誰しも皆、人の心を変えようと努力しがちである。
好きなあの子を振り向かせる。
あの少年を改心させる。…等々
人の心は変えられるという無邪気で
夢見がちな傲慢さからくる行動ではないかと思います。

私は人の心は人が変えることのできないものだと考えています。
それが、仮に自分の心であったとしても。

そもそも心とは何ぞや、という究極の疑問が残るが、
それは禅問答さながら、哲学になってしまうのは勘弁なので
あえて避けておきます。

今回、心とは感情の集合体であると定義しておきます。

自らを振り返ってみた場合、
完全に自分の思考を制御できているかというとそうではないと私は思います。
たとえば食べたい願望を抑えられない時だってあるだろうし、
購買欲を抑えられず衝動買いしてしまう時だってある程度皆にあると思います。
仮に私だけならば今回の日記は単に自身が自堕落であると赤裸々に記すだけで終わり。
何とも残念な日記。

思考の一部である感情というものが複雑なあまり、
制御しきれていないのでは と考える。

自分自身の心すら変えることは難しい。
その最たる例は恋愛である。
悶々と悩む、ほろ苦い恋愛をしたことはないだろうか。
好きになってしまったものは好きなのだ。
諦めようと努力したり…
恋愛に関する記述では無いので、以下省略。

人は 人を好きになろうとして好きになることはできない。
人は 好きな人を諦めようとして簡単に諦めることはできない。

と感じたことがあります。
心は頭では変えられないんだ…と思いました。

心と頭の違いは何でしょうね。
心が感情なら、頭は理論とでもしておきましょうか。
二つ合わせて思考というのでしょう。

他人の場合だとどうでしょう?
自分の心を変えるのも難しいのに
他人の心なんて変えられるはずがありません。

ではなぜ、心は変化するか?
対人関係、時、場所、場合、
様々な外的要因、すべて含めた時時刻刻と変わる 環境
それによって変化するのだと私は思います。

他人にとやかく言われて自分の内の思考を変えることは難しいが、
他人から受けた外的要因である刺激から自分の心が変わることはあり得ることだと思います。

変える のは難しく 変わる のはあり得る。
というのが私の意見の要点です。

では自分にできることは何か、
対人関係を含め、より良い環境に所属すること。
そして、所属した環境をより良くしてゆくこと。
これが自分の心の成長に重要なのかな…と思います。
規則性ってそもそも何でしょう?

例えば、自分の部屋が散らかっていたとします。
でもその状態ってランダムでは無いですよね?

本当に完全に無作為にランダムな配置で荷物が置かれていた場合、
恐らく動きづらいと思います。

きっと使いやすいある一定の規則性にのっとって配置されているんだと思うのです。
しかし、それは本人しか理解し得ない規則性だと思います。
他人の散らかった部屋は、やはり動きづらいと思います。

では、そのある人物しか理解し得ない規則性は規則性なんでしょうか?

例えば、数字が一見ランダムに記載されていて、
それは実はある人しか現時点で知り得ない法則性で配置されているとしたら…
それって法則性なんですかね…

よくわからんまま終わります。
創造的思考無くしては進歩はない。

社会人が通常会社で、”仕事”をしているのは数%、
それ以外は単なる作業をしている、という文章を読んだ。
創造的な思考がなされていないが活動が行われている時間のことを
その文章の著者は 作業 と呼んでいた。

大学生も授業を作業にしてしまっている人が多数見受けられる。
志があり、大学に入学し、晴れて淡々と作業をこなす身分となる。
社会人になった際の就業時間の数%以外の部分に関しては
大学時代においてすでに身につけているのだ、きっと日本の未来は明るい。
残りの数%に重きを置く人々が引っ張っていってくれれば安泰である。

残念なことにその辺りはあまり重要視されていない。
会社では作業の得意な人が”優秀”であるパターンが多いのだ。
なるほど、やはり日本の大学における教育は間違っていないようである。

革新的な進歩には創造的思考のできる人間を必要とするが、
利益を産む必要のある社会では創造的思考を行わない人を必要としている。
創造的思考は唯一、人が機械に勝てる部分であるのに。

技術の進歩により、作業が人の手から機械にとってかわられた時代に
人は何をするのだろうか?
教育とはそこを見越すべきものなのでは無いだろうか?
しかし形式主義に捕われた教育の世界は
一問一答の枠組みから脱出することは容易ではないようだ。

理科のテストならば、

水を加熱していくと最初に小さな泡がでてきて
さらに加熱すると大きな泡がでてきます。
これが何か確認する方法を考えなさい。

という問いが良いかもしれない。

しかし、創造性のテストほど採点が困難で時間のかかるものは無い。
激務に追い回される教員が避けるのは当然の判断であり、
仕方のない話である。

きっといつまでたっても、この世は不思議な世界だ。