梶原一騎先生のパチンコ業界における業績は…(その14) | 不屈座のブログ

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繰り返すが、昭和43年の梶原先生の仕事ぶりは半端ではなかった。

巨人の星が大ヒット、柔道一直線がヒットしはじめ、夕やけ番長も人気の手応えを感じた矢先に、正月から

『あしたのジョー』(作画はちばてつや先生)と

『タイガーマスク』(作画は辻なおき先生)

のダブル連載が始まる(この2作品が同時期に連載開始しているのは意外に知られていない)。

この時、掲載誌に注目すると、巨人の星とあしたのジョーは少年マガジン、タイガーマスクは、ぼくら(講談社発行の月刊誌)だった。

そう、少年マガジンには2作品が同時に週刊連載していたのである。

ただし、巨人の星が梶原一騎名義に対し、あしたのジョーは、本名(高森朝樹)をもじった高森朝雄名義だった。

この少年マガジンで始めた手法は、ナント!少年キングでも採用される。

少年キングで、柔道一直線と同時に連載した作品…それが昭和43年7月に始まった

『ジャイアント台風』(高森朝雄名義)

だ。辻なおき先生の描くジャイアント馬場は、タイガーマスクに出てくるジャイアント馬場とソックリで、こちらもあっという間の人気作品になった。

残念ながらTV化こそならなかったが、この時期の少年キングを先生は見事に支え、翌年(昭和44年)2月には

『キックの鬼』高尾でパチンコ化。(作画は中城健先生)

翌々年(昭和45年)4月には
『赤き血のイレブン』(作画は園田光慶先生)

とキックボクシングとサッカーマンガのジャンルも開拓した。

少年キングはマイナー週刊誌の部類になるのだが、キックボクシングを語る上では、避けられない雑誌であり、赤き血のイレブンは

『キャプテン翼』

が誕生するまでのサッカーマンガの代表作になっていた。

少年画報社と梶原先生は、講談社と全く違う分野の開拓に挑み、見事に成功しており、この面についてもっと評価されても良いと個人的には思う。

そんなわけで、我らが梶原先生は、出版業界を潤わせながら、現実のプロスポーツ団体にも影響を与えたんですよ!

これだけでも日本という国は…(以下リフレイン)。

~明日に続く~