森山大輔「ワールドエンブリオ」(1)
- 森山 大輔
- ワールドエンブリオ 1 (1)
- 前作「クロノクルセイド」は、絶望的な状況下にあっても決して「前へ進む事」を止めない若者達の物語だったが、本作もそういった方向性の作品になりそうな気配を感じる。
さて、「人知れず静かに世界が侵食されていく」類の話は、それほど珍しい物ではなく、近年の漫画やライトノベル作品にも類似した設定がよく見られる。特に、竹下堅次朗「カケル」や高橋弥七郎「灼眼のシャナ」等は、『ある特定のシチュエーション下で死亡した人間は、その存在を「なかった」事にされてしまう』という点で、本作のそれに近いと言えるだろう。
アイディア自体があまり目新しいものではない場合、その作品の価値を決めるのは、物語の展開や構成力、作者独自のカラーであるわけだが、序盤ともいえる今巻収録分を読んだだけでも、本作はそれら要素が高いレベルで詰め込まれているように感じた。
「死んだ」はずの従姉妹からのメール、人の成れの果てである怪物「棺守」、未だ詳細不明だが圧倒的な能力を持つ「刃旗」使い、繭状の卵から生まれた謎の女の子……。使い方を誤ると、一気にチープテイストな作品に仕上がってしまう所だが、本作はそれらを実に絶妙に組み合わせている。
惜しむらくは、森山氏がじっくりと話を進めていくロースターターである事を知らない読者にとっては、この第一巻が「序盤の序盤」位に感じてしまわれるほどに、世界観と作品の方向性を示す要素が少なすぎたと思しき所か。
「クロノクルセイド」が、まず作品の方向性を強く打ち出し、然る後に世界観を固めていった事を考えると、森山氏のファン以外には掴みが弱かったのではなかろうか、と一ファンとして無駄な心配をしてしまった。
荒川弘「鋼の錬金術師」(13)
- 荒川 弘
- 鋼の錬金術師(13) 初回限定特装版
「何かを得るためには、同等の代価が必要になる」
作中で繰り返し語られる、錬金術の基本原則である「等価交換」を表した言葉だが、今巻ではそれを改めて再認識させられる。
「擬似・真理の扉」から脱出するためとはいえ、自らの弟に近い境遇にある魂を犠牲にしなければならなかったエド。「もう救うことが出来ない人々」だという事を頭では理解しつつも、やはりどこかで割り切ることの出来ないエドにとって、消え行く魂の最期の言葉「ありがとう」が、どれだけの慰めをもたらした事だろうか。
しかし、それだけの苦痛を背負い込んでもなお前に進もうとするエドの姿こそが、真に美しいものに見える……というのは誉めすぎだろうか?
久米田 康治「さよなら絶望先生」第三集
- 久米田 康治
- さよなら絶望先生 3 (3)
出来不出来の波が激しいのは、前作「勝手に改蔵!」から変わっていないのだが、予定調和の展開の中に垣間見える鋭い切れ味にも変わりが無く、流石は奇才・久米田康治、と言った所だろうか。
さて、この手の学園を舞台にした漫画という物は、えてして三巻付近で主要キャラクターが出揃う事が多いと思うが(新キャララッシュが落ち着く、と言い換えても良い)、本作もその例に漏れず、今巻で主要キャラクターとその役割がほぼ決定したように感じる。
当初は狂言回し的役割を担っていた風浦可符香(PN)は、裏で糸を操る「影のフィクサー」の如きポジションヘ。代わりにアグレッシブな性格の木津千里がパワーで展開を進める役目に。小節あびるは冷静なツッコミ役で、音無芽留や日塔奈美は毎回のテーマの代表的な被害者ないし加害者。藤吉晴美は、オタクネタ担当。臼井影郎は完全なる被害者。関内・マリア・太郎はパワフルに周囲をかき乱し、常月まといは隠し味というか隠れキャラ。
見事な役割分担、と感心していると何かが足りない事に気付く。……そう、ひきこもり少女・小森霧の出番が極端に少ないのだ。
巻末の投稿イラストや、作中であんまり弄られていない所を見るに、読者受けもよく作者も気にいっていると思しき小森の出番は何故少ないのか? これが、同雑誌に連載中の某漫画であったなら、展開をぶった切る(or無理矢理な新展開を作り出す)事で出番を増やし、人気確保に走る所であろうが、絶望先生ではそういった行為は行われない。
そもそも絵柄と作風が萌え漫画じゃねぇだろう、という冷たいツッコミはとりあえず捨てておくとして、それは、絶望先生という漫画がネガティブギャグを主題とした漫画であり、「安易なキャラ萌えには走らないぞこのヤロー!」という作者のこだわりというか気概が存在するからではないかと、私は愚考する。
女キャラ率高い時点で十分狙ってるじゃないか、というツッコミもとりあえず置いといて。
