馬鹿に釘 もとい 糠に釘
凶も もとい 今日も暖簾に腕押し、真意が伝わらない人を相手に懇々と諭したが
それは、全くの無駄な時間だと捉えるか、捉えないかは、自由だ~~と言うのではなく
私は決してその行為、行動は決して無駄だと思わないのである。
ただ、今の私の心の中を、エックス線で照らせば、嘆きたい気持は満ちているのが
明かな影となり映し出される事は、正直にモザイクも入れず隠さないつもりである。
道徳観念、社会的な通念としてあるだろう、正義の二文字を現してみると
そこには、弱きを助け、強きを挫く、勇敢な姿と言葉が見えている訳だが
何だか現実の社会の中には、金になるカモがいればトコトンシャブリ尽くし
骨と皮になったら捨ててしまい、骨と皮になった者を更に、善意の救いの手を差し伸ばし
善意の者を装いながら、再び同じ者が、骨と皮になった弱り果てた人を救う者こそが
まるで、道徳的な正義の者であるかのように思い込む、金が全てで正義などは
本当に二の次的な考えの者が氾濫していて、本当に困ったものだと思うのである。
そんな者に向かい、何を言っても無駄だと諦めてしまえば、その者は永遠に自らの
間違った考えを直す事もなく、これが道徳なのだ、社会通念上に於いて好ましい事であり
このことを誰かに伝え、継承しなくては成らないのだと、義務感までも創り出させ
アメーバーが分裂するように、どんどんと細胞を増やして行くのだろう。
人を正そうとして諭す言葉は、タミフルのように、即効性のある、よく効く特効薬ではないが
ワクチンのように、ジワジワと効力を現して、ウイルスが進入した時に症状を緩和させる様な
ものでもなくて、富山の薬売りが売る、総合感冒薬的な、効くのか効かないのか分からない
全く怪しげなものなのかも知れないが、与えておけば何だか安心する、自己満足みたいな
思い込みに浸るだけでも良いかな程度であり、諭された本人が道徳観念がなければ
何も役に立たないが、何かの拍子に思い出してくれれば、それだけで良いのである。
自らが被害者を装い、ヒーローに成りたがる者もいたり、我が子に毒物を注射して
献身的に介護する事でを見せ、まわりの人から良い母親だと思われる事を
快感に感じ、何人もの子供を病に貶めて殺してしまう、残虐な精神異常者も
実際に存在しているのが、これだけの多くの人数の人が、一つの国に暮らしている
現実の社会であるのだと、そこから目を背け、人々は皆同じであると考えるのは
危険な事なのかも知れないと、痛切に感じた1日であったのだが、きっと後には
本当の正義とは、慈善活動とは何かと、これからの人生の中で、自らが気付く時が
訪れると頑なに信じて、そう言えばあの時、お節介な輩がいたっけななんて
思い出してくれれば、なんとも有り難いのである。
全く昔からこんな性格で、よその子供が歩いている前に、煙草をポイ捨てした
50代の鼻毛親爺に、20代の若者が説教をする光景の結末は、若い者を小馬鹿に見て
非道徳者は言い訳を並べ始め、貴様に言われる筋合いなどないと、捨てぜりふを吐き
それでも何故にそんな事をするのかと食い下がり、言い争いの喧嘩となってしまい
こんな親爺と喧嘩をしても、なんにも成らない事を悟った訳であるが
何か因果があったのだろう、偶然にもその鼻毛親爺が、我が子を子供連れて歩いている
場面に出くわして、しめたチャンスだと、ポケットからおもむろに煙草を取り出して
歩く子供の前に、火を付けない煙草を捨てたのである。
一瞬、鼻毛親爺は私の方を見て、なんだこの野郎、危ないじゃないかと言う顔をしたが
私の顔を見て、頭を一つ下げて、何も言わずに立ち去ったのであった。
若気の至り、若いからであるからこその行動であったが、今ではとてもそんな行動は
恐ろしくて出来ないのであるのが正直なところである。
私は完全な馬鹿ではない、巷の情報や自らの失敗した経験から得た
学習能力はしっかりと持ち得ているのである。
下手をすればナイフでサクリ、傘でメン玉をグサリ、そんな事も実際に起きているのだから
本当に、男として正義を貫かなくては成らない時以外には、馬鹿を相手に行動はしない。
でも分からない、しちゃうかも知れない怖さが、我に存在しているから・・・・
正義を貫いた被害者として、新聞だけには載らないようにしたいのである。
おわり