左官日和

左官日和

日々、七転八倒の左官日和。


当時私が頭を務めて町場の現場をまとめている中で、メンバーが入っては辞めていく繰り返しが続いていましたが、ハルとチェリーは比較的長く続けてくれていました。ハルの当時の年齢は今の私くらいで、今だからこそ想像できる彼の思いが結構あります。チェリーの当時の年齢にはまだ達していませんが。あの頃は過酷な現場が続いていました。ハルとチェリーが同じ時期に居たら良かったかもしれません。逆にもっとうまく行かなかったかもしれませんが。

この時の文章からすると、チェリーの一件の直後だったようです。そこで呆然とし、脱力し、思わず口をついて出てしまうような感じで残したような記憶が蘇ります。

チェリーはその頃すでに高齢でした。もともと少し前に入っていたSが呼んできたのでした。Sも私より歳が上で、経験年数もありましたが、やや拙さも見え、町場の仕事には慣れていないようでした。それで自らチェリーを呼んできたのです。チェリーの方が仕事が出来るためか、Sはだんだんとフェードアウトしていき、チェリーだけが残ったのでした。

しかしだんだんとチェリーは慣れからくる緩みだったのか、遅刻が目立つようになりました。あからさまに二日酔いの香りをさせる時もありました。あまりにも続いたのでまずは丁寧に指摘する所から始めようと話をしたら「殴りかかってきた」のでした。逆ギレというやつです。歳も歳でしたし、二日酔いというのもあって簡単によけられましたし多少ぶつかってきてもたいしてダメージはありませんでした。容易く組み伏せられたと思います。ただそうすると逆に私が相手を暴行したみたいになりかねなかったのでとりあえず外に出て、第三者の目に触れる状況にするとチェリーはそのまま引っ込みもつかなくなってかどこへともなく消えたのでした。その後しばらくしてSを通じて会社へ苦情(!?)を入れてきたことがあったようですが、どう逆立ちしても向こうに分がある話にはなりませんでしたので、そのうちフェードアウトしたようです。そもそもSもフェードアウトしていますので話の説得力を増すことも不可能だったと思います。

ただ、チェリーのことで思い出すのは、外壁のモルタル塗りです。けっして早くはないのですが、8ミリでも15ミリでも20ミリでも、時には30ミリでも、ラス網にからませながら一発でキレイに塗りつけていたことです。本来20も30も一発で塗ることはありませんが、外壁塗りの発注会社の担当者が一回で塗らないと絶対に手間にならないからといって一発塗りを推奨してきたこともあってのことでした。もちろん、塗りつけた後にグラスファイバー製のネットを全面に伏せ込み、乾いた後に柄にもよりますが最低でも3ミリ以上は左官の仕上げ材を塗る前提での下地です。とはいえ、というよりむしろ、一発だろうが2発だろうが平に塗ってやらないと仕上げた後に西陽が差したりしたら目も当てられなくなります。実際に拙い塗り手が仕上げた壁は酷いものです。まあ、西陽は仕方がない、という文化もありますが。昭和のイケイケの時代の古い団地のモルタルの壁などは西陽が差すと目が潰れるぐらいに陰影がついてるものです。

チェリーが塗った壁は、完璧にガラスみたいに、とはいきませんが、美しく平滑な仕上がりでした。モルタルといっても今の軽量モルタルですが、それでもそうは上手く塗れるものではありません。若いイケイケな感じで猛スピードで塗っていて、おお!っと思わせておいて西陽があたったらおお!?ってなるパターンも結構あります。また、モルタルは厚みをもたせる場合などは特に「塗り付け鏝」といって厚みがあり硬い鏝を使うものですが、軽量モルタルの外壁塗りの場合案外いるのが先が丸い、貼り付けの靱る薄めの鏝を使うパターンで、チェリーもそうでした。色々と理由はあるはずです。当時も今も思うのは、外壁のモルタル塗りの下地となるラス網、しかも通気ラス網下地というのは、結構フワフワです。モルタルが塗られて乾いてようやく抵抗感のある自立した壁になる感じです。ですから、普通は一回下地を安定させるために半分くらいの厚みで塗ります。それが乾いてから2回目で目的の厚みまで塗る、それが通常のプロセスです。30ミリだったら3回に分けるのが普通という考え方もあるはずです。その分お金がかかりますが。何にしても後味の悪い別れ方をしたチェリーですが、思い出すのはその安定したモルタルの塗り付けです。

