実以のブログ -78ページ目

銀座の別の顔

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友人が銀座4丁目のステップスギャラリーで写真展を催したので6月22日夜訪ねてみました。
ギャラリーのビルは銀座通りから有楽町よりの裏通り、ブランドショップやおしゃれなカフェ等が目につく所にあります。なのに5階の展示室に上がり、バルコニーから通りを見おろすと意外にも地味で質素な雰囲気なのです。 ちがう星にでも来たような不思議な気分になりました。このあたりで暮らしてみたら

どんな毎日なのでしょう?


友人の写真はすべてモノクロでした。旧ソ連で撮ったらせん階段、道路に横たわる犬、塀に干されている作業着等々。旅行先や町を歩いていて気になる風景を撮るのだそうです。モノクロだと何でもないものが

どこか芸術的に見えます。私がすてきだと思ったのは羽村で撮ったという、竹で出来た屋根のかかった井戸の写真でした。

舞踏家としても活躍している彼女はギャラリーで即興のショーを観せてくれました。貴重な体験の

できた夜でした。


夏至の日に

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手元にある白魔術の本によれば、夏至の日にもらう、あるいは買った花をドライフラワーなどにして保存しておくと夏の間のお守りになるそうです。
そこで昨日21日、勤め帰りにフラワーショップに立ち寄りました。
ピンクのバラに小さな緑の穂、ラズベリーの実、赤い千日紅、ヤツデの葉を束ねたキッチンブーケ(525円)をゲット。バラは花びらを干してポブリに、千日紅はドライフラワーにするつもりです。平穏無事で楽しい夏になりますように。
それにしてもなかなかこちらのブログの更新に手がまわりません。そのうちに昔書いた『ウルトラゾーン』風コントをアップしたいのだけれど。

浅草の料亭、人力車体験

4月1日、昔習っていた着付け教室主催の食事会に参加いたしました。会場は浅草の料亭です。錦鯉の泳ぐ池のある庭を通って玄関へ行くと着物を着た仲居さんと下足番さんが迎えてくれました。
金屏風のある広いお座敷にズラリと並んだお膳。着物を着て正座でお食事するのは本当に久しぶりでやや足はしびれましたが日本の文化をしみじみ味わいました。写真は前菜は彩りよく、桜の花が飾られています。デザートはイチゴ、ラズベリー、ブルーベリーを載せたヨーグルトゼリーとオーソドックスですが朱塗りの容器に入っているのがいかにもジャパネスク。
食事の後は浅草駅まで人力車に乗り、明治のお嬢様気分。人力車は乗る時は座席がかなり垂直に近くシートベルトがないとすべりそうなのですが引き棒が上がって走り始めると平らになって心地よいのです。運転手?さんがスカイツリーや浅草寺についてガイドしてくれました。現在の雷門がパナソニックの創業者松下幸之助から寄進されたことを初めて知りました。隅田川の桜はまだ咲いていませんでしたが楽しい春の1日でした。美以のブログ-120401_1205~010001.jpg
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鎌倉文学館

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3月25日、学生時代の友人と江ノ電の由比ヶ浜駅近くの鎌倉文学館に行きました。元侯爵邸の青い瓦屋根が鮮やかな美しい建物です。二階の展示室からは海が一望できる素晴らしい眺め。「こんな家に住んでみたいな」とつぶやくと友人に「こんなに海が近いと台風の時怖いよ」と言われました。
いくらか歴女な私は鎌倉に関係した歴史時代小説家についての展示にも興味がありました。
2001年まで鎌倉在住だった女流作家永井路子女史には講演会の後で著者にサインを頂いたことがあります。気さくで素敵な女性でいらっしゃいました。私もああいう作家になれたら等と夢見た時期も。
鎌倉文学館は庭園のバラが美しいことでも有名ですが今の時期はまだ咲いていません。バラの季節に再訪したいものです。

