久しぶりにバイトに戻ってきて、野菜を切りながら千歳は心の底からほっとしていた。もともと千歳は単純手作業が好きだ。手先に神経を集中させながら、もくもくと作業をこなすときの気持ちよさ。何も考えていないようで実は頭の中でより正確に、よりスピーディにするにはどうやったらいいかを試行錯誤しながら黙って手を動かす。それがとても小気味いい。千歳は今日は手順だけではなく、色んなことを考えながら作業をしていた。ジャガイモをむきながら自分の部屋のことをあれこれ考え、玉ねぎを切りながら父親の対策を考えた。考えながら切った玉ねぎをまとめてボウルに入れると、まるで自分の気持ちも整理がついたように思えてさっぱりした。もちろんそんな気がするだけでも、それでもかまわなかった。ニンジンの皮をむいてその後目的別の形に切り分け、それぞれの山を作った。そして、キャベツをずっとリズミカルに刻みながらハルのことを思った。
昨日の夜、千歳はあんなに自分のことをハルに話した自分に驚いていた。でも、いつか誰かに全部言ってしまいたかったのかもしれないとも思った。それが単にハルだっただけなのかもしれない。いつもなるべく自分のことは人に話さないようにしていた。言うと、どういうわけか怒り出す人が結構多かったからだ。そんな風にされて自分は悔しくないのか、と千歳に怒る人もいれば、まわりはどうして何もしてやらないんだ、と矛先をとりまく環境に向ける人もいた。色んな形はあるにせよ、千歳はたくさんのそう言う人達を見てきて、ある統計を見出した。つまりは、自分の育ってきた背景は人を不愉快にするということだ。みんな、対象はどこであれ、怒りがわいてくるということは、嫌な話なのだ。そう発見してからは、あまり人に自分の話をしなくなった。でも、昨日はハルにいっぱいしゃべってしまった。それは、ハルが最初に会った時からお父さんの暴力にハチ合わせしてしまったからかもしれない。今さら何を言っても怒ったり、驚いたりしなさそうだと思えるからだろう。ハルにお兄ちゃんのことを聞かれて、なんだか千歳は初めて本心をしかもさらっと言った気がした。でも言ってしまったあと、急に気持ちが軽くなって、なんだか自分の悩んでいたことが下らないことだったようにすら思えてきた。もしかして、今まで自分が大切だと思って持ち続けていたものは、実は大したことないのかもしれない。思い切って手放してしまっていいのかもしれない。
千歳は昨日の夜のことを思い出していた。ソファで寝たフリをしている千歳を見て、ハルは何も言わずに奥の部屋の自分のベッドに入って電気を消した。千歳はハルの部屋に来てからずっとソファで寝ていた。やっぱり部屋にいさせてもらうだけでも悪いなと思っていたので、どうしてもベッドまで占領したくはなかった。ハルはベッドで寝ていいと言ってくれるが、千歳は三日もバイトを休んでいたからそんなに疲れているわけでもないし、ソファで十分だった。でも気を使ってくれるハルに悪いのでさっさとソファで寝たフリをしたり、そのまま本当に寝てしまったりしていた。でも昨日の夜は色々自分の話をしたせいなのかはわからないが、どうしても寝られなかった。ハルがベッドに入るまでソファでじっと目を閉じていたが、暗くなると今度はずっと目をこらして消えているテレビを眺め続けた。テレビのガラス面には部屋の中が映りこんでいて、その動かない室内を見ている間に千歳はなんとか寝られるんじゃないかと思っていた。でもじっと見ていると、たまに何かが隅の方で動いたんじゃないかとか変な風に思えてきて、ちょっと気味悪くなったりばかばかしく思ったりした。そんな風にしながら手元に置いた携帯を見ると、一時間はゆうに経っていることに気が付いた。
