マメブロの小説 -3ページ目

マメブロの小説

こちらは小説です。実在の人物、団体名とは一切関係ありません。
「ブラックコーヒー」は①から⑭までで、完結です。

久しぶりにバイトに戻ってきて、野菜を切りながら千歳は心の底からほっとしていた。もともと千歳は単純手作業が好きだ。手先に神経を集中させながら、もくもくと作業をこなすときの気持ちよさ。何も考えていないようで実は頭の中でより正確に、よりスピーディにするにはどうやったらいいかを試行錯誤しながら黙って手を動かす。それがとても小気味いい。千歳は今日は手順だけではなく、色んなことを考えながら作業をしていた。ジャガイモをむきながら自分の部屋のことをあれこれ考え、玉ねぎを切りながら父親の対策を考えた。考えながら切った玉ねぎをまとめてボウルに入れると、まるで自分の気持ちも整理がついたように思えてさっぱりした。もちろんそんな気がするだけでも、それでもかまわなかった。ニンジンの皮をむいてその後目的別の形に切り分け、それぞれの山を作った。そして、キャベツをずっとリズミカルに刻みながらハルのことを思った。

昨日の夜、千歳はあんなに自分のことをハルに話した自分に驚いていた。でも、いつか誰かに全部言ってしまいたかったのかもしれないとも思った。それが単にハルだっただけなのかもしれない。いつもなるべく自分のことは人に話さないようにしていた。言うと、どういうわけか怒り出す人が結構多かったからだ。そんな風にされて自分は悔しくないのか、と千歳に怒る人もいれば、まわりはどうして何もしてやらないんだ、と矛先をとりまく環境に向ける人もいた。色んな形はあるにせよ、千歳はたくさんのそう言う人達を見てきて、ある統計を見出した。つまりは、自分の育ってきた背景は人を不愉快にするということだ。みんな、対象はどこであれ、怒りがわいてくるということは、嫌な話なのだ。そう発見してからは、あまり人に自分の話をしなくなった。でも、昨日はハルにいっぱいしゃべってしまった。それは、ハルが最初に会った時からお父さんの暴力にハチ合わせしてしまったからかもしれない。今さら何を言っても怒ったり、驚いたりしなさそうだと思えるからだろう。ハルにお兄ちゃんのことを聞かれて、なんだか千歳は初めて本心をしかもさらっと言った気がした。でも言ってしまったあと、急に気持ちが軽くなって、なんだか自分の悩んでいたことが下らないことだったようにすら思えてきた。もしかして、今まで自分が大切だと思って持ち続けていたものは、実は大したことないのかもしれない。思い切って手放してしまっていいのかもしれない。

千歳は昨日の夜のことを思い出していた。ソファで寝たフリをしている千歳を見て、ハルは何も言わずに奥の部屋の自分のベッドに入って電気を消した。千歳はハルの部屋に来てからずっとソファで寝ていた。やっぱり部屋にいさせてもらうだけでも悪いなと思っていたので、どうしてもベッドまで占領したくはなかった。ハルはベッドで寝ていいと言ってくれるが、千歳は三日もバイトを休んでいたからそんなに疲れているわけでもないし、ソファで十分だった。でも気を使ってくれるハルに悪いのでさっさとソファで寝たフリをしたり、そのまま本当に寝てしまったりしていた。でも昨日の夜は色々自分の話をしたせいなのかはわからないが、どうしても寝られなかった。ハルがベッドに入るまでソファでじっと目を閉じていたが、暗くなると今度はずっと目をこらして消えているテレビを眺め続けた。テレビのガラス面には部屋の中が映りこんでいて、その動かない室内を見ている間に千歳はなんとか寝られるんじゃないかと思っていた。でもじっと見ていると、たまに何かが隅の方で動いたんじゃないかとか変な風に思えてきて、ちょっと気味悪くなったりばかばかしく思ったりした。そんな風にしながら手元に置いた携帯を見ると、一時間はゆうに経っていることに気が付いた。
ハルが寝るまで点けていたヒーターのせいで空気が乾燥していて、喉が渇いていた。千歳は方なく立ち上がると、キッチンへ行ってコップを取り、なるべく音を立てないようにゆっくり蛇口をひねって少しづつ水を出してコップに注いだ。静かに飲むと、水は冷たくて乾いた口を潤してすーっと胃へ落ちていく。コップ一杯の水を飲み干すと、なんだか余計にすっきりして目が覚めてしまった気がした。どれくらいだろう、千歳はその場に突っ立ったまま考えていたが、突然つと、コップを流しの横に置くと、居間を通り抜けてソファではなくハルの寝ている奥の部屋に入った。

