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マメブロの小説

こちらは小説です。実在の人物、団体名とは一切関係ありません。
「ブラックコーヒー」は①から⑭までで、完結です。

電車に乗ってハルのマンションの入り口に着いた時にはもう当たりは暗くなっていた。エレベーターで上がって部屋のある階に降りて歩き始めると、部屋のドアの前にもうハルが帰って来ていて、立ってぼんやり待っていた。近づいて来る千歳を見てハルの目が丸くなった。
「なに、なにそんなんなってんの?!」
千歳の髪の毛はまだびしょびしょで、タオルを首にかけ、変な長い白いコートを着ている。
千歳はハルの顔を見たらすごく帰って来たぁーっという実感がわいてきた。
「ただいま。」そう言ってさっさと鍵を差し込んでドアを開けた。鍵を開けている千歳の背中を見てハルが叫んだ。
「ショーパブ・ファンタジーって書いてあるけど?!」
「あ、これもらったの。」
「もらった?誰に?」
「このショーパブの人に。」
「ええっと・・・。」ハルはわけがわからなくなった。「だってバイトはレストランの厨房じゃなかったっけ?」
「べつにショーパブで働いてるわけじゃないよ。道を聞いたらくれたの。」
「道を聞いたら?コートをくれたの?ってか、なんでそんなずぶ濡れなんだよ・・・・・・。」そう言いながらハルの顔が険しくなった。「・・・千歳、もしかして自分の部屋に行って来たんだろ。」
「うん。」
「おやじさんいたんだな!一体何された?!」
「えー・・・、湯船に突っ込まれた。」
「なんだよ、それ。なんで一人で行くんだよ・・・・・・。俺が帰ってくるの待って、一緒に行けばいいだろう。大体、せっかくあんなに必死で逃げてきたのになんでまたわざわざ行く必要があるんだよ!?」
「だって、着替えがなかったから・・・。」
「そんなもん、開き直って俺のパンツはいてんだから、それでいいだろ!」
「だってブラジャーないでしょ!」
「ああ・・・まあさすがにブラジャーはないけどさ、だからってブラジャーのためにそんなにされてまで行くことないだろう。」
「・・・。」千歳は黙って部屋に入った。ハルもあとに続いて入る。
「あ、あのね、ハルのドライバーセットのキリ、なくしてきちゃった。」
「はあ、キリ~?なんでそんな話が飛ぶんだよ。」
「話飛んでないよ。それで刺したの。」
「刺したって何を。」
「お父さん以外何刺すの。」
「えっマジで?」
「で、気がついたらどっか行っちゃった。ごめん。」
「いいよ、そんなおやじさん刺したやつ、もう使いたくないよ。」ハルはジャケットを脱いで椅子の背にかけた。
「刺したって、どこ刺したんだよ?まさか目か?」
「いやぁ~想像しちゃったよ。タコヤキ食べれなくなるわ。」
「うわっ、よせ、俺だってタコヤキ好きなんだからさぁ。」そう言いながらハルは風呂場に入ってお湯を湯船に入れ始めた。
「とにかく、まず風呂入らないとお前、風邪引くよ。」
確かにすっかり体は冷えきって、実は震えるくらいだった。ハルの手前、努めて平気な顔をしていたのだが、唇が紫になっていて誰が見ても凍えているのはバレバレだ。

千歳はお湯がたまるのを待たずに風呂場に入り、慌てて濡れた服を脱いでいると、首から下げた携帯から水がしたたっていた。そうだ、すっかり忘れていた。あ~携帯死んだか・・・。千歳は無造作に携帯を首からはずすと洗面台の上に置いた。壊れたり取られたりしないように服の中に吊るしていたのが今日は裏目に出た。やっぱりここの部屋に置いていけばよかったけど、もう考えてもしょうがない。

千歳が風呂場から出ると、椅子に座ってコーヒーを飲んでいたハルが待っていたように口を開いた。
「さっき、湯船に突っ込まれたって言ってたよな?で、大丈夫だったのかよ?どうやって逃げてきたんだ?」

「うん・・・。あお向けに湯船に押し込まれたから、ポケットに入れてったキリで抑えてる手を刺したの。でも、今日はちょっとヤバかったよ。」

「ヤバかったって何が?」

「いや、ほんとに今日は殺されるかと思った。」

「・・・・・・。」ハルはすぐにはなんて答えたらいいのかわからなかった。それが伝わったかのように、千歳が続けて話し始めた。

「べつにね、今までも"ああ~殺される~"なんて思ったことはもちろんあるの。でも今日はほんとに、このままあきらめたら多分気が遠くなってそのまま戻って来れないんだろうなって思うくらい容赦なかったよ。」

