「人類全体の父になれ。」 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

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身辺雑記。

立春寒波です。


ホワイトアウト、雪に包まれています。

今年は数年ぶりかの大雪なんですね。でも、なんだか気持ちは楽で、

半袖で仕事しているのですが、そのまま半袖プラス、フリースで1日いたり。

今回のことやわの舞続けるかどうかについては、それはもう、かなり、悩みました。虚脱状態にもなった。
動けなくなったり。

でも結論としては、続ける(何回言うのだ)。

もし、どこか古民家に引っ越して何らかの活動をしたにしても、それでは魂の成長がない。私の(僕の)今世、ゲーム・オーバー、な感じがする。

これから更にどんなにトラウマになるようなこと受けようとも、わの舞についていくしか。Nちゃん曰く、よろよろ、でも。わの舞を踊る。


「世界一のクリスマスツリー」の西畠清順のような、どんなに嫌で排除したい人間であっても。そこから意味を見いだす。そこで初めて、今世のミッションが果たされるように思う。


この状況で、いかに与える、か。
愛となるか。
争いのない空間に変える一輪の花となるか。

坂爪圭吾の言葉で言うなら、
「人類全体の父(母)になれ。」


このブログの中に、三浦綾子のこんな文章も。

「しかし、俺はね。自分の人生に、何の報いもない難儀な三年間を持つということはね、これは大した宝かも知れんと思っている」

「宝?」

驚いて国男は声を上げた。耕作も拓一を見た。佐枝だけが深くうなずいた。

「うん、宝だ。たとい米一粒実らなくてもな。それを覚悟の上で苦労する。これは誰も俺から奪えない宝なんだよ。わかるか、国ちゃん」

「・・・・・・・」

「実りのある苦労なら、誰でもするさ。しかし、全く何の見返りもないと知って、苦労の多い道を歩いてみるのも、俺たち若い者のひとつの生き方ではないのか。自分の人生に、そんな三年間があったって、いいじゃないか。俺はね、はじめからそう思ってるんだ」


三浦綾子『続 泥流地帯』【新潮文庫



わの舞始めて三年が経過した。まったく実りがなかった訳ではないけれども。


先日、講習を減らすと言ったかまちゃん。よく決断されたと思う。

踊りたいのは、かまちゃんの方がもっとかもしれないのに。かまちゃんの方が、もっと講習開きたかっただろうに。断腸の思いでの決断だったかもしれません。尊敬します。




仕事場で、私によくしてくださる方がおられた。いつも私を、「あんた、だーいすき!」と言ってくださった。

最初、私はそんな大事なことを、そんなに簡単に言っていいの?言えるの?と目を白黒させていましたが、言われっぱなしでもなんなので、私の方からも「私も〇〇さん、大好きよ!」と返すようになった。

そして、

彼女はついに先日、1日眠っているような状態になってしまわれた。

いつも普段から、「大好き」と言っておいてよかった。もう2度と、通じることがないのか……。

二日ぐらいは、囲む寮母さんや看護士さん遠巻きにして様子を見ていましたが、三日目、近くに掃除に行ったついでに、声をかけてみました。そうしたら、目を開けて、私を見て、
「だいすきよ。」
両目から大粒の涙ぽろぽろ流す私の背中に手を置いて、「大丈夫、大丈夫」と、逆に優しく、何度も励ましてくださった。もう、子どものように大粒の涙は止まらなかった。




私は、実は人間が苦手です。フレンドリーではあるけど、不得意です。幼児、赤ちゃん、言うなら胎児の頃に人間に不信感持ってしまって、心閉ざした。

植物や、無機物、空間との方が心が通いやすい。人間とは、ノン・バーバルコミュニケーション、赤ちゃんとか、言葉を喋りだす2歳頃までしか。

その私が、人間に、ようやっと扉を開きつつあります。

唾棄したい程に思っていた人間の、複雑な不思議な心の綾の輝きを、垣間見ることができるようになりました。



生きているそのあいだ、なるたけ多くの「終わり」に触れておく。そのことが、人間の生を、いっそう引きしめ、切実に整える……
いしいしんじ

旅にせよ、些事にせよ、小さな「終わり」をくり返し「からだの芯へ収める」ことで、中途としての人生にも光が射す。作家の「且坐(しゃざ)喫茶」から。

「折々の言葉」より