ハルは千歳が水を飲んでいた物音で目を覚ましていた。もともとそんなにぐっすり眠っていたわけではなかった。ハルも千歳の家族の話を聞いて、ベッドに入ってからもしばらくそれについて考えていた。あまりにも自分とは違う境遇でどう頭の中で整理したらいいのか考えあぐねていたのと、初めて千歳が涙を流したことを思い出していた。千歳は父親にあんなに暴力を振るわれても別に泣きもしなかった。でもさっきの話で千歳はこらえきれないという風に涙を流した。ハルには、どこが千歳の悲しいポイントなのかが今いちつかめなかった。そんなことを考えながらやっとうとうとし始めた時、千歳が起きて水をコップに注ぐ音が聞こえたのだ。そのあと、少し静かになったなと思ったら千歳が部屋に入ってきたので、ハルは驚いて飛び起きた。当然、ソファに戻って寝るものだと思っていたからだ。

「どうした?」ハルは小声で聞いた。
「こっちで寝る。」暗がりの中に立って見下ろしている千歳の顔はまったく見えなかった。どんな顔をして言ったのかわからないが、千歳はそう言うとさっさとベッドの上にひざをついて掛け布団をめくり上げ、中にいるハルの隣にもぐりこんだ。
「お、おい、なんだよ?ちょっと待て。」
驚いているハルには構わず、千歳は布団の中に頭まで入ってハルの方に横を向いて丸くなった。曲げた膝がハルの足にくっついた。
「どうしたんだよ。なんだよ、急に。怖い夢でも見たのか?」
「それじゃ子供じゃん。ばかみたい。」
「じゃ、なんだよ。」
「もう、背中痛い。ソファ。」ああ、そういうことか。ハルは少し安心した。
「だから、こっちで寝ろっていつも言ってただろ。いいよ、ここで寝ろよ。俺あっち行くから。」
ハルが言い終わらないうちに、千歳はハルの腕を力強く掴んだ。ハルは単純にびっくりした。千歳ってこういう感じだったっけ?と思ったのだ。こういう感じも何もないだろうが、ハルだって女の子の方から誘ってくる独特の甘えた雰囲気は知っている。が、それは今まで千歳からは感じられなかったからだ。ハルはそんなに遊んできた方ではないが、べつに付き合っているわけではない女の子とも関係を持ったこともあった。自分の経験を通して言えば、千歳は今まで自分が見てきた女の子達の中の、誰とも似ていなかった。大学にいた頃は、女の子達は大抵複数のどれかのグループに分けることができた。そしてその同じグループに当てはまる女の子達はそれぞれの似通った傾向というものを持っていた。でも、千歳はそのどのグループの傾向にも当てはまらない、独特な何かがある。そのせいもあって、ハルは対処に困る時があった。今がまさにそうだった。普通、ホテルでも自分の部屋でも、そこまでついて来た女の子は大体OKな場合が多かったが、千歳はいくら部屋に来て泊まっているとはいえ、理由が理由だし自分は何もしない方がいいとなんだか勝手に思っていた。その千歳が今、同じベッドの中で自分にくっついている。
「ほんとに・・・どうかしたの?大丈夫?」
「あのさ、」千歳が顔だけ布団から出して、まだ上半身を起こしているハルを見上げた。「女の子がベッドに入ってきて大丈夫?って聞くのはどうかと思うけど。」
「いや、だってさ、うちに来てから一緒にいても別々に寝てたのに、今日はまた急にどうしてかな・・・って思うだろ。」
「あー、初日から来ればよかった?」
「いや、そういうわけじゃないけど・・・。」ハルはなんて説明したらいいか考えた。「俺が無理に聞いて話したくないこと話させたから、寝られないんだろ?」
「うーん・・・ま、寝られないのは本当だけど・・・よくわかんない。今日は、ソファで一人で寝たくない。それだけ。」
「それだけって・・・・・・。」
「いいよ、やってもやらなくても。」
「へっ?」
「やってもやらなくても、どっちでもハルの好きな方でいいよ。」
「なんだよ、それ。」
「ベッドで一緒に寝たいから、あとはハルの好きにしていいよ。してもいいし、何もしないで添い寝だけでも、"私に魅力がないのね!"とかあとで面倒臭いこと言わないから。」
「お前・・・軽く言うよなぁ・・・。」ハルは千歳の隣に仰向けになった。
「たとえば・・・。」ハルは天井を見ながら、両手を上げて頭の下で組んだ。「たとえば俺から先に千歳にしようとしたとするじゃん、で、そん時千歳はほんとは乗り気じゃなくても、自分の部屋に帰りたくなくて気を使っていやだって言えないで無理してやったらやだなぁとか、そういうことなんだよな。」
「そうなの?」
「いや、だから、まぁこれ以上トラウマに触れない方がいいだろうなって。」
「あ~、あはは。」千歳は笑った。「まだ隠してる何かがあるかもとか思ったんだ?大丈夫だよ。トラウマに触れるも何も、私レイプはされたことないから、Hに対してトラウマなんてないよ。それにハルならやだとか思わないし。」
「レイプって・・・。暴力の上にそんなのまでされてたらシャレになんねえよ。第一、あいつほんとの父親だろう?」
「なに言ってんの、実の父だろうが義理の父だろうが、珍しくない話でしょ。でも、私は今の所それはないから。それにね、」千歳も並んで天井を見上げた。「トラウマなんて、自分でトラウマとか言ってるやつは大したことないんだよ。"あたしってトラウマがあって~"とか言ってるようなやつはパフォーマンスでしょ。ほんとのダークな核の部分は、自分で簡単に"トラウマ"なんて客観的に見つけられるもんじゃないでしょ、きっと。自分じゃわかんないから苦しいんじゃん。」
「はあ・・・。そうですか。」
「なんか、ハルは私のこと腫れ物みたいな扱いだね。」
「何言ってんだよ、実際に顔、腫れ物だっただろー。」
「大丈夫だって、慣れてんだから。あーっ!」そう言いながら千歳は目の上の傷を触っていて、突然大声を出した。
「なに?!なんだよ?!」
「ばっし!抜糸忘れてた!抜糸だけってどこに行けばいいの?」
「抜糸だけ?」
「うん、だってこの前行ったのは夜間救急だったから、もう一度あそこに行くわけにはいかないでしょ。普通に昼間にどこかの病院に行ってやってもらわなきゃ。でも抜糸だけって・・・何科?」
「う~ん・・・外科じゃ大げさっぽいし・・・でも内科じゃないよな。皮膚科?」
「皮膚科ぁ?ちょっと違うっぽくない?でも・・・そう言われると皮膚科?かな・・・?」
目の上の縫った箇所の糸を指でちょいちょい触っていると、ハルがその手をそうっと掴み、そのままゆっくりシーツに押し付けた。千歳の上に覆いかぶさるように向き直ると、片腕で自分の上半身を支え、片腕はまだ手を掴んだまま、千歳にキスをした。やわらかい、最初のキスだった。
「俺がはさみで糸切ってやるよ。」唇を離して、ハルは千歳に小声で言った。
「いいよ。」千歳は笑ってハルにキスをした。今度はお互い、長く深く、ゆっくりと味わった。