……愚行したのだが、よくよく考えてみると小森霧は各巻のカバー裏をしっかり飾っているわけで、何だよ久米田やっぱりネギ(ry
まあ、何にせよ、今後も楽しみな漫画である事には変わりない(とお茶を濁しつつ終了)。
稲垣 理一郎, 村田 雄介「アイシールド21」(18)
- 稲垣 理一郎, 村田 雄介
- アイシールド21 18 (18)
- 当初は「パシリまくったってだけであんなに足が速くなるなんて、スポーツ選手を馬鹿にしているんじゃない?」なんて冷たい意見も聞かれましたが、「走りの師匠」陸の登場によって、セナの足の速さの理由が裏付けられたのが数巻前。
- そして今回、セナがアイシールドの仮面を取り去る事で、「もう一つの理由」が明示された。
- アイシールドは、セナにとっては文字通りの「仮面」であった。ひ弱な自分を覆い隠し、「理想のヒーロー」を演じるための一種の防衛機構であった。
- 勝負事で勝つためには、フィジカルな強さだけでは不足だ。どんなに強靭な肉体を持っていても、メンタルが貧弱ならばどんな勝利も得ることは出来ない。
- メンタルの強靭さとは即ち、「勝利する自分の姿への確信」であり、「自分が最高の選手であるという自信」であり、また「理想の超人へ一歩近づこうという向上心」である。
- ヒル魔より与えられたアイシールド21の称号は、「強い自分」を想像も出来なかったセナに対して、「理想の強い自分」を明示して見せた。内面からではなく外界から生まれた物とはいえ、非常に明快で分りやすい理想像を提示された事が、セナに一時的だが強靭なメンタリティを与えた。
そして今回、セナはアイシールドを自ら捨て去った。「理想の強い自分」を捨て去った。
ヒル魔や周囲の人間から与えられた理想の超人「アイシールド21」を、セナが自らの意志で「超えたい」と強く願ったのだ。
素顔を晒す事で、「理想を追う」事から「理想を超す」事に目標が変わったセナの顔つきは、今までのどんなセナよりも凛々しく大人びている。
ジャイ子 の本名とか、色々
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20060220#p1
各所で取り上げられているので今更なんですが、まだ結構知らない人がいるようなので一応紹介をば。
このお話、F先生の優しさが伝わってくる非常に心温まるエピソードなんですが、どうもそこいらを理解できないアンチドラえもんの方々もいるようで。「同じ名前の子がいじめられるようなキャラクターを作るFの底の浅さが分るな」とか、そんな阿呆な事を言ってるのをみると、非常に可哀相に思ってしまうんですけれども、はい。
『もし、名前を決めて、今それが、幼稚園、小学校に行ってる女の子の誰かと同じ名前の子がいたらきっといじめられるだろう。ジャイ子とお前、同じ名前だなあ、といじめられるだろう。それは可哀そうだから、やめましょう』
ドラえもんの漫画を読み続けていた方なら分ると思うんですが、ジャイ子って最初は外見だけじゃなくて中身もジャイアンそっくりなキャラクターだったんですよね。それが後年になって「外見はゴツくてガサツだけど、中身はとても繊細で乙女チックな少女」に変化したのは、他のキャラクターの変化を見ても分る通り、F先生がキャラクター達を固定化された記号ではなく、我が子同然の存在として成長させていった結果な訳です。しかもそれは、長期連載の中で大人になっていく読者達に向けた一種のメッセージも含まれていた、と個人的には考えています。
そうすると、上に引用したF先生のお言葉は、とても深い意味を持ってくるのではないかと思います。つまり、
「読者も成長すれば、ジャイ子というキャラクターの魅力に気が付いてくれるだろうが、子供というのは時に残酷で見た目だけで物事を判断しがちだし、幼稚園や小学生の時分というのは、ほんの些細な事がイジメに繋がってしまうものだ。だから、ジャイ子を愛してくれる沢山のファンにもジャイ子本人にも申し訳ないけれども、子供たちの為にジャイ子の本名を明かすことは止めましょう」
というニュアンスを持っていたのではないか、と。
ドラえもんと言う作品は、子供に「夢」を与えながらもF先生の他の子供向け作品と違い、意図的に「毒」が仕込んである作品です。「夢」の中にちょっとだけ「毒」を混ぜる事によって、子供たちの成長を祈願する――ドラえもんという作品は、そういったF先生の読者への限りない愛が形となった作品ではないかと思います。
- 藤子・F・不二雄
- ドラえもん プラス (1) [スペシャルパック]