ハルが寝るまで点けていたヒーターのせいで空気が乾燥していて、喉が渇いていた。千歳は方なく立ち上がると、キッチンへ行ってコップを取り、なるべく音を立てないようにゆっくり蛇口をひねって少しづつ水を出してコップに注いだ。静かに飲むと、水は冷たくて乾いた口を潤してすーっと胃へ落ちていく。コップ一杯の水を飲み干すと、なんだか余計にすっきりして目が覚めてしまった気がした。どれくらいだろう、千歳はその場に突っ立ったまま考えていたが、突然つと、コップを流しの横に置くと、居間を通り抜けてソファではなくハルの寝ている奥の部屋に入った。
ハルは千歳が水を飲んでいた物音で目を覚ましていた。もともとそんなにぐっすり眠っていたわけではなかった。ハルも千歳の家族の話を聞いて、ベッドに入ってからもしばらくそれについて考えていた。あまりにも自分とは違う境遇でどう頭の中で整理したらいいのか考えあぐねていたのと、初めて千歳が涙を流したことを思い出していた。千歳は父親にあんなに暴力を振るわれても別に泣きもしなかった。でもさっきの話で千歳はこらえきれないという風に涙を流した。ハルには、どこが千歳の悲しいポイントなのかが今いちつかめなかった。そんなことを考えながらやっとうとうとし始めた時、千歳が起きて水をコップに注ぐ音が聞こえたのだ。そのあと、少し静かになったなと思ったら千歳が部屋に入ってきたので、ハルは驚いて飛び起きた。当然、ソファに戻って寝るものだと思っていたからだ。
「どうした?」ハルは小声で聞いた。
「こっちで寝る。」暗がりの中に立って見下ろしている千歳の顔はまったく見えなかった。どんな顔をして言ったのかわからないが、千歳はそう言うとさっさとベッドの上にひざをついて掛け布団をめくり上げ、中にいるハルの隣にもぐりこんだ。
「お、おい、なんだよ?ちょっと待て。」
驚いているハルには構わず、千歳は布団の中に頭まで入ってハルの方に横を向いて丸くなった。曲げた膝がハルの足にくっついた。
「どうしたんだよ。なんだよ、急に。怖い夢でも見たのか?」
「それじゃ子供じゃん。ばかみたい。」
「じゃ、なんだよ。」
「もう、背中痛い。ソファ。」ああ、そういうことか。ハルは少し安心した。
「だから、こっちで寝ろっていつも言ってただろ。いいよ、ここで寝ろよ。俺あっち行くから。」
ハルが言い終わらないうちに、千歳はハルの腕を力強く掴んだ。ハルは単純にびっくりした。千歳ってこういう感じだったっけ?と思ったのだ。こういう感じも何もないだろうが、ハルだって女の子の方から誘ってくる独特の甘えた雰囲気は知っている。が、それは今まで千歳からは感じられなかったからだ。ハルはそんなに遊んできた方ではないが、べつに付き合っているわけではない女の子とも関係を持ったこともあった。自分の経験を通して言えば、千歳は今まで自分が見てきた女の子達の中の、誰とも似ていなかった。大学にいた頃は、女の子達は大抵複数のどれかのグループに分けることができた。そしてその同じグループに当てはまる女の子達はそれぞれの似通った傾向というものを持っていた。でも、千歳はそのどのグループの傾向にも当てはまらない、独特な何かがある。そのせいもあって、ハルは対処に困る時があった。今がまさにそうだった。普通、ホテルでも自分の部屋でも、そこまでついて来た女の子は大体OKな場合が多かったが、千歳はいくら部屋に来て泊まっているとはいえ、理由が理由だし自分は何もしない方がいいとなんだか勝手に思っていた。その千歳が今、同じベッドの中で自分にくっついている。
「ほんとに・・・どうかしたの?大丈夫?」
「あのさ、」千歳が顔だけ布団から出して、まだ上半身を起こしているハルを見上げた。「女の子がベッドに入ってきて大丈夫?って聞くのはどうかと思うけど。」
