●思い出のレコード この一枚 ー「敗者に寄り添う歌」に救われた私
世の中は“断捨離”ブーム。しかし私はブームに乗れないばかりか、背を向けている人間の1人。確かに、家にはモノがあふれています。けれどもそれらを簡単に捨てたり、手放すことができません。一度、その理由を考えたことがありました。
結論はそれらのモノにまつわる思い出や記憶を失いたくないからでした。モノが、それらを手にした昔を思い浮かべる材料になるからです。
そんなある日、昔買い集めたレコードを引っ張り出して、その枚数を数えたことがありました。20代の10年間で買ったもので、ざっと70~80枚ほどありました。その時、レコードを眺めて驚いたことがあります。それは「へぇ・・・ こんなレコードも買っていたのか!?」という驚きでした。
その一つは、“インティ・イジマニ来日記念盤”『チリよ永遠に Ⅱ自由をめざして』(発行 音楽センター)。ジャケットには、“世界の兄弟たちよ うたおう ファシズムへの闘いを!!”とあります。資料によると、インティ・イジマニはチリのフォルクローレ・グループ。レコードに収録されている曲名は、「太陽は頭上に燃える」「ビクトル・ハラへの歌」「自由をめざして」などでした。
20代の頃は政治活動をしていたこともあり軍事クーデターによって倒された”アジェンデ政権”のことはニュースなどで知っていました。今でも覚えています。
しかし、チリの闘いを応援するそのレコードを買ったことはまったく覚えていませんでした。
他にも買ったことを覚えていないレコード が—『赤ちゃんのための子守歌ベスト30』『六段 宮城道雄の芸術』『ささきいさお テレビ主題歌をうたう』『ピンク・レディ ベスト・ヒット・アルバム』『楽しいよい子の童謡集 めだかの学校』等々—たくさんありました。
そうやって、昔のモノ(この場合はレコード)を眺めてわかったことは、一般に、モノは、それにまつわる「昔を思い浮かべる材料になる」ばかりではなく、先の如く、すっかり記憶の底に沈んでいた事柄(“インティ・イジマニ来日記念盤”のレコードを買っていたこと)も浮上させるということでした。
私が“断捨離”ブームに「ハイそうですか」と右へ倣えできないのはそうしたことがあるからかもしれません(たんに、へそが曲がっているだけかもしれませんが)。
しかしそれはそうと、昔の、ほこりをかぶったレコードを引っ張り出した一番の目的は、年をとった今の私と違い、力がみなぎっていた20代の頃に何度もレコードをかけて聴いていた泉谷しげるの『春夏秋冬』を何十年ぶりかで手に取って曲を聴くことでした。青春時代の思い出のレコードを一枚挙げるとすればまちがいなくこの『春夏秋冬』です。それこそ本当に何度となく聴いたものです。
泉谷しげるさん作詞・作曲のその歌の詩は——引用させていただきますとーー
季節のない街に生まれ
風のない丘に育ち
夢のない家を出て
愛のない人にあう
人のためによかれと思い
西から東へ かけずりまわる
やっと みつけたやさしさは
いともたやすくしなびた
春をながめる余裕もなく
夏をのりきる力もなく
秋の枯葉に身をつつみ
冬に骨身をさらけだす
今日ですべてが終るさ
今日ですべてが変わる
今日ですべてがむくわれる
今日ですべてが始まるさ
———というものでした。
泉谷しげるさんは現在75歳。勿論知り合いではありませんが私より1歳年長のようです。この歌が発売されたのは1972年。偶然にも私が大学を出たのがその年で、しかし当時の私はどうにか職は得たものの低賃金生活を余儀なくされていてレコードを買うお金はありませんでした。ですからレコードを買ったのはそれから2~3年ぐらいたって少し余裕ができてからだったと思います。
もともと能天気なところがあったせいかそれ以前から将来に対しては”根拠のない自信”のようなものがあるにはありましたが、しかし大学卒業後しばらくの期間そうした低賃金という苦境にあった時の私のうらぶれた心状が、泉谷しげる『春夏秋冬』の歌のメロディーと歌詞にピッタリしていたのかもしれません。歌が当時の私の心を慰めてくれていたのでしょう。
泉谷さんによると(『NHKラジオ深夜便8月号』のインタビュー記事)、歌詞の冒頭、“季節のない街に生まれ”というひと言が出てきたとき、「これはもう、できたな」と思ったそうです。でもそれまで激しい演奏をしていたので、レコード会社の人に「パンチがない」などと言われましたが、ラジオで流したら、聴いた人たちが「いい歌じゃないか」と認めてくれその後は代表的なヒット曲になったとのこと。
泉谷さんはさらにこう語っています。
