高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』が欲しいのですが、近所の書店にありません。
そのことを知人に話したら、今の時代は欲しいものはネットで注文する時代であって、本屋は目当ての物を探しに行く場所ではない、と言われました。
それが事実だとしても、探していた本が棚に並んでいるのをみつけたときの喜びはいいものですよね。注文したものが手に入るのは当たり前ですが、探してみつけるからこそ愛着も湧きます。だからこそ書店巡りも楽しい。こうなるとむしろ、みつからないほうが強く印象に残ります。
そういったわけで、今日も図書館で何度目かわからないけれど借りてきました。もうくれないかな、この本。
予告通り、笙野頼子『金毘羅』と、『水晶内制度』も読んだので感想書きます。
・『金毘羅』
笙野頼子の作品をいくつか読んでみようかと思った時、なぜこれを選んだのか訊かれれば、帯の文句(というかこれはもう挑発)にやられたから、に尽きます。
――(表)奇想あふれるぶっちぎりの「金毘羅」一代記/時代が笙野頼子に追いついた 臨界を超えた現代文学の到達点/「辛辣、炸裂、痛快、強烈、圧倒、重厚、爽快、渾然、骨太、先鋭、極限、綿密、魅了、壮大、自在、新鮮……」読売から赤旗まで、大反響の嵐。
(背)二十一世紀世界文学の誕生
(裏)誇れ手に取った事を。蔑め読まぬ愚民を。/この御山を制覇・読了するものに栄光あれ。君は選ばれたのだ。/ついに出帆!/しゅらしゅしゅしゅらしゅしゅしゅしゅら しゅしゅしゅ。―――――守リタマエ……。
警告!
1読書力とロジックに自信のある方用。丹念に二度読みしてください。
2戦後の精神世界を痛快に批判した問題作。気の弱い方はご遠慮ください。
3「純文学の極道」、笙野頼子がしたい放題、不穏かつ凶悪。
4実在の金毘羅宮、金刀比羅宮とは、何ら関係がありません。でも、面白いっ! ――
ここまで煽られたら読んでみたくなります。「誇れ手に取った事を。蔑め読まぬ愚民を。」とは。
よく帯にあるような有名人の推薦文とか、「泣ける」「一気に読んだ」「映像化!」なんてぶっちぎってしまえ。
この作品は泣けません、一気に読めるものじゃないし、映像化なんて出来るものならやってみろ状態です。
内容的には、帯にあるように「金毘羅」一代記です。金毘羅とは語り手「私」のことです。「私」とは、作者のことです、といっても過言ではない程私小説的な面やメタ表現が多いので、本当に読んでいるというよりは聞いている感覚。
「私」は四十代のある日、自分が「金毘羅」であるということに気付きます。今まで人間だと思ってきたけど私は金毘羅なんだ、と。
小説の中の金毘羅は黒い翼の生えた鰐の姿で、他の存在(忘れられた神とか弱い神とか漂流している思念とか)と融合する神で、メジャーな神に追いやられた存在で、「私」は生まれる前に死んだ女の子にとりついた金毘羅。
生き辛さや違和感を抱えて育って、色々な神に祈ったり研究したりトランスしたりして、ついに辿りついた「金毘羅」という「真実」。最早ここまで言いまくられると納得してしまう。
と思っていたら、本文終わってからの作者注に、主人公が妄想に駆られて言った考察は創作です、的なことが書いてあって笑えた。
内容がすべての小説ではないので、過激な言論が聞きたい人は違う楽しみ方が出来る作品です。
・『水晶内制度』
――原発を国家の中枢として日本から独立した女人国ウラミズモ。亡命作家は新国家のため創作神話を書くが……。高校では「ロリコン」男が飼育され、男性保護牧場では美男だけが生き延びる!? 家畜人ヤプーから出雲神話、児童ポルノ規制法案等、古今東西の名作・迷作を友とし敵として、自由も倫理も性愛もない女の楽園を描く平成の「奇書」。――(帯より)
「亡命作家」はご想像の通り作者、の分身です。
『幽界森娘異聞』で笙野頼子に「かぶれ」、この本で食傷気味です。
とにかく女尊男卑が凄まじくてまさしく「うわーっ」という小説。
「私」が体験するウラミズモの実態と、創作神話を軸に進む。ストーリー性があることに驚いたり。
創作神話は『金毘羅』でも出てきたオオクニヌシ(オオナンジ)とスクナヒコナの話と、国生みのイザナギ、イザナミの話を、古事記と日本書紀に書かれている「都合いい部分」は、すべて男(権力的な意味もある)が女に「ケガレ」を押しつけて見えないことにして書き直したものであるとして、逆に女に都合いい話に書き換えて創る。
とはいえ、言われれば納得しそうになるのが凄いところ。多少強引ですが。
ウラミズモという国は女性優位の国で、「外国(日本含む)」で蔑まれたり虐げられたりいないことにされたりした女性で造られているため、男性への、男性的なものや思考も合わせての「男」への差別が酷い。
詳しくは控えますが、「男」的なものから隔絶したはずのウラミズモが、日本にあえて「ロリコン」を生み出す要素を産業として輸出していたり、あえてケガレを引き受けて(押しつけられて)いたりするのは、どうしてなんだろうか。説明はあるけど納得しきれていないかもしれない。
少し刺激が強かったのと読み通すのに苦労したので、しばらく笙野頼子はお休みしようかと思います。
小野正嗣の『獅子渡り鼻』を読んだので、近日中にまた書きま、すかな書くかな。
それでは。
さようなら。
『まぁだいじょうぶですよ、おじいさん。
本当に悲しいことなんて
まだこの世には起こっていませんからね』