谷村パチンコランドの思い出(その4) | 不屈座のブログ

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だが、世の中は当たり前だが、僕中心に回っていない。

前述したように、谷村パチンコランドの会社の事情により経費の見直しが始まったのである。

その格好の的が僕だった。

僕の連載コラムを他のライターに変えるだけでも月にかなりのユッキーナが浮く…

しかし、僕としても自分のライフラインが無くなるのを黙って見ていられない。

こうして僕と谷村パチンコランド編集部は水面下で、それこそ泥沼の第一歩に足を踏み込むのである。

ここで前述した打ち切りのアクセス数だが、分かりやすい対象として谷村先生のアクセスを基準に話をしてみよう。

谷村先生の日々のアクセス数を仮に100とした場合、日替りコラムは10未満だと連載終了のイエローカードが発令される。

そしてイエローカードが発令された以上、暫定期間中に20へたどり着かない場合…レッドカードが渡され

谷村パチンコランド読者にその理由を知られることなく、コラム連載終了となる。

そして当時の僕のアクセス数は…

インタビューが30、火曜日コラムは15前後だった。

ちなみにインタビューの30は当時の日替りコラム連載作品の中では人気順位が1位で、たまに2位というポジションだった。

なので、それを踏まえて僕はサイト内での人気も本物だった。

だが、体制側が無茶を言うのはいつも一緒。

僕は火曜日コラムのアクセス数が15あるにも関わらずイエローカードが発動したのである。

繰り返す、イエローカードの基準が15にはね上がったのではなく、僕だけ15あるのにイエローカードを与えたのである。

他のコラムニストの中には、僕よりも低いアクセス数の人がいたのに…

だから、日頃から自由や平等を謳う僕としては、これに対して黙っていられなかった。

そしてこの経緯に到達したのが、前述した僕のコスパ論だった。

谷村パチンコランド編集部としては、火曜日コラムは、20ないと満足出来ない数値だったのである。

今軽く15や20の数値が出ているが、たった1上げるだけでも並々ならぬ努力が必要なのである。

その壁の高さにどれだけのコラムニストが泣いたことか…

一体、谷村パチンコランド編集部は、類々たる屍の存在をどのように見ていたのか?

歯車が牙を研ぎ始めたのは、ちょうどこの頃だった。

つづく