ハルは文乃と別れての帰り道、頭の中でずっと同じことばかり考えていた。
あれが、千歳にとっての「普通」。そう文乃に言われてそれがショックだった。
ハルは文乃と会うまで、問題を解決するには千歳と父親をなんとかして切り離せたらうまくいくんじゃないかと考えていた。でも、あの父親といることが千歳にとって「普通」の生活なんだとしたら、自分の今までの「普通」の生活とまったく違う生活を、突然ガラリと送れるようになるだろうか?「普通」というのは、一番変えるのが大変なんじゃないだろうか?千歳がもううんざりしていて変えたいと思っているならできるかもしれない。でもなんの疑問も持たずにそれを「普通」として受け止めているとしたら?千歳は一生おやじさんに殴られながら、これからもおやじさんの借金を肩代わりしていく羽目になるんじゃないだろうか。

そう考えながらも、同時にそのイメージには、千歳が少し当てはまらないという違和感も感じていた。千歳はそんなにあの父親に引きずられている風でもない。そこまで自分がない性格にも見えない。第一そうだったら、あんな風に栄養士の免許を取りたいとか、目標を持って学校に通ったりはできないだろう。千歳も千歳なりに、その「普通」を変えるきっかけを待っているのかもしれない。

それに、とハルは思う。千歳がどう思っているにせよ、千歳は今、部屋に戻ってはいない。自分から父親を避けて今までみたいに無防備にお金を取られたりしていない。つまり、もうすでに今までとは違う方向に向かい始めているんじゃないだろうか。

それなら、今が「普通」を変えるチャンスでなくてなんなんだ。

 

ハルがマンションに戻ると、千歳はキッチンで魚を焼いていた。玄関を開けた途端、もわっと煙が立ち込めていて魚の焼けるいい匂いが充満している。
「なんだなんだ、なんでこんなに煙が出てるんだよ。」
急いでキッチンに行って見ると、千歳は魚を焼くグリルを使わずにガス火の上に網を乗せて、魚を焼いている。
「煙探知機、作動しちゃうと思う?」千歳はハルを見ずに聞いた。
「しちゃうと思う?じゃなくて窓開けろよ、あと換気扇。」ハルはテーブルの向こう側にある窓を全開にした。「グリルあるだろう~。それせっかく煙出ないやつだからそれで焼けよ~。」
「網で焼いた方がおいしいんだって。」千歳はさいばしで魚を裏返した。「それにハル、魚のグリルちっとも使ってないでしょう。すごいきれいだもん。」
「ああ~なんかな、つい作る時はフライパンで肉だよな。第一そんなに毎日自分でメシ作らないし。」
「だから今日商店街で網買ってきた。」
「買ってきたの?わざわざ?」
「うん。だっておいしい魚食べたくなって。」
「あ~そうか、網で焼いてるから、自分の部屋でグリルの中に通帳とか隠してたんだな。」
「そうそう。グリルの前はビデオデッキの中。」
「凝ってんなぁ。」
ハルは奥の部屋に行ってスーツを脱いで着替えると、洗面所に行って手を洗った。

