梶原一騎先生のパチンコ業界における業績は…(その2) | 不屈座のブログ

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さて、我が心の師匠、梶原先生の初連載作品は、デビューから2年後の

昭和30年3月号の、冒険王という月刊誌に掲載された

『少年プロレス王 鉄腕リキヤ』というプロレス絵物語です。

で、この作画の先生が

吉田竜夫先生!

そうです、知る人ぞ知る

タツノコプロの設立者

なんです。

ちなみに吉田先生はこの作品より2ヶ月前の作品で

漫画家デビュー

なんですが、それも相方が

梶原先生(爆)

であり、梶原先生がいなければ吉田先生は

漫画家デビューもしなければ、タツノコプロ

も誕生しているかどうかですし、誕生していても現在と形態が違う可能性はかなり高いと思われます。

タツノコプロがなければ、現在のパチンコ業界の勢力図も変化していると思われ

サミーはガッチャマン、ハクション大魔王

平和はヤッターマン

のパチンコ機がデビューしていなかった可能性があり

吉田先生にとって梶原先生は

恩人

クラスと言っても過言じゃないでしょう。

なぜなら、当時の出版業界の事情を話すと、現在とは違い

原作が漫画よりも権威があり

梶原先生の原作に対し、どの漫画家先生を当てるか?という手法で作品がデビューしていたからです。

当然ですが、力関係で言えば梶原先生が上であり、梶原先生が吉田先生を指名しなければ

吉田先生のデビューは更に先になっていたのです。

(※ただし、翌年くらいから原作者と漫画家の力関係は現在のような関係になっていきます)

お二人の関係は、吉田先生の方が梶原先生よりも4歳年上なのに、(終生)梶原先生が主導権を取っていました。

ちなみに、この作品も勝利のかげに同様

絵物語な挿し絵を吉田先生が描かれていたのです。

私たちがよく知っているガッチャマンの

暑苦しいキャラクター(爆)

は、実は、この作品が原点だったりします。

この作品、実はタイトルこそ鉄腕アトムのパクリとして拝借して、当時の子供に取っ掛かりを与えていますが(失礼)、内容はガチなプロレス読み物として完成しており、月刊誌で

日本初のプロレス読み物

として34回連載された人気作品なのでした。

~明日に続く~

※今回は僕の気が済むまで語るので、いつ話が終わるのか未定です(爆)。