両親は反対は無くても歓迎でもなく微妙な感じ、
友人達も、おお中国か、という感じ、
(欧米だったら盛り上がったかも?)
中国には絶対行かないほうがいい、
という人もいました。
全てありがたい反応です。
その中でたったひとり、
ものすごく明るく即答で
「いいじゃない!行ってきなさいよ~(^^)やりたいことはやっといたほうがいいわよ!」
と送り出してくれた方がいました。
それがもう、本当に嬉しくて嬉しくて

自分が決めたことですが、
何が起こっても自分で何とかするんだ、絶対。
と思ってましたが、
やっぱりひとりで中国へ行くのは不安だったんで、
(準備段階ですでにほぼ放置、会社はアテにならないとわかっていたので)
にこやかに、
ただただ前向きな言葉で背中を押してくれる人がひとりでもいたのは、
心の底から救いでした。
この言葉のおかげで、
スッキリ爽快、真っ青な空のような心で中国に向かえました。








この方は私より20歳ぐらい上の女性で、
もうエネルギーのかたまり、
話すことが大好きで、
それはそれはインパクトある個性的な人でした。
当時50代だけどカラオケオールでも普通に元気
裕福な家柄で、なんというか育ちがいい。
でも決して見下しているという感じはありませんでした。
若い頃はヤンチャだったそう
その方からは印象的な話をたくさんもらいましたが、
中でもすごく印象に残っているのが、
「人の怨みはね、絶対買うもんじゃないわよ~。」
です。







なんでこれなんだろう、と自分でも不思議です。
当時、10年前ぐらいでしょうか。
人の怨みがどんなものかも全く知らず、
へーそうなのかー。怨み辛みとか言うしなあ。
レベルの理解でした。
要するに解ってない。でもずっと覚えてた。
んで、たいして理解しないまま10年以上経ち、
この2年ぐらいで、
ようやく本当にその意味がわかってきました。
怨みには、
本当に色々な意味で、不可能を可能にする、
想像を現実にする力があります。
怨みを買うぐらいなら、
自分がこれまでの人生で大事だと思ってきた
こだわりとか、価値観とか、常識とか
絶対譲れないと思ってるものとか、
こうであるべき、な考えとか
1度、手放しちゃったほうがいい。
って思います。
自分の芯だと思ってたものって、
無くても意外と生きていけるもんです。
どうしても生きていけないとわかったら、
また、その思いを取り戻せばいい。
んで、怨みとは何か?
ってのがこれまた難しい。
異文化だとなおさら難しい。
異文化が中国だとして、
パッと浮かんだのは「謙遜」かな.....
外で自分の旦那を下げる。
ウチのはダメよ~大したことないわよ~安月給よ~とか。
30年40年それやり続けたら、
怨まれる可能性は十分あると思います。
謙遜は日本の常識みたいなところがあるので、
この常識に、
外で旦那ほめるなんて自慢みたいで恥ずかしい
なんて固執して、
やめろ、って言われても
何とも思わない、何も感じない、
なぜそんなに怒ってるのかを考えない。
これは怨まれ方面行きだと思う。
でも、異文化より今の日本のほうが
何の脈絡もなく怨まれそうで、怖いです。








私に色んな言葉を残してくれたこの方は、
私を清々しく送り出してくれた翌年に、
50代で亡くなりました。
亡くなる半年ぐらい前、夏前に
上海のサンマルクカフェからメールで話しました。
いつものように、今までと同じように、
すごく元気でした。
その後、秋ぐらいから体調を崩して、そこからは本当にあっという間だったそうです。
その方は、
知らせたい人に連絡を、というひとりに私を入れていてくれて、娘さんが私にメールをくれました。
“その時ががいつ来るかわからない“という時に
これまでの経緯や今の状況、容態を丁寧ながら簡潔に伝えてくれました。
まだ10代だったのにとてもしっかりした、
その方自慢の娘さんです。
私は、あまりに突然で信じられませんでした。
嘘だと思って、ボロボロ泣きました。
我慢しても止めようと思っても涙が出てくる。
上海に行く前に、
「将来は飲み屋をやりたいわ~」
なんて言ってて、
帰国したらその店行けますかね?とか話をしていたのに。










ここで、
今でもミラクルと思う偶然が重なりました。
本来なら12月後半に一時帰国であったところ、
奇跡的に、帰国日をその連絡の2日後ぐらいに変更していたんです。
どうか、どうか、間に合って。と思いながら、
長い長い2日が過ぎて、帰国当日。
私は空港バスで浦東まで行くつもりでしたが、
停留所のはずのとこで待ってても全く来ない。
バスが来る気配すらない。
10分.....20分.......
バスに合わせて来てしまってたので
けっこう時間ギリギリで、
そろそろ本気でヤバイんじゃないかと焦り始めた時、
正面に相乗りタクシーが来ました。
当初、私は乗る気は全く無かったんですが、
デカイスーツケースを持って、
いかにも空港に行くカッコの私に、おっさんが、
アンタもどうだ、的なことを言ってきました。
“後からバスが来るかも“と一瞬思った後、
バスが来る方向を見て、
街に微塵もそんな雰囲気を感じなかったので、
「これはもう来ない」
と決め、バスに+10元程度のそのタクシーに乗りました。
そのタクシーは暴走タクシーで、
周りの車、他のタクシー、先に発車してた空港バスなど、あらゆる敵をぶっちぎり、
時間ギリだったはずなのに、
余裕で空港到着したことになった。
私は乗り遅れることなく、日本に向かうことができました。
あそこで、タクシーが来なかったら、
おっさんが私に話しかけなかったら、
私がグダグダとバスを待ち続けたら、
そもそも帰国日を変えてなかったら。
私は飛行機に乗れず、お通夜にも間に合わなかった。
ああ、連れて来てくれたんだと、今も思います。









亡くなってもう7年です。
いつもいつも笑ってる人で、
でもものすごく苦労した人でした。
いないことが、まだ少し信じられない時があります。
その人の言葉は、声と笑った顔と一緒に
今でもハッキリ思い出します。
辛い顔は私の前では一切出さなかった。
出会いが30代になってからと遅く、
その後私が上海に行ってしまったので、
顔を合わせて付き合いのあった期間は
たった2、3年でしたが、
こんな短い期間に大きな影響を与えるなんて、
たくさん言葉を残すなんて、
凄い人だったなあ、
また話がしたいなあと思うのです。