「 自分は世の中のことを歌いたい。特に、負けていく人たちに向けて、敗者に寄り添う歌を歌いたかった」「敗者は見向きもされない。そういう時代を見てきて、自分は敗者をリアルに描くのではなく、普遍的に個人の気持ちを描けたらいいなぁと考えたんです」ーーー。
敗者ということで言えば、10代の時には大学受験で失敗し20代の初めには就職試験で失敗を重ねた私は、当時は、れっきとした敗者でした。そうであったからこそその「敗者に寄り添う歌」に救われていたのかもしれません。
その一枚のレコードが世に出てから半世紀が経ちました。名曲は今も色あせていません。
~『週刊少年ジャンプ』での連載開始から今年の6月で50年を迎えた~
■漫画『はだしのゲン』を読む
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死ぬも地獄 生きるも地獄
●第2巻“麦はふまれるの巻”を読む
漫画評論家の石子順氏は『はだしのゲン』を「これは、原爆が投下されるまでの戦時下の日々と、惨状を極めた原爆の日と、そこから立ち上がっていく焼け跡の生活の三つの部分から構成されている長編です」と紹介していました。
そしてこうも書いています。「8月6日の描写は、中沢啓治にやきついたその瞬間がそのままとらえられている。死ぬも生きるも地獄であった広島の惨状が描破されて、われわれをそこにたたきこむ。体験者でないと描けぬリアリズムだが、すさまじい残酷の極致の描写はおさえられてぎりぎりのところでふみとどまっている」
「被爆シーンは息をのむほどの絵画力によって再現されます。原爆の痛みを体験者から非体験者に伝えた漫画では唯一の作品です」
どれも的を射たものだと思います。
原爆が投下されるまでの戦時下の日々は第1巻の“青麦ゲン登場の巻”に描かれました。その第1巻の終りのところでは惨状を極めた原爆の日も描かれています。そして原爆の日とそこから立ち上がっていく焼け跡の生活の始まりを描いているのが第2巻の“麦はふまれるの巻”です。ここからはその第2巻“麦はふまれるの巻”を読んでみたいと思います。
●壮絶な光景から始まるプロローグ
「かあちゃーん あんちゃーん あついよー」
家の下敷きになり、体を柱に挟まれ頭だけを出して抜けだせないでいる弟の進次が、同じような状態になっている父・大吉と姉・英子とともに燃え盛る強火に包まれていくなかで必死に泣きさけんで助けを求めます。
しかしゲンは打つ手がなく「進次―っ ねえちゃーん とうちゃーん」と呼びかけるだけで精一杯。どうしようもありません。
そんななか母・民江は「ハハハハ もえる もえる みんなもえる ハハハハ」と狂乱状態になって、みんなと一緒に「死ぬんだ!」と燃え盛る火の中に飛び込みそうになりますが、あわやと言うところで、近所で親しくしていた朝鮮人の朴さんに制止され助けられます。
第2巻は、第1巻の終りのところで描かれた原爆が投下された日の描写に続けてそうした壮絶な場面から始まり、
そして、「くるしい」「うわーいあつい」「たすけてー」と大勢の人々が火に巻かれ、川に飛び込んで逃げまどう光景から始まっています。
「火が 火をよび 熱風を まきあげて 当時 約四十万人もいた 広島市の市民も 家も すべてやきつくしていった・・・」のです。しかしそこまでは第2巻のプロローグ。
主人公ゲンが麦のように踏まれながらたくましく成長していくこの巻の物語のオープニングはまだ少し先です。
●母・民江が路上でゲンの妹を生む
「かあちゃん これから どうするんじゃ・・・?」とゲンが言うと、母・民江は「ううう・・イタイ」「はらがイタイー」と声を上げます。なんと・・赤ちゃんが生まれるというのです。病院に向かうタクシーの中で陣痛が始まったという話は聞いたことがありますが路上でいきなりお産が始まる話は聞いたことがありません。しかも原爆が投下されたその日にです。
「元 はやく 産婆さんをよんできておくれ!」「うん! わかった」
「産婆さーん 産婆さーん」
ゲンは声を限りに助けを求めますが産婆さんはみつかりません。
「いまはそれどころじゃないんだよ」と言われてしまいます。
「・・・むりもないよ こんなに 混乱したときだから・・・」と言った母はゲンに、「元 おまえが 赤ちゃんを とりだしておくれ・・」
と言い、「そのへんの こわれた家から ふとんやバケツや きれを たくさんもっておいで・・」、それから「バケツに水をたくさんいれて ハサミをもってくるのよ」と言い付けます。
「おまえが赤ちゃんをとりだしておくれ」と言われた時は「ええっ わしゃ できんよ」と言ったゲンでしたが、言い付けられた通りの道具を集めてきます。そして「かあちゃんはやくここにやすめよ」と道に布団を敷きます。