千歳がハルの部屋で料理をしたのは初めてだった。料理は全部和食だった。焼き魚に野菜と油揚げと切干大根の炒め煮、味噌汁、玉子焼き、ごはん。老人食かよ・・・。テーブルの上を見てハルは思った。ん?もしくは、病院食か。栄養士の勉強してるだけあって、ものすげー栄養バランスがよさそうだ。でも同時に実家の食事を思い出すような日本人なら誰でも懐かしくなるメニューだ。
「バイトって洋食屋って言ってなかったっけ?和食も作れるんだ。」
「当たり前じゃん・・・。ていうか、仕事と同じもの自分で毎日作って食べるわけじゃないし。」
「そりゃそうだ。」

二人で座って食べ始めると、ハルはどれもおいしくてガツガツ食べた。味が濃いわけでもなく、かといって薄くもなく、やはり仕事でやっているだけあって上手い。ハルは作るとしても簡単なスパゲッティーとかくらいで、こんなにきちんと和食を作ったりはしない。べつに料理はしないというわけではないが、料理に特別時間をかけたりしていない。
「あのさ、俺そんなにメシにこだわってないから、」ハルはちょっと気になった。「べつに料理とか、こんなにきちんとしなくていいよ。仕事でもやってて帰ってきてからもやってたらやだろ。」
千歳はびっくりしてハルを見た。
「ハルって珍しいねえ。」
「何が。」
「いや、普通バイトで厨房にいるって言うとさ、男って大体じゃあメシ作ってよ得意なんだろ、って言うんだよ。そう言われるとさ、私あまのじゃくだから絶対作ってやらないって思うんだよね。でもハルは一回も言わなかったでしょ。今日作ったのは自分が食べたかっただけだし。」
「ていうかべつに、今まで思いつかなかっただけなんだけど。」
「言わなかっただけじゃなくて、仕事でもやってるから逆に作らなくていいよなんて言ってくれたの、初めて聞いたよ。」
「それはどうも。」ハルはしばらく黙って食べていたが、思い切って聞いてみた。
「千歳さぁ、前にお母さんはあんまり家に帰ってこなくなったって言ってたけど、子供の頃から家でも料理とかしてたの?」
「う~ん、そうでもないなあ。作ってもお父さんにめちゃくちゃにされちゃったらやる気なくなるし、食べたいものがあった時は作ったりもしたけど、そんなにやってないよ。料理やり始めたのはほんとにバイト始めてからだよ。レストランの厨房って、まかないで食べさせてもらえるしね。」
「そっか。・・・・・・他にさ、兄弟はいないの?」
「おっ、なに?さり気なく探ってるの?」
「いや、そういう意味じゃないけど。実はさ、今日さ、」ハルは少し迷ったがやはり正直に言った方がいいと思った。「会社のやつで、この間の飲み会の時いたやつなんだけど、千歳の顔見て知ってるって言うんだよ。中学で陸上やってて、千歳のこと覚えてるって。そいでそいつがお前に兄貴がいたって言うから気になったんだ。」
「ふうん。世界って狭いね。」
「なんか、お前有名だったって。アザとかあって。学校とかさ、そういう虐待とかなんか対処してくんなかったの?」
「う~ん、虐待っていうと響きがもっと小さい子みたいだね。」
「でもあれって虐待だろ。」
「まあそうだろうね。でも学校は特に何もしないよ。まあ陸上部の顧問は結構気にしてくれてたけどね。私も家に帰りたくないから、だらだら練習して学校にいたりしてさ。バイトのレストラン紹介してくれたのも顧問なんだよ。なんか知り合いなんだって。」
「ふうん。で、兄貴は。」
「お兄ちゃんは私が中学卒業する頃に、家出しちゃって、それっきり会ってないよ。」
「どこにいるかとか、全然わかんないの?」
「全然わかんない。」
千歳はすました顔でぱくぱくごはんを食べている。
「で、何が聞きたいの?」
しかし言葉にかなりトゲがあるのをハルは聞き逃さなかった。ちょっと地雷を踏んだかな、とも思ったが、もうここまで聞いてしまって今さらやめられなかった。
「いや、ほらお兄さんがいるんなら、一緒にお父さんのこと相談したりできるかなと思ってさ。」
「お兄ちゃんは私のこと恨んでるから、連絡先知ってたとしてもどうにもならないよ。」
「恨んでる?」
千歳はあきらめたように手を止めて息を細くゆっくりと吐き出した。
「あのさ。」
一言言って黙った千歳の次の言葉をハルは待つしかなかった。なんて返事をしたらいいかわからなかった。少しの沈黙のあと、千歳が言葉を続けた。
「あのさ、お母さんが出て行った時、私に言ったのよ。あなたは強くていいわね、って。」千歳はハルの目をまっすぐに見た。
「お母さんがね、出て行く時に最後に私に言ったの。あなたは強くていいわねって。あなたはお父さんに似てて同じように強いから黙ってあのお父さんに殴られたりするのを耐えられるのよって。でも私にはもう無理だわ。私はあなたみたいに強くはないから、これ以上は耐えられない。お父さんはまかせるわね。でもあなたなら平気でしょう、って。私、最初はまたいつもの愚痴が始まったんだとばっかり思ってた。でも本当に、そのままお母さんは出て行ってそれっきり帰って来なかった。お兄ちゃんはその頃、お父さんに殴られるのが嫌で、しょっちゅう友達の家に入り浸ってたの。あとからお母さんがいなくなった理由を聞かれて、私もバカだから正直にお母さんが私に言ったことをお兄ちゃんに話したわけ。そうしたらお兄ちゃんはすごく怒って、お前のせいでお母さんは出て行ったんだ、って責めたわ。お兄ちゃんにとって本当に追い出したかったのはお父さんで、私がそのお父さんを黙って許してたから、いて欲しかったはずのお母さんが出て行かなきゃならなかったんだって。お兄ちゃんの夢は、お母さんとお兄ちゃんと私の3人でお父さんを何とか切り離して、あとは平和にやっていくことだったの。なのに、私がお父さんを追い出しちゃった。」
ハルの目から視線を斜め下に落とした千歳の目に、涙があふれた。