「・・・・・・。」ハルがまだ黙っているので、千歳はゆっくり椅子に座った。

「もうお金だけせびりに来たんじゃないのかなあ。」

「よく、キリなんて持って行ったな。」

「うん、奥の手がないと何かあった時にまずいと思ってさ。」

ハルはコーヒーを飲み、「あのさ、」と言いかけて少し考えてから、また言葉を選びつつ話し始めた。
「あのさ、千歳、これからどうすんの?」
「え?これから?これからって・・・。」千歳は突然の質問に始め何を聞かれているのかピンと来なかった。が、この部屋に居座っていることだとすぐにわかって、慌てて取り繕った。そうだ、ハルだって迷惑に思うのが普通だ。

「あ、ごめん。出て行くよ。彼女にバレたらマズイよね。」
「いや、そうじゃなくてさ。べつに彼女いないし。」
「え、いないの。」
「いねえよ。それはいいからさ、千歳もう自分の部屋に一人で戻るのやめろよ。」
「・・・。」今度は千歳がなんて返事をしたらいいか迷う番だった。

ハルは黙った千歳を見ながら、ぽつぽつ気持ちを話しだした。
「俺さ、さっきドアの前で千歳が帰ってくるの待ってた時、バイト先に行っただけだと思いながらもさ、もしかしてまたおやじさんと何かあったんじゃないかと思ってすげぇ心配だったんだよ。そうしたら案の定、ぽたぽた水たらしながら変なカッコして帰ってきただろ。」ハルはちょっとため息をつくように息を吐いた。
「俺さ、正直言って、千歳があんな風に殴られたり暴力振るわれるの、見たくないんだよ。俺彼氏でも何でもないしさ、えらそうなこと言えないけどでも理屈抜きでやなんだよ。だからさ、どうしたらいいか考えが決まるまで、ここにいろよ。」
「いいの?」
「いいよ。」
千歳は少し間を置いて聞いた。
「考えが決まるって、何を決めるの?」
「だからさ、たとえば荷物とか確かに不便だから、おやじさんいても何とかして運べないかとか考えようよ。」
「なんか、あの部屋お父さんにあげちゃうみたいだね。」
「ていうか、ずっと居座る気なのかな、おやじさん。」
「いや、お金が手に入ればどっか行っちゃうよ、あの人は。今回はまだお金もらえてないからどこにも行けないんじゃない?」
「なるほど・・・。でもだからといってただ金やるのも頭に来るよなあ。」
「まあね。」
「あ。」ハルが立ち上がった。「千歳もコーヒー飲む?」
「飲む。ありがとう。」
ハルはカウンターの向こう側にまわって、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを入れた。
「砂糖は?牛乳は?」
「どっちもいらない。」
「はいよ。」
ハルがテーブルに置いたカップを手に取ると、すごく暖かくていい匂いがした。そのまま一口飲むと、冷えた胃にすとんとコーヒーがしみていくのが感じられた。
「あ~~~おいしい。」千歳はカップを両手で包むようにして持ったまま、テーブルを見つめた。
「実はさ、昨日ハルが鍵持って行ってまた中で待ってればいいって言ってくれたでしょ。あれ、すごいうれしかった。またここに帰ってきていいんだなあって思ったの。」
「ああ、だって、今あの部屋に帰れないだろ。」
「そりゃそうだけど。でもやっぱりうれしかったよ。」

ハルは意外に素直なことを言う千歳が急に可愛く思えた。もし椅子じゃなくてソファに座っていたらぎゅっと抱き寄せたい気持ちになった。が、椅子からわざわざ立ち上がってそうするのは変なので、黙ってコーヒーを覗き込んでいた。

すると突然千歳が声を上げた。

「あっそうだ!ハル、携帯貸して。一か所電話してもいい?」
「は?俺の携帯?なんで?」
「今日私の携帯一緒に湯船に浸かっちゃったの。でも携帯通じないと心配する友達がいるから、その子にだけは連絡しておきたいんだ。」
「ああ、いいけど。」
ハルが携帯を差し出すと、千歳は手帳も何も見ずに番号を押した。呼び出し音が鳴って少しして相手が電話に出た。
「もしもし?」
「もしもし、文乃?千歳。」
「千歳?なにこの番号?」
「ごめん、携帯水没しちゃってさ。とりあえずこの番号で連絡取れるから。」
「新しいの買ったの?」
「ううん、新しい友達の携帯。」
「新しい友達?」
「うん。」
「ふう~~~~ん。」文乃は意味ありげに語尾を上げた。
「千歳、お父さん来たんでしょ。」
「おっ、よくわかったね。」
「水没とか、新しい友達とか、なんか盛りだくさんだからさぁ。」
「そうだね。」
「今度ゆっくり聞かせてよ、待ってるから。じゃあね。」

