終戦から70年 米本地区への空襲 | 杉山さとき『明日の八千代を考えます』

杉山さとき『明日の八千代を考えます』

市民に優しい、夢のある街づくり
明日の八千代を考えます。

今年は太平洋戦争が終結してから70年目になります。

東京大空襲や広島、長崎の原爆投下、沖縄地上戦等々の大きな戦争の記憶は
新聞やテレビに取り上げられ、その悲惨な状況は後世に伝えられています。

日本各地だけではなく、中国東北部(満州)や南方の島々、北方千島列島などでも
筆舌に尽くしがたい悲惨な戦争が行なわれました。

あらためて、犠牲に成られた多くの方々のご冥福をお祈り致します。


八千代市企画部広報文化課編 市民の戦争体験記録集「あの日から」には、

「私たちの住む八千代市地域においても、米本において太平洋戦争末期の1945年2月19日(70年前)にアメリカ軍のB29爆撃機から投下された複数の爆弾で13名の方が亡くなられ、多くの方が負傷されています。」

と書かれています。


その時、小学校5年生だったYさんも被弾し、未だに胸に爆弾の破片が残っています。
Yさんの弟さんもその時の爆弾で亡くなったそうです。
当時の悲惨な現状を後世に引き継ぎたいと、Yさんより私に電話があり、
お会いして当時の悲惨な状況の話を伺いました。

Yさんの幼馴染のIさんも同席し、当時の様子を細かくお話しして下さいました。

Iさんの話では、
現在の米本団地入口付近で小学校5年生約80名が
授業中に農作業(サツマイモのツルかき)をしていたところ、
米軍機の機銃掃射があり逃げ遅れた1名が銃弾に倒れ亡くなったとの事です。
Iさんはその友達を助けようとしましたが、
先生に止められて助けることが出来なかったそうです。
その時の光景が今も心に残っていて、
思い出すたびに「なんで助けてあげられなかったのか」と悔しくて仕方がないそうです。

当時の事を知る人が少なく、何とか元気な内に悲惨な戦争の話を後世に語り継ぎ、
二度と戦争をしてはならないと訴えておられました。


戦後生まれの私も、
太平洋戦争中に米本に爆弾が落ち、祖父達が下市場からも消防ポンプを運び、
消火活動を行ったと子供の頃に聞いたことがあります。

しかし、実際に被害に遭われた方からのお話は初めてだったので、
八千代市にも空襲があり、当時の農村集落にも爆弾を投下されたという
戦争の悲惨さを改めて知らされました。


お二人は2月号の「広報やちよ」にもその事実をぜひ掲載して欲しいと願っていました。

広報広聴課に問い合わせて頂いたところ、
今年の7月号か8月号に「戦後70周年」の特別企画を組むのでそこで掲載できるかもしれない。
との事でした。

是非とも八千代市の戦争史実として市民の皆様にも語りついで頂き、
平和の尊さを共有したいと思います。