「お母さんがいなくなってからお兄ちゃんは絵に描いたようにグレて、友達の家からあんまり帰って来なくなった。私は家にお父さんと二人でいるしかなかった。私が中学を卒業した春、たまたま久しぶりに戻ってきたお兄ちゃんが、私に言ったの。お前はほんとに強くていいよなあって。なんであのおやじと一緒で平気でいられるんだって。それでね、私言ったの。たとえば殴られた後で怒ったり泣いたりして、自分の時間をもっと無駄にするほどバカじゃないからよって。そうしたら、突然お兄ちゃんがすごい勢いで私の顔を平手で殴ったの。お兄ちゃんに殴られたのは初めてだったよ。"どうせグレてる俺はバカだよ"って言って、そのままお兄ちゃんも帰って来なくなっちゃった。」千歳は涙を手の甲で拭いた。

「ほんとに自分が強いなんて思ったことないよ。ただ、我慢した方がいいんだと思って我慢してただけ。強いって言われるのがすごい嫌だった。じゃあ泣いてわめいて生きていけないくらい弱い方がみんなにとって良かったのかと思った。」

しばらく間が空いて、部屋の中がしーんとなった。千歳は一度、意識してはぁっと息を吐いた。

「そしたらある日ね、夜中にたまたま変えたチャンネルでやってたアメリカの古い映画を観たの。もう始まって半分くらい過ぎてたから題名もわかんないんだけど、黒人差別の開放運動の話だった。黒人にも人権を、って主張して騒動になるんだけど、最終的には勝利して差別は残ってても法律上は平等になるの。でね、映画のラストシーンで、黒人の親子が、以前はホワイトオンリーって書かれてた白人専用のカフェに堂々と入って行って座るの。まわりの白人は嫌がるんだけど、法律的にはもう平等だから、その親子に出て行けとは言えないのね。で、白人のウェイトレスがオーダーを聞くと、親子のお父さんが「コーヒー」って注文するの。このたった一杯のコーヒーのためにすごく辛いことがあったのよ。で、ウェイトレスが「ミルク?シュガー?」って聞くとね、お父さんが胸を張って答えるの。「ブラック。ストロングリーブラック。」って。私の問題なんてね、この当時の彼らの問題に比べたら小さいもんだけど、でもこの映画を観て初めて、それまでグズグズ悩んでた部分がさらっと風に吹かれたような気がしたの。強いってすばらしいことなんだって肯定してもらった気がした。私は自分がそんなに強いとは思ってないし、強いって言われるのが嫌だったけど、この日から強くなりたいって思うようになった。」