けんちんうどん、手袋のつぎあて

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すっかりごぶさたしてしまいました。今年はこのブログももっと頻繁に更新して、できたら創作なども書いてみたいと思います。
2月14日ヴァレンタインの日、ランチタイムにうどん屋でけんちんうどんを注文したら、チョコレートがおまけについていました。粋なサービスですね。昔は私も今よりは可愛かったから、人並みに勤め先で義理チョコを配り、殿方を喜ばせておりました。今ではもうそんな虚礼は廃止いたしました。自分チョコすら買いません。
通勤時に使っていた手袋の右手親指部分に穴があいてしまいました。新調しようと街を歩いてみましたが、既に冬物のセールも終わっており、思うようなものが見つかりません。そこでしかたなく有り合わせのフェルトでつぎをあてて今シーズンはしのぐことにしました。
すると何だか、親指に目があるような風情になりました。
確か、子供の頃視た特撮物ーウルトラマンAだったかしら?ー手に目のついている怪獣だか超獣だか宇宙人だかが出て来たわよね。でその地球外生命体は地球人の体に入って人目を欺いているのですが、どうしたわけか手には目がついたままなので風呂場でも寝る時でも始終手袋をしていたような?
我が右手親指についた眼も美しいとは言い難いので、なるべく人目につかないようにしながら春を待ちましょう。

マドモアゼル謙信?

マドモアゼル謙信:呼んだ?



カネゴン王妃:こやつは何者じゃ?



美以:この人は、そのう、なんといいますか、今お話に出た上杉謙信です。



カネゴン王妃:そちは女であったのか?



マド謙信: そうよ。この国でもたいていの人は男だと思ってるけど。



美以: 十年ばかり前でしたか、八切止夫氏の謙信女性説を読んでから、どういうものか私の頭の中には謙信というとこの人しか来ません。



マド謙信:(カネゴン王妃にむかって)あなたの国でいえば、そうね、アン・ブーリンの娘のエリザベス1世と同じ年代かしらね。私の方が少しお姉さんだけど、いっしょに小学校行ってたかなあみたいな。



カネゴン王妃:エリザベスはわらわにとっては敵ではあるが、まあ、頭のいい女ではあったの。

マド謙信:私はエリザベスが一生結婚しなかった気持ち、わかるわ。なんていうか、男ってものに頼れなかったのよ。一緒にお茶したら話が合うかもね。まあエリザベスは日本風に言えば、泰平の世の天下人になったけど、私はねえ……。(ため息をつく)越後を統一して関東管領になるのがやっとだった。



カネゴン王妃:それは気の毒なことじゃ。



マド謙信:まあ、私は天下人になろうなんて不埒なこと考えたことなかったし、後世の人があれこれ言うようにそんなチャンスもなかったんだけど。でも関東管領になった時はうれしかったのよ。美以の時代におたまの時代に「マドモアゼル・モーツァルト」というミュージカルがあるでしょう。もともとはマンガだったらしいけど。あれみたいに「マドモアゼル謙信」ってミュージカルを作ってもらうのが夢なの。



美以:(カネゴン王妃にむかって)だからマドモアゼル謙信って呼んであげて下さい。ちょっ

と長いけど。



マド謙信:私が小説やお芝居になる時って、川中島の戦いのことばっかり長くなるけど、そのミュージカルのハイライトシーンは鶴岡八幡宮の管領就任式にしてほしいの。きれいな衣装を着て、『ドント・クライ・フォー・ミー・アルゼンティーナ』か『ユー・レイズ・ミー・アップ』みたいな歌を歌うのよ。



美以:(カネゴン王妃に向かって声をひそめて)川中島で武田信玄と一騎打ちした人が実は女だったって話なら創れそうだけど、都へ行って帝や将軍に謁見したり、大徳寺へ行って座禅くんだり、関東管領に就任した人が女だったっていうのは無理だって言ってるんだけど、きかないんです。



マド謙信:あーら、関東管領はローマ教皇じゃないんだから男かどうかの検査なんか受けなくても就任できるのよ

。

美以:でも、あなた二十七歳の時に「比叡山で出家する」って手紙を書いて、城を出たでしょう。その頃、女が比叡山になんか行けたかしら。



マド謙信:誰が比叡山へ行くものですか。



美以:(カネゴン王妃に向かって)比叡山に行くっていうのは、イングランド風に言えば

修道院に入るみたいなものです。この人は日本の戦国武将の中では信心深かったことで

有名なんですけど。



マド謙信:美しい女城主が国を捨てようとする理由なんてほら、あれしかないじゃない。

カネゴン王妃:何じゃ?



マド謙信:ある男のもとへはしったのよ。でも越後と信濃の国境に来た時、どうしただか

体が止まってしまったの。



カネゴン王妃:何と申す男のもとへ行こうとしたのじゃ?



