電車に乗ってハルのマンションの入り口に着いた時にはもう当たりは暗くなっていた。エレベーターで上がって部屋のある階に降りて歩き始めると、部屋のドアの前にもうハルが帰って来ていて、立ってぼんやり待っていた。近づいて来る千歳を見てハルの目が丸くなった。
「なに、なにそんなんなってんの?!」
千歳の髪の毛はまだびしょびしょで、タオルを首にかけ、変な長い白いコートを着ている。
千歳はハルの顔を見たらすごく帰って来たぁーっという実感がわいてきた。
「ただいま。」そう言ってさっさと鍵を差し込んでドアを開けた。鍵を開けている千歳の背中を見てハルが叫んだ。
「ショーパブ・ファンタジーって書いてあるけど?!」
「あ、これもらったの。」
「もらった?誰に?」
「このショーパブの人に。」
「ええっと・・・。」ハルはわけがわからなくなった。「だってバイトはレストランの厨房じゃなかったっけ?」
「べつにショーパブで働いてるわけじゃないよ。道を聞いたらくれたの。」
「道を聞いたら?コートをくれたの?ってか、なんでそんなずぶ濡れなんだよ・・・・・・。」そう言いながらハルの顔が険しくなった。「・・・千歳、もしかして自分の部屋に行って来たんだろ。」
「うん。」
「おやじさんいたんだな!一体何された?!」
「えー・・・、湯船に突っ込まれた。」
「なんだよ、それ。なんで一人で行くんだよ・・・・・・。俺が帰ってくるの待って、一緒に行けばいいだろう。大体、せっかくあんなに必死で逃げてきたのになんでまたわざわざ行く必要があるんだよ!?」
「だって、着替えがなかったから・・・。」
「そんなもん、開き直って俺のパンツはいてんだから、それでいいだろ!」
「だってブラジャーないでしょ!」
「ああ・・・まあさすがにブラジャーはないけどさ、だからってブラジャーのためにそんなにされてまで行くことないだろう。」
「・・・。」千歳は黙って部屋に入った。ハルもあとに続いて入る。
「あ、あのね、ハルのドライバーセットのキリ、なくしてきちゃった。」
「はあ、キリ~?なんでそんな話が飛ぶんだよ。」
「話飛んでないよ。それで刺したの。」
「刺したって何を。」
「お父さん以外何刺すの。」
「えっマジで?」
「で、気がついたらどっか行っちゃった。ごめん。」
「いいよ、そんなおやじさん刺したやつ、もう使いたくないよ。」ハルはジャケットを脱いで椅子の背にかけた。
「刺したって、どこ刺したんだよ?まさか目か?」
「いやぁ~想像しちゃったよ。タコヤキ食べれなくなるわ。」
「うわっ、よせ、俺だってタコヤキ好きなんだからさぁ。」そう言いながらハルは風呂場に入ってお湯を湯船に入れ始めた。
「とにかく、まず風呂入らないとお前、風邪引くよ。」
確かにすっかり体は冷えきって、実は震えるくらいだった。ハルの手前、努めて平気な顔をしていたのだが、唇が紫になっていて誰が見ても凍えているのはバレバレだ。
千歳はお湯がたまるのを待たずに風呂場に入り、慌てて濡れた服を脱いでいると、首から下げた携帯から水がしたたっていた。そうだ、すっかり忘れていた。あ~携帯死んだか・・・。千歳は無造作に携帯を首からはずすと洗面台の上に置いた。壊れたり取られたりしないように服の中に吊るしていたのが今日は裏目に出た。やっぱりここの部屋に置いていけばよかったけど、もう考えてもしょうがない。
千歳が風呂場から出ると、椅子に座ってコーヒーを飲んでいたハルが待っていたように口を開いた。
「さっき、湯船に突っ込まれたって言ってたよな?で、大丈夫だったのかよ?どうやって逃げてきたんだ?」
「うん・・・。あお向けに湯船に押し込まれたから、ポケットに入れてったキリで抑えてる手を刺したの。でも、今日はちょっとヤバかったよ。」
「ヤバかったって何が?」
「いや、ほんとに今日は殺されるかと思った。」
「・・・・・・。」ハルはすぐにはなんて答えたらいいのかわからなかった。それが伝わったかのように、千歳が続けて話し始めた。
「べつにね、今までも"ああ~殺される~"なんて思ったことはもちろんあるの。でも今日はほんとに、このままあきらめたら多分気が遠くなってそのまま戻って来れないんだろうなって思うくらい容赦なかったよ。」
「・・・・・・。」ハルがまだ黙っているので、千歳はゆっくり椅子に座った。
「もうお金だけせびりに来たんじゃないのかなあ。」
「よく、キリなんて持って行ったな。」
「うん、奥の手がないと何かあった時にまずいと思ってさ。」