突然千歳はにっこり笑って、ハルの顔を覗き込んだ。
「あのね、私の人生の目標ってなんだと思う?」
「人生の目標?う~ん・・・おやじさんから離れて自立すること?かな?」
「それは生きて行く生活の方法だよね。それよりも、どうしても、って思ってる目標があるの。それはね、これを絶対私の代で終わらせることなんだ。」千歳はさっきとは打って変わって目をキラキラさせて言った。
「よく、虐待された子は自分の子供にも虐待するとか言うでしょう。親と同じような、暴力を振るう男と結婚したり。そういうね、同じことを繰り返したくないの。あんなお父さんやお母さんの悪影響なんて絶対私の人生には残してやんないの。あの人たちの影響なんて私にはこれっぽっちもないってことを証明してやるの。だから、絶対暴力を振るわない、やさしい、お父さんとは正反対のタイプの人と付き合って、子供がもしできても絶対暴力で虐待はしないの。自分も、グレたり、やけになったりしないで、ちゃんと仕事をしてきちんと生きていくの。あんな親の子供だけど、でもその二人の子供のうちの一人はすごく良い子に育ってなかなかの人生を送ってるってことが、それだけであの人たちにとっては十分復讐であり、親孝行になると思うんだ。放って行かれようが、殴られようが、良い人間に育ってやるの。あんたたちのやってることなんて私には届かないんだぞ、って。」

千歳は立ち上がってマグカップにコーヒーを入れてまたテーブルに戻ってきて座った。カップを持ってじっと中を覗き込む。
「たまに疲れた時にね、コーヒーをブラックでゆっくりゆっくり飲みながら、そうやって考えるの。そうすると、結構気持ちが落ち着いてリセットできるんだ。自分のね、軌道修正の儀式かな。」
テーブルの上に並んだままの食べた後の食器を眺めながら、ハルは笑った。
「儀式か。いいよな、そういう方法があるのって。べつにさ、そうやって頭で理解してればわざわざ毎回ブラックでコーヒーを飲まなくてもいいんだろうけどさ、でもそうやって儀式として何かを持ってるのって強いよな。俺はいくらストレスがたまろうが、そういうのがないからなあ、なにかあれば気持ちを切り替えるのにもっと楽なんだろうなあって思うよ。ていうか、それでいつもなんにも入れないでコーヒー飲んでんだ。」
「そう。」千歳も笑った。
「なんかその映画俺も見てみたいよ。」
「ラストシーンの内容をツタヤの店員さんに説明したら題名とかわかんないかなあ。」
「いやあ、わかんねえだろう。」
「でもほら、お店に一人くらいはいる名物マニア店員とか。」
「いないって、そんなの。」ハルは笑った。笑いながら、なんだかとても安心していた。正直に考えていることを話してくれた千歳がうれしかった。

やっと長引いたミーティングが終わって会議室を出ると、もう1時近くになっていた。急いで昼食を取ろうと外に出ようとしたハルに、山口が後ろから声をかけた。
「柏木さん!お疲れ様です!」
「おう、お疲れ。」
「この前の合コンの帰り、どうだったっすか?」
「え?どうって・・・。」ハルが返事に困っていると、山口は意外なことを話し始めた。
「あの子、俺どっかで見たことあるなぁと思って考えてたんですよ。そしたら、思い出しました!あの子、本城でしょ。本城千歳。」
「え?!なにお前、知り合いなの?」そう言えばハルは千歳の苗字もまだ知らなかった。
「いえ、知り合いって程でもないんですけど、俺中学の頃陸上やってて、あの本城って子も陸上やってたんです。県大会とかで見たことありますよ。」
陸上か・・・ハルはちょっとおかしくなった。確かにあの逃げ足はかなりの速さだった。逃げる必要があったから速くなったのか、もともと速かったのかはわからないが、あんなに必死になって逃げていれば中学の部活の練習よりは効果がありそうだ。
「柏木さん、実家まで送って行ったんですか?」
「え?実家?いや、一人暮らしっぽいアパートだったけど。」
「なあんだ、そっかあ。いやね、あの子の顔を何で覚えてたかって、ちょっと有名だったんですよ。」
「有名?」
「実はね、あの子のお父さんってのが暴力親父で。」
ハルはまさか山口が知っているとは思わなかったので、驚いて言葉が出てこなかった。ああ知ってるよとも言いたくなかったし、かといって白々しく驚いてみせるのも性分じゃない。
「あの子ね、お父さんに暴力振るわれても平気で大会とか出て来てたんですよね。ほら着てるのもTシャツと短パンとかだから腕や足なんかもアザができてると見えるんですよ。顔腫らしてる時も何度もありましたしね。それでも欠場しないで走るんだから、すごい神経ですよね。やっぱ、それくらい図太くないとそういう家庭じゃあやってけないんでしょうかねえ。」
ハルは黙って聞いていた。山口はまだ続けた。
「いやあ、合コンで顔見た時に絶対どこかで見た顔だと思ったけど、まさかあの本城千歳だったとはねえ。俺あいつの兄貴とは同じ年で、それで兄貴の同級生から暴力親父の話とかも聞いたんですよ。」
「兄貴!?」ハルは驚くと同時にそれまでの山口の話も合わせて怒りがこみ上げてきた。「兄貴だって?!」
「え、なんすか?そうっす、兄貴・・・。」
「あいつ、兄貴がいんのか?!」
「い、いましたよ、確か・・・。俺は違う学校でしたけど、俺のクラスにも兄貴を知ってるってやつがいて、それで、いろいろ聞いたんすよ・・・。」
「なんだよ、兄貴って・・・!どこで何してんだよ!」
「い、いや、知りません・・・けど・・・。」
「あ、悪い、ちょっと行くわ。」ハルはそのまま山口を置いて自分のデスクに走った。そしてデスクの足元に置いてあった自分のカバンから携帯を取ると、急いで外に出た。

