少年クラブ休刊の話に戻すと、他にも講談社には児童誌が元々2冊刊行していたのも大きかった。
実は講談社には少年クラブの他に『ぼくら』という児童雑誌も発行しており、2冊の販売力を総合的に分析して会社として最終的に講談社は『ぼくら』を存続させることに決めたのである。
ここで少年クラブとぼくらの誌面構成を述べると、少年クラブは人気漫画家の桑田先生を軸に、1.5流~2流の漫画家先生で構成していた。
ここで注目したいのは、手塚治虫も横山先生もほとんど少年クラブには連載していない点だった。
正確に言えば、少年クラブに手塚治虫は過去に連載もしたし、横山先生は読み切り作品を掲載している。
だが、2人の作家を使いながら桑田先生を使うと
原稿料
の予算オーバーになるのである。そこで講談社は
原稿料が3人の中で一番安くて人気抜群
な桑田先生を雑誌の柱にしたのである。
これが少年クラブに手塚治虫、横山先生がほとんど掲載されない本当の理由だった。
一方ぼくらは桑田先生のような一流作家はいなかったが
七色仮面やナショナルキッド
といった、まずコンテンツありき!に力を入れている雑誌だった。
後年、ぼくらはウルトラマンやウルトラセブンの雑誌展開もしており、このぼくらの誌面戦略はある意味正しかった。
そういう、会社事情による休刊であり、講談社は名と実のうち、実を選んだのである。
この少年クラブの整理休刊は、当時の各児童誌出版社に大きな影響を与えた。
それは同じ頃、集英社も『少年ブック』と『日の丸』を販売していたのだが
『日の丸』
が地上最低の月刊児童誌の売れ行きだったため
手塚治虫、横山先生
の両巨頭がいるにも関わらずさっさと雑誌を整理休刊させたのである。
この集英社の方針を後押しをした理由こそが、少年クラブの休刊だった。
ナント!日の丸は少年クラブ休刊の僅か3ヶ月後に休刊したのである。
この出来事を僕はパチンコ業界におけるマルホン民事再生、奥村倒産のケースに関連して見えてならなかった。
力なき出版社(メーカー)がタオルを投げ、すぐさま別出版社(メーカー)もギブアップする…
ただ、マルホンは実際再び甦ったので、若干このケースとは違うのだが…
そして…月刊児童誌の本当の冬の時代がこの後にやって来たのである…
つづく