ハルとは内部の仕上げ塗りの機会が多くありました。外部もありましたが外断熱といって軽量モルタルほど厚くは塗らず、樹脂モルタルを薄く塗ってメッシュを伏せ込んで下地とし、乾いてから仕上げ材を薄く塗る仕事が多くありました。ハルも達者な仕事をする人でした。ただ、柄をつける時、ランダムに良い感じでとか、ラフに良い感じでとか、ナチュラルに良い感じでというような曖昧で感覚的な仕上げが不得意でした。扇とか櫛引とかスパニッシュとか、パターンとして考案されて定着しているものならば出来た感じです。良い感じというニュアンスを説明されてパターン確認をしてスタートしても終わってみたら全然違う仕上がりでトラブルになることもありました。そうした感覚的なズレや残業覚悟のハードな現場といったストレスが蓄積して辞めることになったのでした。ですから、ハルとはトラブルで別れた感じではありません。じょじょに目線がズレてきて揃えようがなくなってしまった感じでしょうか。それは仕方の無いことです。ハルとまとめた現場には賃貸のアパートもあって、定期的にメンテナンスに入る機会があり、当時のことをよく思い出します。ハルは、細かい仕事をするための道具も豊富でいつも綺麗に管理している姿が印象的でした。ハルは今でもどこかで左官仕事を続けていると思います。チェリーの一件が起きたのはちょうど今ぐらいの暑い時期でした。それを引き金にして記憶がよみがえるのかもしれません。

結局音源まで!どこまで好きなん?

好きってわけじゃ。

好きなジャンルでもないでしょ。

「見上げない星空」

とか良い曲ですよ。どこまで誰が演奏してるかわかりませんけど。

たぶん1人でしょ?

そりゃDTMっぽいですが。

ドラマならシューボの

面々で演奏だよね。

全員ボーカルとダンス

無いですもんね。キーパーがドラムですか。

案外

14番がバネ効いたのを叩きそうだけど。

スチュアート

コープランドみたいな。ベースは‥‥10番の彼ですか?

でも6番の彼とかも良いんじゃないのかな。

渋い。

8番も良いですよ。

19番も良いの弾きそうだよね。

ギターはレオザにも弾いて欲しいけど‥

レオザはvo

徹するのが良いですよ。弾くなら鍵盤じゃないですか。

あるいはパッドみたいなのか。

ええ。

ギターはそうすると、あの元Jリーガーとか

良さそうだったけどねー。

ああ。

ボランチの彼とかも良いかな。21番。

ギターはもう1人

いても良いんじゃないですかね。

11番の新しいFW。

なるほど。ファンキーな感じで。

4番の彼も

フライングVとか似合いそう。

17番がキーボード。

DFラインでホーンセクション!

サックスは18番が。

似合いそうで言ったら14番

とかフルート良いんじゃない?

66番がバイオリン。

コンガかな。中盤で他の弦を。

中盤はあと16番です。

ターンテーブルとかは?

そうですか?

あとは5,13,45,86

DFラインでホーンですよね。

セカンドラインみたい。

マーチングスネアも欲しい。

5番はハーモニカとか?

ブルースハープとか。

7、9、15、25は‥なんだろ。

ダンサーも欲しいよね。

9番がマンドリン。

ん?15番がタンバリン。

25番がウッドベースとか?

7番がマラカス。

15番にタンバリンとかマラカス

とかダンスとかタップとか色々やってもらって。7番にオルガン。

セカンドキーパーの彼が‥

ハープ。

なんでよ。

合う感じしませんか?

ともあれレオザと誰か

ミュージシャンとコラボはないかね。

音楽とサッカー

って繋がりが良いですもんね。

マンCつながりで

ギャラガーから話来るとか。

日本だと‥

椎名林檎。

Dragon Ash、は違うか。

King Gnu。

サッチモス。

バブルガムブラザーズ。全てタイアップ。

渋谷系に

サッカーのコンピありませんでしたっけ?

