とりあえず一区切り。



JWの活動を止めてから私はあることに気付いた。

それは、自分には「なんにもない」ということだ。


学歴も資格も技術も社会の常識も慣習もマナーも、この世の中で生きていく上で必要とされるものはなんにも持ち合わせていないことに気付いた。


JWの現役時代は、私はすべてのものを持っていると思っていた。

唯一真の神に仕えること、将来の希望、神の言葉である聖書の知恵、幸せな家庭、数多くの友人、組織の中での立場、自分が積み上げてきた何十年もの霊的な記録など。

しかし一旦組織から外に出てみると、自分がよりどころにしていたものは何の役にも立たなかった。

そして、むしろどうでもいいプライドだけが残った。約20年も開拓奉仕をしていたとか、長老として働いていたとか、何人の人をバプテスマまで導いたとか、色んな難しい問題を解決したとか。

自分が誇りに思っていたことのすべては、世間一般の人からしたら「はあ?それがなにか?」そんなレベルだ。

どうでもいいことや何の役にも立たないことを、さも素晴らしくて立派な経歴のように感じていた自分を恥ずかしく思った。

聖書の中でキリスト教に改宗してからのパウロは、かつてユダヤ教を信奉していた時代の数多くの特権や恵まれた自分の立場のことを「ちり・あくた」のように感じたと述べている。

私もJWとしての活動を止めてからは、JW時代の自分が得ていた立場や数多くの特権と呼ばれていたものを「ちり・あくた」のように感じたのは、ほんとうに皮肉なことだと思った。

過去の栄光などどうでもいい。そんなことを認めてもらえるほどこの世の中は甘くない。みんな自分を生きるのに必死なのだ。人の過去の苦しみや悩みなどに同情や感情移入している暇などないのだ。

自分の過去を分かって欲しい、こんな辛い過去があったのだ、自分の不幸な生い立ちを理解して欲しいと切に願ったそんな時期もあった。

でもそんなことは単なる甘えだ。

じゃあ同じように誰か他の人の過去をお前はすべて理解できるのか?自分にそう問い質した。

人のことを理解できないくせに、なぜ自分のことだけは理解してもらおうとするのだ。その傲慢で身勝手な態度は一体どこからでてくるのか。

JWの現役時代、私はこんなことをしていました、あんなこともしていました、そしてこんな傷があります、こんな辛い思いを今経験しています。だからどうか分かってください。

しかし、そんなことはどうでもいい。

自分の過去の栄光も受けた傷も、どうでもいいことなのだ。


自分を大事にとか、まず自分を愛しましょうだとか、昔の傷はきちんと癒さないといけないとか、色々な考えがあることは知っているし、それなりにその分野のことは勉強もした。

しかし他の人は分からないけれども当時の自分は、自分には「なんにもない」ということを謙虚に認める必要があった。自分を憐れんではいけないと思った。徹底的に自分を踏みつける必要を感じた。

すべてを手にしていると、すべてを持っていると勘違いをしていたことを素直に認め、今の自分には「なんにもない」のだ、ということを自分に言い聞かせる必要があったのだ。

お前がJWの現役時代にやってきたことなど、どうでもいいことなのだと。この社会からしたら何の価値もない、価値がないどころか社会の悪にもなっていたということを徹底的に認める必要があった。

何十年もどっぷりとこの組織に浸かり、長老として多くの人たちを誤導し、その立場ゆえに自分自身の自尊心や承認欲求を満たしてきた人間は、そこまでして徹底的に自分を破壊しなければまともな人間として生きていけないと思った。

自分をどん底まで落とし、実は「なんにもない」人間だったのだということをこれでもかというほど自分に分からせることが必要なのだと自覚した。


そしてそこから這い上がり、今度こそほんとうに価値のあるものを提供できる人間にならなければいけない。

ゼロから、いやマイナスからの再スタート。
でもそれも仕方のないことだ。

世間一般の方々が死に物狂いでこの世の中で生きている間、自分はお花畑の社会の中で何も考えず、のほほんと無駄な時間を過ごし、多くの周りの人からチヤホヤされていい気になっていた、そんな人間だったのだから。

自分には「なんにもない」という、そのことを認め受け入れること。

私のJWとの決別と再生はそこから始まりました。