マド謙信:それはね、(笑って)またいつか話すわ。






八切止夫氏の「上杉謙信女性説」は謙信が戦に出ては撤退する日取りが女性の生理周期に似ているあっていることや、都へ行った時に将軍の妻の家つまり女所帯に逗留していることを根拠として説得力があります。史実とは思えなくても、戦国武将中もっとも勇ましく男性的で

厳格(悪くいえばユーモアのセンスに欠ける?)なイメージの武将が「実は女だったかも」と

いう説があるのは、なにやら男社会の抜け穴を見つけたようで、女の私としては愉快なのです。




イングランド王妃の影武者?

英国の女流劇作家キャリル・チャーチルの「トップ・ガールズ」という戯曲の

第1幕では人材派遣会社で専務になったヒロイン、マーリーンの昇進祝いのディナー

パーティに女性探検家のイザベラ・バードや女であることを隠して教皇になったヨアンナや鎌倉時代の歌人の後深草院二条など歴史や芸術で名を知られた各時代の女性たちがやってきていわゆるガールズトークを繰り広げます。不肖、私もそれに見習って、私の頭の「茶の間」にやってくる各時代の女性たちとの会話の一部を戯曲風に書いてみたいと思うのです。今までこのブログではお話しておりませんでしたが、私の頭の中の茶の間?には歴史上の人物か、物語の登場人物らしき人があらわれておしゃべりをしていくことがあるのです。どうなることやら。まずは前回の日記の最後に現れたヨーロッパ宮廷衣装の婦人のお話をきいてみましょう。




ヨーロッパ宮廷衣装の婦人: わらわはイングランド王妃キャサリン・オブ・アラゴン…

のそのう、そなたの国の言葉でいえば影武者のキャサリン・オブ・カネゴンじゃ。



美以: 王妃に影武者がいたんですか?



カネゴン王妃:その『薔薇の冠』を読んでそちにもわかったであろう。我が主君キャサリン王妃の立場がどれほど危ういものであったか。危難の折には王妃の身代わりとなるのが我がつとめ、ゆえに王妃に似た装いも、いくらか尊大な立ち居ふるまいもゆるされておる。



美以: 王妃の替え玉なら影武者じゃなくて、「影王妃」というべきでございましょうか?



カネゴン王妃:キャサリン様のお命をねらう者は数知れず、「影王妃」はわらわばかりではない。



美以: きっとキャサリン・オブ・ヒバゴンとか、キャサリン・オブ・ザイゴンとかガスケゴンとか、怪獣図鑑をひもとけばいくらでも影王妃があらわれそうですね。キャサリン・オブ・モエヨドラゴンなんていう影王妃はきっと中国武術の心得があって、ヘンリー王やアン・ブーリンの送ってくる刺客をみんな返り討ちにしてしまうんでしょうね。



王妃:ドラゴンは存じておるがヒバゴンとは何じゃ?


美以: 昭和40年代に広島県と島根県の境にある比婆山連峰付近で出没したと言われる謎の類人猿です。

王妃:全くつまらんことをよくおぼえておるのう。そちは。




美以:カネゴンもヒバゴンも小学生の時読んだ雑誌で知ったの

です。カネゴンについても、がま口型の財布のような口をしていてお金を食べる怪獣だというのだけは存じておりますが、カネゴンが出てくるドラマが放送されたのは私が物心つく前でしたから、どんなお話に出てくるかは知らないのです。

カネゴン王妃: ところで、ステラよ。


美以: (あたりを見回して)ステラって誰?


王妃「忘れたか、そちが畏れ多くもキャサリン王妃と同じ宗旨の学校に2年ばかり通っておった頃、なぜだかそういう英語名で呼ばれておったではないか。


美以:そんな時代もありましたね。ちなみに私に容姿性格がよく似ていたらしい遠縁のおばさんはマルチン・ルターが、さらにその妹はヘンリー8世王が始めた宗旨の信者です。こうしてみると私の家系は結構チューダー王朝と縁が深い、かも、しれませんねえ。基本的にうちの宗旨は浄土宗ですが。

カネゴン王妃: そちに親戚呼ばわりされたらチューダー王家も迷惑じゃ。(嘆息をついて)全く日本人というのは宗教的にめちゃくちゃじゃ。キャサリン王妃様が何のためにあれほど苦労されたかのかわからん。ところでそちはさっきから、キャサリン王妃やイザベル女王を武田信玄や上杉謙信にたとえたりしておるようじゃが、まあこの二人はそちの国では尊敬されている英雄であろうが、我が主君とその母君にくらべたら、いささかスケールが小さいのではあるまいか。


その時、鎧を着て、白い布で頭を包んだ女が、カネゴン王妃の隣に現れる。






石井美樹子著『薔薇の冠―イギリス王妃キャサリンの生涯』を読んで―脳内に王妃現る?