UKじゃない

の?ラフトレードとか。

日本だと継木したみたいで。

仕方ないですけど。

ほぼあらゆるものが輸入。

そうじゃないものはドメス

ティック過ぎますし。

中田英寿が掘り起こしてる?

最近日本の低い

食料自給の問題に関心が向いてるみたいです。

凄い。

DG TAKANOも面白いですね。

2050年頃の人類は

2人に1人が水不足に陥るという観測に着目。

紆余曲折

経た後の話は物の見事にあらゆる要素が調和。

節水。

そして水道のノズルですもんね。

もともと実家が金属

加工業ってのが大きいにしても。

競合他社の環境系の

企業が技術的に拙くて製品のクオリティがもの凄く低かったって話も面白かったです。

理念が先走ってる

そうなるもんね。

中田英寿にしても高野社長に

しても着眼点、発想の源がかなりマクロなところが異色な気がします。

確かに。あまり風呂敷大きくし

過ぎると具体性乏しく抽象的になりすぎてモノにならなそうだけど。

それこそ「環境系」の多くの

会社みたいに。

着実に力をつけていったからこそ

そこまでマクロなビジョンを描けるのかもしれないね。

レオザのビジョンも相当デカいですよねー。



「左官日和」のスタートは2011年でしたので気がつけば10年以上、正確には13年続いていることになります。ただ、ある程度継続し始めたのは2016年からなので、そうするとまだ8年です。当初は左官を主な題材にしていて、今にしてみればなんとなく初々しく感じますが、それが本分だし、もっとそうしても良さそうだったのにそうならずにいるのが、左官仕事の難しさと大変さ、言語化の難しさだったのかもしれません。しかし、今はそんな縁側ののほほんとした日差しを思わせるタイトルをつける気にはなれません。他の仕事もそうであるように左官仕事の現場もいわば戦場だからです。

このときは左官をはじめて3年目で、「町場」と呼ばれる仕事をしていました。今考えると職人を従えてチームの頭に立って現場をまとめるというにはいきなり過ぎだった感じがしますが、当時は遮二無二やるしかありませんでした。そんなやり方にもメリットデメリット両方あったと思います。

普通はある程度の期間を1人の親方について仕事を覚えていくようです。基礎からみっちりと4.5年かければ“年季明け”といって一人立ち出来るといわれています。ただ、左官仕事はあまりにも広くてそんな年数で網羅するのは無理だというのが一般的な認識です。ですからほとんど一生かけて学ぶしかありません。それでも最初の段階でうまく基礎を叩き込めれば応用力が違ってきます。ろくでもないところで何年やっていても何も身につきません。もちろん学ぶ側の姿勢の問題もありますが、ある程度のところまではどんなパーソナリティでも修得させるという考え方がほとんど皆無な業界だから人手不足に陥っている面があります。わずかにしか過ぎないにしても、誰にでも基礎から必ず学ばせるという姿勢をみせる会社が出てきたのもここ最近のことです。昔からほとんど全ての会社がお題目だけ唱えることを念仏ほどにも行ってこなかったのが正直なところでしょう。だから習うよりナントカで何にせよ現場に放り込まれる方がマシな可能性も低くはありませんでした。