・・・「かあちゃん がんばれ かあちゃん がんばれ」「あああ・・・あああっ」
・・・オギャ~ 「う うまれた」
こうして母・民江は原爆が投下されたその日に道で女の子を生み落としたのです。
「うわーい とうちゃーん ねえちゃーん 進次―っ みてくれー わしらの妹が うまれたぞーっ こんなに 元気だよ~」
火の手が上がっている方を向いてゲンは赤ちゃんを両手で持ち上げます。そしてゲンから赤ちゃんを受け取った民江も、やはり火の手の方に向かって持ち上げてこう言います。「さあ おまえ しっかりみておくんだよ おまえのとうさんと ねぇちゃんと にいちゃんを殺した 戦争のほんとうの姿を」「おまえが大きくなったら二度とこんな姿にするんじゃないよ・・・いいね いいね・・・」
一方で、そうした新しい生命の誕生と対比するかのように描かれている、
「ううう・・・水~」とまるでユウレイのように手の先から皮膚を垂らして行進する人の群れ。「くるしい 殺せ~ 水をくれ~」と叫ぶ人たち。そしていたるところにある死体の山。
原爆が投下されたことで出現したそうした地獄絵図のなか、時を遡れば、母は原爆が投下されたそのとき洗濯物を干していたその物干し台ごと吹き飛んだために屋根が光を防いで助かり、ゲンはゲンで、学校のコンクリートの塀が光を防いだために二人とも奇跡的に助かったのです。そうしたなかでゲンの妹、新しい命が誕生したのです。
けれども戦争指導者たちは戦争をやめようとせず、アメリカは広島に続いて「デブ」とあだ名をつけた二発目の原子爆弾を8月9日午前11時2分に長崎市に投下します。長崎も広島と同じように何十万人もの人が苦しみもがき死んでいきました・・・
いつの世も戦争で死んでいくのは名もない多くの国民です。長崎に原爆が落とされた同じ8月9日、ソ連軍が日本と戦争をしないと取り決めた不可侵条約を破って参戦してきました。・・・あわてた日本の戦争指導者たちは八方ふさがりになり、戦争終結の動きに向かったのです。
そうした中で、ゲンは広島の焼け跡に立ち、空に向かって言います。
「みんな なくなって しもうた・・・」
「これから わしら どうなるんじゃ どうすればええんじゃ とうちゃん・・・」
すると、空に父・大吉の顔が浮かび、ゲンにこう言うのです。
「元(げん)かあさんを たのむぞ しっかり 生きろ! まけるな!」
・・・・・「わかったよ わかったよ とうちゃん」
ーーーーこうしてゲンの成長物語―第2巻“麦はふまれるの巻”が本格的に幕を開けるのです。
●母・民江の出産は作者の母親の実体験
それにしても、原爆が投下されたその日に、路上で母・民江が出産するという物語のすべりだしは劇的で衝撃的です。読者をアッと驚かせ、ゲンの成長物語を飽かずに読ませるために「母が道で赤ちゃんを産む」というショッキングな出来事を作り上げ、ゲンに出産を手伝わせるという試練を与えることでゲンの成長を描こうとする作劇上の意図があったのかもしれません。
つまり、母・民江が道で赤ちゃんを生み落とすという場面はフィクションかもしれないということです。それならそれでいいのです。なぜなら『はだしのゲン』は作者の分身であるゲンを主人公にした作者の自伝的な作品ですが、しかし自伝的だからといっても物語に描かれている出来事は、事実を基にしながらもフィクションが織り交ぜられているからです。つまり『はだしのゲン』はノンフィクションとフィクションが合わさった物語だからです。
しかし驚いたことに、母・民江の道路上での出産シーンは、作者中沢啓治氏の母親の実体験が基になったものでした。道路での出産は本当にあった話なのです。
広島に原爆が投下された8月6日のその日、中沢さんは母親と再会できたときのことを『はだしのゲン わたしの遺書』でこう書いています。
「 左の歩道を見ると、おふくろが薄っぺらな布団を一枚しいて、まわりに鍋や釜を置いて、ぼけーっと座っていました。割烹着姿で、すすけた顔をしています。ぼくは、やっとおふくろに会えたうれしさで、お互い顔を見合わせただけで、特に何もしゃべらずに、精根もつきはて、ふえーっと座りこみました。
おふくろを見ると、なにか大事そうにぼろ布を胸元にだいています。何を持っているんだろうと思ってのぞいて見たら、シワだらけで赤い顔をした赤ん坊がいました。
おふくろを見ると、臨月で大きかったお腹がぺちゃんこになっています。子どもを産んだのだと、わかりました。おふくろは、あの八月六日の日に、原爆のショックで産気づき、ぼくにとって妹となる赤ん坊を産みました。