昨年暮れにNHKBSで放送された「皇帝たちの野望・ヘンリー8世」を視て、ヘンリーの最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの気骨のある生き方に感銘を受けた私。今年5月に観たシアター・クラシックスの「ショートプレイ・ウィークエンド2011」の第4話

「ケイトとイサベル」もキャサリン役を演じることになった女優と母イサベル女王との出会いを描いていました。

 そんなこんなでキャサリン・オブ・アラゴンがちょっとマイブームになった私はその後、シェイクスピアの『ヘンリー8世』(白水Uブックス 37、小田島雄志/訳)を読みました。このお芝居は題名は王の名がついているけれど、ヒロインはキャサリン王妃という感じで、「ケイトとイサベル」のケイトがこの役を演じるのに女優生命を賭けていたのも理解できました。でもキャサリンから王妃の座を奪ったアン・ブーリンのことも敵役としては描かず、美しく愛らしい女性なので王が寵愛するのもいたしかたないとされております。

 そして今月読んだのが『薔薇の冠―イギリス王妃キャサリンの生涯』(石井美樹子、朝日新聞社1993)です。ネットなどで調べた限り、日本で出ているキャサリン・オブ・アラゴンについての本としては最も評価が高い本で確かに良書です。かなり厚いのですが、通勤電車の中にも持ち込んで夢中でページを繰りました。テレビ番組などでよく取り上げられる離婚問題周辺だけでなく、上記の「ケイトとイサベル」の中でも語られていたキャサリンの若き日の苦難についても詳しく書かれています。


イングランドとスペインの同盟のあかしとしてヘンリー7世の皇太子アーサーの花嫁としてやってきたキャサリンは贅をつくした大歓迎を受け、豪華な衣装で結婚式をあげます。しかしその裏で実家のスペイン王家とヘンリー7世は彼女の持参金の引渡しでごたごたしていました。さらに夫のアーサーは病で早世、姑のエリザベス王妃が亡くなった後、危うく舅の後妻にさせられそうになったりします。母イザベラの反対のおかげでそれは免れ、

ローマ教皇庁の許可も得て新しく皇太子になったヘンリー王子(後のヘンリー8世)と婚約します。しかしその後もしまりやだったヘンリー7世は彼女の生計費を出し渋り、実家のスペインからの送金もなく、彼女は王女なのに逼迫した生活を送ります。さらに母のカスティリア女王イザベルの死により、スペインは落ち目となり、ヘンリー王子との婚約も解消されそうになります。

 

 母が生きていれば、なにもかも違っていたにちがいない。少なくとも、それからさらに四年半ものあいだ、世に忘れ去られたまま、逼塞し、絶望と不安の淵を歩むという最悪の状態に追いこまれることはなかっただろう。

 「最後の十字軍兵士」として全キリスト教界の敬愛を集めた母イザベラは、いわばヨーロッパの君主たちの良心であり、かれらの暴走を抑える箍(たが)だった。

 (本文133頁より引用)


しみったれの度合いではヘンリー(7世)とフェルナンド(キャサリンの父)ほど互角の相手はいない。ふたりは、持参金問題にかんしては、たがいに一歩の譲らなかった。フェルナンドの主張はこうである。キャサリンの持参した財宝は亡きイザベラ女王のもので、持参金も富裕なカスティリアの国庫から支払われることになっていた。アラゴンの金庫の鍵はおいそれと開けることはできぬ、と。ヘンリーは、キャサリンの困窮をその目で見て知っていた。だが、力で王座を手にいれた政治家にとって、人情を政治に優先させることは人生哲学に反した。

 そうこうしているあいだに、キャサリンの困窮度は増してゆく。着替えはおろか、食べる物にもこと欠く日がつづく。宮廷での晩餐や余興にたまさかお呼びがあっても、垢にまみれてすり切れた衣装を人前にさらす屈辱に耐えられず、姿を見せることさえできない。キャサリンにスペインから付き添ってきた若い六人の女官たちの給料はイギリスに到着いらい未払いのまま、女官たちは、祖国から持参した金も宝石類も生活に使い果たしていた。もはや、持参金の一部となるはずの銀器や宝石まで手放さなければ生きてはゆけない。

(本文174頁より引用)