ハルはコーヒーを飲み、「あのさ、」と言いかけて少し考えてから、また言葉を選びつつ話し始めた。
「あのさ、千歳、これからどうすんの?」
「え?これから?これからって・・・。」千歳は突然の質問に始め何を聞かれているのかピンと来なかった。が、この部屋に居座っていることだとすぐにわかって、慌てて取り繕った。そうだ、ハルだって迷惑に思うのが普通だ。
「あ、ごめん。出て行くよ。彼女にバレたらマズイよね。」
「いや、そうじゃなくてさ。べつに彼女いないし。」
「え、いないの。」
「いねえよ。それはいいからさ、千歳もう自分の部屋に一人で戻るのやめろよ。」
「・・・。」今度は千歳がなんて返事をしたらいいか迷う番だった。
ハルは黙った千歳を見ながら、ぽつぽつ気持ちを話しだした。
「俺さ、さっきドアの前で千歳が帰ってくるの待ってた時、バイト先に行っただけだと思いながらもさ、もしかしてまたおやじさんと何かあったんじゃないかと思ってすげぇ心配だったんだよ。そうしたら案の定、ぽたぽた水たらしながら変なカッコして帰ってきただろ。」ハルはちょっとため息をつくように息を吐いた。
「俺さ、正直言って、千歳があんな風に殴られたり暴力振るわれるの、見たくないんだよ。俺彼氏でも何でもないしさ、えらそうなこと言えないけどでも理屈抜きでやなんだよ。だからさ、どうしたらいいか考えが決まるまで、ここにいろよ。」
「いいの?」
「いいよ。」
千歳は少し間を置いて聞いた。
「考えが決まるって、何を決めるの?」
「だからさ、たとえば荷物とか確かに不便だから、おやじさんいても何とかして運べないかとか考えようよ。」
「なんか、あの部屋お父さんにあげちゃうみたいだね。」
「ていうか、ずっと居座る気なのかな、おやじさん。」
「いや、お金が手に入ればどっか行っちゃうよ、あの人は。今回はまだお金もらえてないからどこにも行けないんじゃない?」
「なるほど・・・。でもだからといってただ金やるのも頭に来るよなあ。」
「まあね。」
「あ。」ハルが立ち上がった。「千歳もコーヒー飲む?」
「飲む。ありがとう。」
ハルはカウンターの向こう側にまわって、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを入れた。
「砂糖は?牛乳は?」
「どっちもいらない。」
「はいよ。」
ハルがテーブルに置いたカップを手に取ると、すごく暖かくていい匂いがした。そのまま一口飲むと、冷えた胃にすとんとコーヒーがしみていくのが感じられた。
「あ~~~おいしい。」千歳はカップを両手で包むようにして持ったまま、テーブルを見つめた。
「実はさ、昨日ハルが鍵持って行ってまた中で待ってればいいって言ってくれたでしょ。あれ、すごいうれしかった。またここに帰ってきていいんだなあって思ったの。」
「ああ、だって、今あの部屋に帰れないだろ。」
「そりゃそうだけど。でもやっぱりうれしかったよ。」
ハルは意外に素直なことを言う千歳が急に可愛く思えた。もし椅子じゃなくてソファに座っていたらぎゅっと抱き寄せたい気持ちになった。が、椅子からわざわざ立ち上がってそうするのは変なので、黙ってコーヒーを覗き込んでいた。
すると突然千歳が声を上げた。
「あっそうだ!ハル、携帯貸して。一か所電話してもいい?」
「は?俺の携帯?なんで?」
「今日私の携帯一緒に湯船に浸かっちゃったの。でも携帯通じないと心配する友達がいるから、その子にだけは連絡しておきたいんだ。」
「ああ、いいけど。」
ハルが携帯を差し出すと、千歳は手帳も何も見ずに番号を押した。呼び出し音が鳴って少しして相手が電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし、文乃?千歳。」
「千歳?なにこの番号?」
「ごめん、携帯水没しちゃってさ。とりあえずこの番号で連絡取れるから。」
「新しいの買ったの?」
「ううん、新しい友達の携帯。」
「新しい友達?」
「うん。」
「ふう~~~~ん。」文乃は意味ありげに語尾を上げた。
「千歳、お父さん来たんでしょ。」
「おっ、よくわかったね。」
「水没とか、新しい友達とか、なんか盛りだくさんだからさぁ。」
「そうだね。」
「今度ゆっくり聞かせてよ、待ってるから。じゃあね。」
「じゃあね。」
千歳も電話を切って携帯をハルに返した。
電話の会話が終わると急に静かになって、ハルはまだ色々言いたいことがあったのになんだかどう話したらいいのかわからなくなり、立ち上がってコーヒーのおかわりを入れた。