兄貴が、いやきょうだいがいたなんて千歳はこれっぽっちも言ってなかった。しかも、弟や妹じゃなくて、兄貴だ。じゃあなんで千歳は親父さんの借金を一人で肩代わりしたりしてるんだ?!山口と同級生ということは、自分のひとつ下だ。経済的にも十分自立できるはずだ。兄貴は一体何をやってる?

ハルは会社のビルの外に出ていつも休憩に行くカフェに向かった。カフェは1時を過ぎていることもあって、そんなに混んではいない。ハルはコーヒーと適当に昼食になりそうなサンドイッチを買うと空いているテーブルに座った。まずコーヒーを一口飲んで、気持ちをいくらか落ち着かせてから、携帯の履歴を見た。昨日千歳が友達と言ってかけた子の番号がある。3秒くらい迷ったが、勢いをつけてその番号に発信した。
2回呼び出し音が鳴って、すぐに相手は電話に出た。
「もしもし?千歳?」はきはきした声の女性が電話に出た。
「あ、すみません。千歳じゃないんです。この電話の持ち主で柏木というんですが。」
「あ~、もしかして、千歳が言ってた新しい友達?」
「ええ、まあ。」
すると意外にも彼女は笑い出した。
「新しい友達ね~!あ、私、中嶋文乃と言います。」
「あ、僕は柏木ハルです。」
「千歳、どうかしたんですか?」
「いえ、どうかしたってわけじゃないんですけど・・・ちょっと教えてもらえないかと思ってることがあって。」
「はい。なんでしょう?」
「千歳のお兄さんのことなんですけど、千歳は何も言わないんですが・・・何か、事情があるんでしょうか。」
「お兄ちゃんね・・・。」彼女はちょっと考えてから言った。「どの程度聞きたいのかがわからないからなんとも言えないんですけど、電話でってのもなんだし、一度会って話した方がいいかもしれないですね。」
ハルも同じことを考えていた。「ええ、僕もそう思います。えっと、いつも仕事って何時頃に終わるんですか?」
「私は病院の夕食出しちゃえば終わりだから、早いんです。私の仕事は千歳からもう聞いてますよね?」
「ええ。」
「だからそちらの時間に合わせられますよ。なんだったらそっちの近くまで出るし。今日何もないけど、今日は大丈夫?」
「ああ、ええ、大丈夫です。じゃあ僕もなるべく早く終わらせて出ますんで、連絡します。」
それからハルは自分の会社の場所だけ取り合えず説明し、サンドイッチを食べずに持って急いで会社へと戻った。

ハルが仕事を終えたのは定時を少し過ぎたくらいだった。契約も立て込んでなくて、暇というわけではないが徹夜をするという忙しさでもなかった。コンピューターでできることはまた家に持ち帰ればいい。急いで文乃の携帯に電話をすると、すぐに文乃が電話に出た。
「さっき教えてもらったそちらの会社の最寄り駅までもう来てるんです。」文乃が言った。「駅の東口にあるコーヒーショップにいますけど。」
「わかりました。じゃあそこに行きます。えっと、どんな服装ですか?」
「ああ、目印に赤いバラ持ってるから。」
「ええ?!」
「冗談です。髪の毛ひっつめておだんごにして黒いセーター着てます。」
「ああ、わかりました。」ハルはため息をついた。とっさに真面目に受けた自分が少し恥ずかしかった。

ハルが急いでその店に行くと、窓際の席に長い髪の毛をひっつめて黒いセーターを着ている女性がこちらを見て手を振った。ハルはセーターと聞いてざっくりしたセーターを思い浮かべていたが、実際はぴったり体のラインが出る細身のセーターで千歳とは全然違う雰囲気の大人っぽい女の子だった。

