梶原先生がこの世に撒いた種の一つは
空手ブーム
を興したことだ。
その前に、先に柔道ブームで話すと、確かに柔道一直線のTVドラマを通じて柔道を習う視聴者が増えたが
講道館
が、宣伝面では非協力だったため、柔道はブームにまでは至らなかった。
むしろ柔道賛歌の時期に空手が既にブームになっていたことで、少しは協力的になったぐらいだろうか…
その点、空手の普及率はトンでもなかった。
きっかけは昭和46年5月に始まった
空手バカ一代(作画は、つのだじろう先生・影丸穣也先生)
だった。
しかし厳密に言えば、つのだ先生が担当した第一部ではなく、影丸先生が担当した第二部が作品としては人気爆発に至り…
その前に、なぜ第一部と第二部では、作画の先生が違うのか?などを話すと
そこには苦い現実があった。
読者諸君も、薄々お気付きだろうが…
梶原先生の原稿執筆スピードは確かに早いのだが、限界があるのだ。
にも関わらず、連載を減らさなかった現実…
そのしわ寄せは、実は作画の先生に及んでいた。
つのだ先生の場合で言えば、空手バカ一代は連載当初、締め切りの一週間前に原作到着の決め事だったのが、最終的には
原稿締め切り日に原作が届くという
非常に迷惑な行為を梶原先生は行っていたのだった。
つのだ先生は、この怒りから作画降板に至ったという。
だが、つのだ先生には大変申し訳ないのだが、梶原先生の行動には、更に悪いパターンも存在していた(滝汗)。
ある先生には
急に訪ね、屋台であれこれ話し、それを上手くまとめてよ
と、言ってタクシーに乗って自分は銀座に向かい、打ち合わせレベルで作画の先生に絵を描かせる
非常識な振舞い
も行っている。
先生が逮捕されるのは、これより10年先の、昭和58年5月の出来事だが
昭和45年以降の梶原先生には
マイナスイメージ
に繋がるエピソードが多くなり、ファンとしては
非常にやるせない気持ち
になる…
そして…
先生の振舞いは、いつしか作品にも反映していくのだった…
~明日に続く~