「いや、だってさ、うちに来てから一緒にいても別々に寝てたのに、今日はまた急にどうしてかな・・・って思うだろ。」
「あー、初日から来ればよかった?」
「いや、そういうわけじゃないけど・・・。」ハルはなんて説明したらいいか考えた。「俺が無理に聞いて話したくないこと話させたから、寝られないんだろ?」
「うーん・・・ま、寝られないのは本当だけど・・・よくわかんない。今日は、ソファで一人で寝たくない。それだけ。」
「それだけって・・・・・・。」
「いいよ、やってもやらなくても。」
「へっ?」
「やってもやらなくても、どっちでもハルの好きな方でいいよ。」
「なんだよ、それ。」
「ベッドで一緒に寝たいから、あとはハルの好きにしていいよ。してもいいし、何もしないで添い寝だけでも、"私に魅力がないのね!"とかあとで面倒臭いこと言わないから。」
「お前・・・軽く言うよなぁ・・・。」ハルは千歳の隣に仰向けになった。
「たとえば・・・。」ハルは天井を見ながら、両手を上げて頭の下で組んだ。「たとえば俺から先に千歳にしようとしたとするじゃん、で、そん時千歳はほんとは乗り気じゃなくても、自分の部屋に帰りたくなくて気を使っていやだって言えないで無理してやったらやだなぁとか、そういうことなんだよな。」
「そうなの?」
「いや、だから、まぁこれ以上トラウマに触れない方がいいだろうなって。」
「あ~、あはは。」千歳は笑った。「まだ隠してる何かがあるかもとか思ったんだ?大丈夫だよ。トラウマに触れるも何も、私レイプはされたことないから、Hに対してトラウマなんてないよ。それにハルならやだとか思わないし。」
「レイプって・・・。暴力の上にそんなのまでされてたらシャレになんねえよ。第一、あいつほんとの父親だろう?」
「なに言ってんの、実の父だろうが義理の父だろうが、珍しくない話でしょ。でも、私は今の所それはないから。それにね、」千歳も並んで天井を見上げた。「トラウマなんて、自分でトラウマとか言ってるやつは大したことないんだよ。"あたしってトラウマがあって~"とか言ってるようなやつはパフォーマンスでしょ。ほんとのダークな核の部分は、自分で簡単に"トラウマ"なんて客観的に見つけられるもんじゃないでしょ、きっと。自分じゃわかんないから苦しいんじゃん。」
「はあ・・・。そうですか。」
「なんか、ハルは私のこと腫れ物みたいな扱いだね。」
「何言ってんだよ、実際に顔、腫れ物だっただろー。」
「大丈夫だって、慣れてんだから。あーっ!」そう言いながら千歳は目の上の傷を触っていて、突然大声を出した。
「なに?!なんだよ?!」
「ばっし!抜糸忘れてた!抜糸だけってどこに行けばいいの?」
「抜糸だけ?」
「うん、だってこの前行ったのは夜間救急だったから、もう一度あそこに行くわけにはいかないでしょ。普通に昼間にどこかの病院に行ってやってもらわなきゃ。でも抜糸だけって・・・何科?」
「う~ん・・・外科じゃ大げさっぽいし・・・でも内科じゃないよな。皮膚科?」
「皮膚科ぁ?ちょっと違うっぽくない?でも・・・そう言われると皮膚科?かな・・・?」
目の上の縫った箇所の糸を指でちょいちょい触っていると、ハルがその手をそうっと掴み、そのままゆっくりシーツに押し付けた。千歳の上に覆いかぶさるように向き直ると、片腕で自分の上半身を支え、片腕はまだ手を掴んだまま、千歳にキスをした。やわらかい、最初のキスだった。
「俺がはさみで糸切ってやるよ。」唇を離して、ハルは千歳に小声で言った。
「いいよ。」千歳は笑ってハルにキスをした。今度はお互い、長く深く、ゆっくりと味わった。