 王女なのにこんな生活とは。厩舎の真上に住まわされたりもしたそうな。そんな生活の中、スペインからきた大使のフエンサリダに帰国を勧められたりしてもキャサリンはヘンリー王子の結婚を信じ続けます。彼女に信じた通り、父王の死後即位したヘンリー8世はキャサリンとの結婚を宣言し、側近たちを仰天させます。彼はキャサリンを愛し続けていたのでした。文字通り白馬に乗った王子様として不遇の女性を救ったのです。

 

 キャサリンが後年、離婚しようとする夫の仕打ちに耐え、修道院に入ることを勧める教皇の説得にも屈せず生き抜いた勇気はイザベル女王の血を受け継いでいる上に、青春時代の苦労にも培われていたのでしょう。さらにヘンリー8世が恋女房の離婚を考えるに至ったのは、人間として統治者としてキャサリンに自分よりすぐれているものを感じて嫉妬が生じてきたこと、さらにキャサリンの父のアラゴン王フェルナンドと甥の神聖ローマ皇帝カール5世に度々煮え湯を飲まされたことための復讐心もあったようです。またライバルの元侍女アン・ブーリンも王妃になれる見込みがつくまでヘンリーに体を許さず、ただの愛人になることは拒否していました。玉の輿ねらいの女などではなく、思想家であり、政治家だったのです。いわゆる年老いて子が産めなくなった正室に嫌気がさした殿様が、若い侍女のとりこになってしまったとかいういわゆる大奥ものメロドラマとはまるきりスケールがちがいます。



 それにしてキャサリンの母のイザベラは偉大な女王だったのですねえ。なんだか日本人に例えるなら、女の武田信玄みたいな人。亡くなった五十三歳という年も同じくらいだし、死んだとたんに家族たちが悲運に見舞われだしたのまで似ています。その娘のキャサリンは実家の利益だけを考えるのでもなく、夫を愛してはいても盲目的に従うのでもなく、自分の立場の正統性を信じてゆるがなかった、日本風に言えばまさに義に生きた人、上杉謙信みたいな人ですね。などと考えておりますと私の頭の中に十六世紀ヨーロッパ風のドレスを着た婦人が現れました。今までこのブログではお話しておりませんでしたが、

私の頭の中の茶の間? には歴史上の人物か、物語の登場人物らしき人があらわれておしゃべりをしていくことがあるのです。さてこのご婦人がおっしゃるには

「わらわはイングランド王ヘンリー8世の妃、キャサリン・オブ・アラゴン……」




欲望という名の女優―太地喜和子 (長田渚左著 角川文庫平成九年)

特にファンだったわけではございませんが、1992年に太地喜和子さんが下田で水死したニュースにはショックを受け、ただ一度しか生の舞台を観る機会を持たなかったことが悔やまれました。


色気がある、セクシーだといわれる女性芸能人はたいてい同性の反感をかう、眉をひそめて「全く男ってのはああいう女好きなのよねえ」と言いたい気分にさせるものです。喜和子は色っぽい役を得意とする女優でありながら、女性にもその手の不快感を起こさせませんでした。彼女が演じた役で私が明確に記憶しているのは「白い巨塔」の財前五郎の愛人役ぐらいですが、なんとなくこの人は話のわかる気性のさっぱりした人だという気がしていました。喜和子から妹分と呼ばれ、親しくしていたスポーツライターが書いたこの本によれば、彼女は想像通りの人だったようです。


  人の痛みの分る人だった。どんなときも上から下を見おろして何かを言うような人ではなかった。それは年齢がいくら違っていようと、また立場そのものがはるかに下の者に対しても同じだった。自分の身の丈を縮めて人の話に耳を傾ける人だった。(本文より引用)


喜和子は平均的な家庭で両親の愛情を受けて育っているにも関わらず、「自分は戦災孤児で今の両親に拾われたのだ。生みの親が誰かわからないのでつきとめてみたい」とお酒の席で人に話していたそうです。彼女が若く無名な女優だった時には、哀れな身の上話をすることによって力を持っている男性の気をひき、キャリアを拓くのに役立ってもいましたし、家族も含めて周囲の人たちは「女優とはそういうもの」という感じで、特に不快感も持たなかったようです。


現在は歌舞伎界の重鎮となっている俳優と彼女とのラブロマンスは、少々信じがたい話。彼が19歳、喜和子が31歳の時出会って、逢える限り毎日逢っていたそうです。芝居の巡業で北海道と九州に離れていても、空港のカフェで顔を見るだけであっても。彼の父親の歌舞伎の名優は優れた女優と認め、交際を許可していました。