「初めまして。よく僕ってわかりましたね。」
「だって、この前の合コンの時、私いたから見覚えあるし。」
「ああ、そうか。」ハルはコートを脱いで椅子の背にかけた。「とりあえず、なんか買ってきます。」
ハルがコーヒーを買って席に戻ってくると、文乃はニコニコして楽しそうにハルのことをじっと見ていた。
「ごめん。俺、中嶋さんのこと全然覚えてなくて。」
「そりゃそうよ。私は千歳を送って行くって言った人だから覚えてるんだから。」文乃は急にくだけた口調になった。「で、千歳は結局送ってもらったんだ?」
「ええ。」
「で、部屋まで送って行ったらお父さんがいたと。」
「はあ。よくわかりますね。」
「だって昨日千歳がお父さんが来てるって言ってたから。そいでどうしたの?」
「いや、千歳が殴られたりしたんで、ちょっと止めに入って、まあ最後は一緒に走って逃げたんですけど。」
「へえ~。一緒に逃げたんだ。で、そのバトルのときに携帯水没しちゃったの?」
「いや、それは昨日なんだ。昨日また部屋に戻っておやじさんとやり合ったらしいんだよ。」
「部屋に戻ってって、じゃあ千歳今部屋にいないの?」
「あ、俺んちに。」
「えっ?あなたが自分の家に連れてっちゃったの?」
「あっ、いや、だって他に送って行く所ないし・・・。」
「で、そのままあなたの所にいるの?」
「ええ、いますね。」
「へえ~・・・。」
「いや、へえ~って・・・。」文乃は意外といった感じで、でも笑みを浮かべて頬杖をついた。
「で、なんでお兄ちゃんのこと聞きたいの?」
「あ、そうそう!それですよ!千歳はお兄さんがいるなんて一言も言わないんですけど、お兄さんがいるなら、どうして一緒にお父さんのこと考えたり、借金をどうにかしようとかってならないんでしょうか。千歳が一人で借金返してるみたいだし。」
「お兄ちゃん行方不明だからねえ~。」
「えっ!?」
「逃げちゃったのよ。まあ若かったから家出になるのかなぁ。」
「家出って・・・。」
「誰も責められないでしょ、あのお父さんじゃ。」
「いや、それはそうかもしれないけど・・・、でも現に千歳は一人で借金とかも・・・。」
「だって、借金は最近よ。お兄ちゃんがいなくなってからずいぶん経ってからだし。それをお兄ちゃんに手伝ってくれってのも変じゃない?」
「でも、もしお兄さんが家出してなかったら、お父さんも千歳の名前で借金なんてしてなかったかもしれないんじゃないかなあ・・・。」
「その代わりお兄ちゃんの名義でしてくれてた方が良かったってこと?」
「いや、そうじゃないけど・・・。」
「あのさ。お父さんのことでお兄ちゃんを責めるのは無理があるんじゃない?」
「・・・・・・。」ハルは段々自分が何を言いたかったのかわからなくなってきた。
黙ってしまったハルを見ながら、文乃は意味ありげに聞いた。
「ねえ、千歳って文句言わないでしょう。」
「は?文句?」
「そう、お父さんの文句とか愚痴。」
そう言えば・・・ハルは考えてみた。あんなに殴られたりしてるのに、ハルの部屋に来てからも一度もお父さんの愚痴をこぼしていない。
「確かに、何にも言ってないな。なんでだろう・・・。もうあきらめてんのかな。」
「あのお父さんが千歳にとって普通だからだよ。」
「え?普通?」
「そう。千歳には、物心ついた時からあのお父さん。あれが、千歳の普通のお父さん。でしょ?他にお父さんいないんだから。殴られ続けてきたのも、お金に困ってきたのも、全部普通。あれが、千歳にとっての普通の生活なのよ。」
「でもさ、普通っていっても、たとえば俺たちも毎日普通に通勤電車乗ってても疲れるみたいに、やっぱりストレスたまるんじゃないかな。」
「そりゃあたまると思うよ。暴力とかってやる方もやられる方もすごいエネルギー使うだろうし、私たちよりずっと抱えているものって大きいと思うよ。だからいつかそれに疲れて爆発しなきゃいいなと思ってるんだけどね。」
「爆発って・・・なんですか。」
「誰でもさ、人生で一回くらい心がポキッと折れちゃうときってあるじゃない?」
「・・・・・・。」
「べつに脅かしてるわけじゃないよ。でも、柏木君の家にいるってことは、千歳ああ見えて結構疲れてるのかもしれないよ。だって、前はお父さん来ても自分の部屋に毎日戻ってたんだから。まあ、すぐお金取られちゃったから、お父さんもそんなに長居してなかったけど。子供の頃だって一緒に住んでたわけだし、お父さんが来たからってそんなに泊まり歩いたりはしてなかったんだよね。まああとは、」文乃は自分のカップの紅茶を一口飲んで先を続けた。「さすがに今、お金取られたらキツイんだと思う。前の借金もまだ返してる途中だし、今借金を増やされたら学校に戻るとか相当先になっちゃうしね。だから柏木君の所にいられてほんとに助かってるんじゃないかな。」