最初の最初は「町場」ではなく「野丁場」でした。思えば、最初に私に教えてくれるポジションについて下さった方は引退間近のおじいちゃんでした。会社に言われて無理矢理そのポジションにつけられたのでしょう、教えるモチベーションなども高いわけがありません。耳も遠く、同じ話をえんえんと繰り返し続ける人の良さそうな方ではありました。そのうち分かってきましたが、そもそもそのおじいちゃんが私に何かを教えなければならない筋合いは基本的に無いはずでした。そこを無理に有耶無耶にやらされていたのだと思います。教える代わりに日当を少し上げるとかそういう話でもされたのでしょう。ただ、どの程度まで技術を習得させるかとか具体的な計画は無さそうで完全に丸投げです。逆に言えばそうした状況でさえ斬新な世界だったのです。教える教えられる関係を金銭が発生する形で作り上げたというところまでで。教えるということがどれほど難しいかなど考えたことも無さそうでした。聞くところによるとそれまで未経験の新人といえばわけもわからずただ下働きをして鏝も握らせてもらえなないまま何年も過ごして嫌になって辞めるというパターンが常識みたいな世界だったらしいのです。それの功罪はとりあえずおいておくとして、仕事はとにかくそんな中で見て覚えろ、一服の時間(休憩時間)も自らは休まずに現場を見て学べというスタイルです。何か話を聞けるかと思ってもギャンブルの話か愚痴かどうでも良い世間話かのどれかでした。それももちろん一つの道だと思いますが、ついてくる人が多いかどうかは別です。ただ、ついて来れる奴がついてくればいい、と言っていられる時代が長く続いていたのです。また、下働きで職人の仕事を見ていられるという立場がしっかりと設定されていて、その大事さがきちんと認識されていればわけもわからず辞めるという事態にもならないはずなのですが、そうした説明も皆無で構わない時代が続いていたとも言えます。

そんな中でたまたま現場で一緒になった人を通じて、見かねて時間をみつけて色々と教えてくれる人がいました。その人が「師匠」です。「色々な人」達のもとで仕事をしてきたので、ある意味師匠はたくさんいるとの綺麗事も心に無いわけではありませんが、はっきりと「師匠」と呼べるのはその人だけです。休みの日まで教えることに時間を割いてくれたのはその人だけです。感謝してもしきれるものではありません。

しかし、その人とも「仲間」にはなれるけれど「チーム」にはなれない、とこの時感じていました。どういうことかというと、基本的に会社内にいる人どうしでチームにするということがなかったのです。当時は不思議でなりませんでした。今ではわかりますが。それは会社のスタイルとしか言いようがありません。業界のスタイルと言っても良いかもしれません。それは入ってみなければわからない類のものです。ですから、最近出てきたような、新人にきちんと技術を習得させる意思とビジョンを明確に表明している、情報をオープンにしていて、それなりの規模がある会社でなく、何もかもがグレーなところは昔ながらのガチャをし続ける状況になることへの覚悟が必要です。もちろん、そういう方が向いている人もいるはずです。

何にしてもいつでも困った時には質問したりすることができる、帰ることが出来る師弟関係みたいなものがあったらどんなに心強いだろうと思うことはよくあります。そういった関係性の相手を「仲間」と呼ぶこともできるかもしれません。そして、それを得るのが途方もなく難しいということがこの10何年かでよくわかったのでした。そうこうしているうちに元号も変わり、未曾有の事態が起き続け、円安も進み、先行きの不透明さはかなりなものになってきています。人間が自然と共生しようなどという話にはどこか生ぬるい欺瞞を感じさせられていたのですが、はっきりとその靄を飛ばすような出来事がますます目立っています。おもむろに共生を考えるまでも無く人は自然の一部で、ダイナミックな自然のうねりのそのほとんどが人間の生き死になど慮ってはくれず、むしろ人からすれば敵対としか言いようがない姿を見せてくるのです。「衣」「食」「住」はその自然の中で生き抜くための基本的な技術です。「住」を構築することに携わる者としてもその自然の脅威に日々相対しています。「左官仲間」も必要ですが、シンプルに「仲間」が必要なのかもしれません。もちろんそれらは重複するかもしれませんが。いずれにしても得るのが簡単でないことは間違いありません。「仲間」は知り合いやお友達、たまたま一緒の職場になった同僚などとは違うからです。

こんなことを思い返していたらずいぶんと久しぶりに師匠と同じ現場になるから不思議です。現場の都合で急遽数日だけ入ることになったそうでした。師匠は相変わらずでした。

通常よく一緒になる人間は、寝坊で遅刻し、にもかかわらず一服してから仕事に入り苦笑されていました。小銭を人から借りパクする常習なのですが、昨日の借りを遅刻のどさくさに紛らそうとしているかのようです。

仲間になれるかもしれないと思える人との出会いというのはかくも貴重なものなのだと35℃を越える屋上の日差しの中でふと思うのでした。