好きと嫌いは反対なのか?

という議論をしたので、私見の備忘録。

私はあくまでも 好き と 嫌い は 反対ではない という意見です。
最大の理由は、好き と 嫌い が排反事象じゃないと思うからです。

そもそも、この議論に乗り気でなかったと言うことも併せて記しておきます。
議論というのは、認識に共通と差異が無いと成り立たないものだと私は思っています。

つまり、感情と言う、主観的かつ、比較困難であるものに関して
議論の土台である、共通認識をどこまで持ちえるのか という段階で
すでに疑問を感じてしまうからです。

とまぁ、それはさておき本題へ。

好き とは何か?
嫌い とは何か?

文章で書き表せるほど単純な感情じゃないですよね。
それが排反事象であると私は考えられません。

好き かつ 嫌い な状態も有りうると思います。

しかし
好き かつ 無関心
嫌い かつ 無関心
はありえない。

なので
好き の反対は無関心
嫌い の反対は無関心
だと思うのです。

感情は複雑すぎて
単射じゃないと思うんです。

関心がある 集合の中に
好き や 嫌い などの様々な感情があって。

その反対にあるのは
無関心グループの 何か。

でも、もしかしたら反対の写像は確実にその集合にあるのに
その集合には感情を持ち得ないので
空集合かもしれないですね。

やっぱり
好き の反対は無関心
嫌い の反対は無関心
だと思います。

熱い

冷たい
は温度の中の度合いでしかなく。
反対ではないのではないかもしれないです・
そこも似た感じですが。
電子教科書は教材。
つまり、電子教科書を電子教科書のみで議論する事はすこしおかしいと思う。

教育を背景にしなければ教材は検討できない。
そして教育は時代に応じるべく、変化する物である。

つまり、現時点での電子教科書の有効性を議論しても仕方が無い。
費用対効果、教師のITC能力などから考えると有効でないに決まっている。

書籍は情報源としての圧倒的な地位をいずれ電子書籍に譲り渡すかもしれない。
その時代における教育。
さらにはその教育での電子教科書の有効性を考えなくてはならない。

教材を開発する立場にいるのなら、なおの事だと思う。
時代が流れていくのは個人の力では動かしようの無い事実であるし。
ならば、教材は一歩先を見据えて作成しなければならない。
全員が未来の教材を作ってしまうと、「今何を使えばいいの?」状態に陥るが。
現実問題そうではない。ICT教材の作成者は、通常の教材にくらべ残念ながら少数派。

興味関心がある人々が、未来を見据え。
来るべき時代のための教材を作成しないことには、
時代が進んでも教育の時代は止まったままになってしまう。
教材も何も用意されていない状態で、デジタル化、電子化が進むとは思えないからだ。

ビデオやDVDが普及したのは、当然ソフトがあったためである。
時代が進み、教育に関するハード面が整ってきても
ソフト面が充実していなければ変化は起こらないだろう。

特に、これまで当然の如く使われていた紙媒体からの大きな変化である。
磐石な体勢を持ってしてでなければ一歩踏み出す事ができないに決まっている。

教材を開発する立場であり、デジタルに興味があるのならば
来るべき未来の世界における磐石な体勢をデジタルでも打ち立てるのが役目なのかもしれない。

では、磐石な体勢を築けたとして、電子教科書は有効であろうか?
私はとても有効だと思う。
なぜなら紙媒体と同等の体勢さえ整えば、紙より可能な事が多いからだ。

紙媒体と同等の 社会的地位や教材、教師の活用能力、子どもの活用能力
などの教育基盤ができたとすれば の話ではあるが。

様々なことができるのならば、教師の教材開発や活用の幅は広まるだろう。
子どもにとっての教育の形は、そのクラスの現状によって全く違う。
ならば、様々な事柄に対応できるように、教師に自由度が合ったほうが良いからだ。

 紙と同じ事ができる。
 さらに電子教科書は○○だってできる。

となりさえすれば有効であるかどうかの答えは明らかだ。
最初は紙と同じ使い方しかしないかもしれないが、自由度が高いに越した事はない。
紙媒体での授業が発展してきたように、
いずれその自由度を生かした授業へと発展する可能性があるからだ。
紙という制限をはずしてやることにより、伸びしろは増えるに違いない。

電子教科書は未来に有効な教材だ。
仮想現実って何ですかね。

実際の現実で過ごしているかというとそうではない気がするのです。
 わたし がいる世界というのは現実の世界を五感で感じ取り
その外界からの刺激によって頭の中で再現した仮想現実が自分にとっての現実 じゃないかなと。

じゃあこのリアリティはどこから来ているんでしょう?
現実と脳内を結ぶ信号の経路は感覚器しかないので五感でしょう。

つまり五感で感じたものには現実味を人々は感じるということです。

視覚、聴覚、嗅覚、触角、味覚
この5つさえ誤情報を与えれれば
仮想現実にもリアリティが与えられるということですね。
逆に言うと、この五感を封じられると現実世界にすら現実味を感じなくなってしまうのでしょう。

目をつぶり、耳をふさぎ、口を閉じ、息をとめ、何にも触れない空間にいると現実味ってまったく無いんでしょうか?

では現実味が0の世界にたどりつけたとしたら、現実はどこにもないですよね。
私 はどこにいるんでしょう?

もっとも現実味が強いものを現実だと捉えるのなら、現実の現実味をシャットアウトすると仮想現実を現実と間違えさせることもできるのでしょうか。
それでも仮想現実には現実味は無いんでしょうか。

なんだかまとまらないまま終わります。