その子は、後におふくろが友子と名づけました。まあ、それは大変なことです。あの原爆地獄の中で、通りがかった人に手伝ってもらって、路上で子どもを産んだのですから。」
●母の出産を手伝う健気なゲンに好感
夫の大吉と子どもたち(英子・進次)が家の下敷きになったまま業火に焼かれて死んでいった悪夢のような出来事の悲しみも癒えぬまま、周りには被爆した人々の死体や息も絶え絶えの人たちの無惨な姿があるなかで、母・民江が路上で出産するという展開に、これはきっと“フィクション”かもしれないと思った私でしたが、あにはからんや作者の母親が、実際に原爆が投下されたその日に原爆のショックで、路上で出産した事実が基になっていました。びっくりです。
しかし出産は「通りがかった人に手伝ってもらった」そうですから、漫画の中でゲンが手伝ったと描かれているのは明らかに“創作”です。
なかでも印象的かつユーモラスな絵は、ゲンが母親の言い付けを聞き、どこかで拾ってきた布団を背中に紐で縛って背負い、両手には木の大きなたらいと水の入ったバケツをハアハア言いながら持って、「かあちゃーん もってきたぞ」と、産気づき辛そうにしている母親のもとに戻ってくるところです。
まだ幼く弱いながらもかいがいしいゲンの健気さがとても良い感じを抱かせます。現代でこそ夫も妻の出産に立ちあったり、やれ“イクメン”だなんだかんだと語られますが、『はだしのゲン』が連載されていた70年代当時は、“根性もの”の漫画が主流で、ゲンのような優しい心根の少年がメインの漫画は傍流だったかもしれなかったなかで、
生命が誕生する尊い場面に、母親にとってはゲン以外に身よりがいない(長男の浩二と次男の昭はまだ母のもとに戻っていない)中とは言え、男性(ゲン少年)を関わらせる作者のセンス(フェミニズム的&ジェンダーフリー)はさすがだなと思います。
70年代はウーマン・リブ(女性解放運動)が盛んだったのでそれも影響したのかもしれません。いずれにしても、産む性(母)に寄り添い手助けするゲンの健気な姿は好感が持てるし、腕白だが優しい少年として描かれています。
●ゲンの夢に現れた大吉と英子と進次
妹ができたゲン。しかしみんないなくなり、夕焼け空の焼け跡でしょんぼりしているその肩を誰かがチョンチョンと指でつつきました。ふり返ったゲンは「ああっ」となりました。「と とうちゃん ねえちゃん 進次!」
・・・ビックリした路上での“出産”に続いて私はまたしても、ええっ? とビックリさせられました。業火に焼かれて亡くなったはずの3人が突如としてゲンの前に「現われた」のです。
「あんちゃん なにを しょんぼり しとるんじゃ しっかり せえよ」と進次が言うと、「わしは夢をみとるのか・・」「ゆ 幽霊じゃないだろうな・・・」とゲン。
(読んでいる私もやはり思いがけない展開に一瞬そう思いました)
「あんちゃん なにを いうとるんじゃ このとおり 足もあるぞ」と進次。
「ううう とうちゃんも ねえちゃんも 進次も 生きてた 生きてた」「ばんざーい ばんざーい」――。
しかし(もちろん)それはゲンが見た夢の中のことです。
「はよう おかあちゃんに しらせよう おどろいて 腰をぬかすぞ」
ゲンはそう言うと、3人に赤ちゃんが生まれたことを知らせ、「みんな はようこいよ!」と言いますが、
3人は赤ん坊が生まれたお祝いを探しにいくとゲンに背を向けて立ち去ります。
「うわーい まってくれよー わしを おいて いかないでくれよー」「うわ――ん とうちゃ―—ん ねえちゃ―—ん 進次—— まってくれ―—」。
仰向けに寝ていたゲンが手足をバタバタさせながらそう大声で叫んだところでゲンは夢から覚めるのです。
●夢が葛藤の始まりに・・・
「ゆ 夢か・・・」
「元 どうしたの 泣いたりして ずいぶんうなされていたよ・・・・・」
「かあちゃん いま とうちゃんと ねえちゃんと 進次がうまく たすかって 帰ってきた夢をみたよ」「もしかすると ほんとうに とうちゃんたち たすかって いるかもしれんよ」「いまに みやげをもって 進次たちがここに くるかも しれんぞ」と母に目を輝かせて言うゲン。
「たすかっているかもしれんよ」と言うのは、家の下敷きになって火に焼かれていた状態から抜け出すことができたかもしれないよという意味です。
夢の中に表れた3人がもしかしたら本当にあの後で助かったかもしれないと、夢から目覚めたゲンは興奮気味に母にそう言ったのです。
しかしゲンが夢を見て、父と姉と弟の3人はもしかすると「たすかっているかもしれない」と思ったこと、そしてそれを口にして母に言ったことは、
ゲンにとっても母にとっても、大きな葛藤の始まりでした。
―続く
2023年7月24日(月)