若き日の喜和子と熱烈な恋に落ちた映画界の名優は彼女の女優としての頂点は1979年の秋元松代作 「近松心中物語」の梅川役だったと言っています。この芝居のビデオは通信制大学の授業で視たことがありますが、個人的にはあまり心ひかれませんでした。機会があれば秋元松代が喜和子のために書いた戯曲をちゃんと 読んでみることにしましょう。

先に書いたように喜和子は優しい女性でしたが、40歳を越えるころから人の好き嫌いが激しくなり、また脚本にたいしてあれこれと要求を出し、手直しをさせるようになっていったとか。大女優ですからもとから仕事には厳しかったようですが。



上記の映画の名優の言葉。


 太地くんは、すべてがシンドくなってきたんじゃないですか。人に対して、本に対して、すべてにおいて他人に対して要求をすることは、僕は体力的な衰えからきてると思います。


他者への要求が強くなるのは自分が衰えているからというのは、なんだか今の私自身にもあてはまりそうでこれがいわゆるオバサン化というのか。大女優と自分をいっしょくたにするのは喜和子に失礼な気もいたしますが。

またこの頃の喜和子は先ほどの出生についての自分の創作と現実とが混乱して、産みの母が山田五十鈴や淡谷のり子ではないかと本気で関係者に電話したりしたそうです。亡くなる少し前には緑内障で視力も危機的な状態だったと。そうしたことから著者は、彼女の死因は車の転落による事故死ではあるが、同乗者はすべて生還していること、彼女の履いていたブーツに傷がなくもがいた形跡がないことから、女優として限界を感じていた本人が事故という機会を利用して自ら人生に幕をおろしたのではないか?と推察しています。確証は得られませんが。


喜和子は師と仰いだ杉村春子の当たり役「欲望という名の電車」のブランチを演じることを生涯熱望しながらも果たしませんでした。この本の題名はそれにちなんでいると思われますが、もう少し何とかならないでしょうか。これだと何だか男性遍歴ばっかり書いてある本みたいです。

 







 







松本清張 『文豪』

松本清張 『文豪』

文春文庫 2000年6月刊

 日本の近代の文豪たちについての三部作です。もっともボリュームのあるのが第1章の「行者神髄」。

 早春のうすら寒い雨の日、坪内逍遥が晩年を過ごした熱海の双柿舎を訪れた語り手の作家。みすぼらしい服装をした虫の好かない六十過ぎの男と出会います。男は双柿舎の和洋中すべての建築形式をミックスした塔の形のした書庫を「これを建てた時の逍遥はまともな精神状態ではなかった」と評し、逍遥の死は自殺だったと言い出します。そして逍遥は躁うつ病(現在では双極性障害というそうですが)をわずらっていて、三十歳過ぎで小説の筆を折ったのもそのせいだとも言います。また根津遊郭の遊女だったセンを正妻にしたことで生涯苦しみつづけたとも。この毒舌家の男によれば、いわゆる男が遊女に夢中になって身請けしたというのではなく、年季の明けたセンが身一つで押しかけたとのこと。セン夫人は内助の功で逍遥を支え続けた良妻として世間に知られているが、本当は我執、競争心、直感力の強いヒステリー症の女で夫を押さえ込み続けたのだと。

 第2章は尾崎紅葉と泉鏡花の確執を描いた「葉花星宿」。第3章「正太夫の舌」は三十八歳で不遇のうちに死んだ批評家斎藤緑雨について書いています。この作品によれば、生活に窮した緑雨を支え続けた友人は大逆事件で知られる幸徳秋水でした。また緑雨は樋口一葉を秘かに恋していたのではないかと推察しています。

 私は一昨年、明治の歌舞伎について通信制大学の卒業論文を書きました。その際、明治の文学、作家についての基礎知識がなくて七転八倒しました。あれに取りかかる前にこの作品を読んでいたらと思わずにいられません。

 この本はあくまで小説なので、これを読んで基礎知識を得たとするのは危険なのはわかっております。でも女性関係、他の作家や弟子の才能への嫉妬など読みやすい、つまり俗な内容を下品になりすぎないように語っているので、作家たち、作品、文壇の流れがすっとつかめるのです。私のような赤ん坊並みに消化力の弱い頭脳にとっては、清張先生が「日本の近代文学」に食べやすい味をつけてやわらかく料理してくださった「離乳食」のようです。

 逍遥の嫉妬、羨望によって文壇から追放されてしまったという天才作家山田美妙の作品をそのうち読んでみたいと思います。それから熱海の双柿舎もいつか訪れたいものです。