「じゃあね。」
千歳も電話を切って携帯をハルに返した。

電話の会話が終わると急に静かになって、ハルはまだ色々言いたいことがあったのになんだかどう話したらいいのかわからなくなり、立ち上がってコーヒーのおかわりを入れた。

千歳は、ハルの部屋のCDラックやDVDプレイヤーが置いてある棚に、文房具などが入っている道具箱を見つけた。その中をゴソゴソ探っていると小さい携帯用のドライバーセットがあったので、そこからキリみたいな尖ったやつを選んで一本取り出し、ジーンズのポケットに入れた。それから、いつも自分で持ち歩いているエコバッグも小さく折りたたんでもう片方のポケットにしまうと、ハルが置いていった鍵でドアを閉めてマンションを出た。ここから自分の部屋までそんなに遠くないので、部屋から近いバイト先も大した距離じゃない。千歳は駅に向かって足早に歩き始めた。昨日一日外に出なかっただけなのに、今日は風が気持ちよく感じられる。

バイト先は商店街に昔からある洋食屋だ。ファミレスの方がバイトするには簡単だったけど、千歳はどうせやるならきちんと身になるものを会得したかった。洋食屋の店長兼シェフは若い頃フランスで修行した人で、厳しかったが千歳には一からいろんなことを教えてくれた。栄養士の資格を取りたいと思うようになったのも、ここでバイトを始めたのがきっかけだった。資格を取りたいと思うようになった当初は、調理師免許とずいぶん迷ったが栄養士の方がなんとなく仕事の幅が広いような気がした。

「準備中」と書かれた札がかかっているドアを開けて中に入ると、すぐに店長が厨房から出てきた。
「お、千歳、どうしたひどい顔して。おやじさん来たのか?」
「店長、こんにちは。昨日はすみませんでした。」千歳は後ろ手にドアを閉めて頭を下げた。ドアにぶら下がっているベルがちりんちりんと音を立てた。
「いや、昨日電話で急に休むって聞いた時にそうかなあと思ったんだよ。そうか、おやじさんまた来たか。」
店長は椅子をひとつ出して千歳に座るように促し、自分もその向かいの椅子に座った。
「どうしてるんだ、部屋。おやじさん居座ってるんだろう。昨日はどこで寝たの?」
「あ、偶然友達の所に泊めてもらえました。」
「そうか。」
「明日からは仕事に来ますので。」
「そうか、そんなに急がなくてもいいぞ。せめて明日もう一日くらい休んだらどうだ。」
「・・・はい。じゃあ、あさってから来ます。」千歳はなるべく顔を上げないでしゃべった。口元が腫れているのは隠しようがないが、目の上の縫った傷は前髪で見えなければいいなと思った。中学を出てからこの店でずっと働いている。店長には事情も話してあったので、いろんなことを知っているだけに、これ以上はなるべく心配をかけたくなかった。それでなくても店長は千歳の面倒を見てくれている数少ない大人だった。ここに迷惑がかかるようなことだけはどうしても避けたい、と千歳はいつも思っていた。

店を出たあと、千歳はまっすぐ自分の部屋に向かった。もちろん、まだ父親がいるかもしれないことはわかっているが、着替えが何もないのが不便で仕方なかった。だからといって買うのももったいないし、父親は出かけていていないかもしれない。行ってみないことにはわからない。

コーポに近づくにつれ、千歳は辺りに気を配りながらさっさと部屋まで歩いて行った。経験からしてももたもたしているとかえって危ない。ドアの手前まで来て耳をすますと、中ではボイラーみたいな音とザーザーと水の音が聞こえる。どうやら父親はお風呂に入っているらしい。そのまま入っていてくれれば、これはチャンスだ。千歳はすっとドアを開けると半分くらいでストッパーをかませ、いつでも逃げられるように開けっ放しにした。それからもちろん靴のまま小走りで部屋まで入り、タンスの一番上の引き出しを開けた。一番上の引き出しには下着やキャミソールなんかがしまってある。両手で左右からざーっと全部すくい上げ、持って来たエコバッグにドサッと入れた。その瞬間、シャワーの音が止んだ。

やばい。千歳は急いでバッグのひもをねじって肩からかけて落とさないようにし、すぐに玄関に向かって走った。が、間に合わずガシャっと音がして、風呂場のドアが開いた。腰にタオルを巻きながら、ぽかぽかと湯気を立てた父親が風呂場から出てきた。そして千歳が通りすぎる前に、父親が通せんぼするように立ちふさがる形になった。しまった・・・・・・千歳はポケットに手を入れてどう切り抜けようか必死にぐるぐる考えた。

「何コソコソやってんだ。」父親がにやりと笑った。「自分の家だろ!」言うが早いか、その瞬間に千歳の腕を掴むと、ものすごい勢いで千歳を風呂場の中に引っ張って突き飛ばした。壁にぶつかった千歳に飛びかかって、覆いかぶさるように両肩をわしづかみにすると、お湯をはってあった湯船の中へ千歳を思い切りぶち込んだ。足は出ているが頭と体はどっぷり湯に浸かってしまった。体重をかけて上から押さえられるとさすがに千歳もどうにも抵抗できなかった。足をバタバタさせながら、今日は殺されるかもしれないと本気で思った。息ができなくて苦しくてもがきながらも、必死でポケットの中のキリを握りしめると、満身の力を込めて肩を掴んでいる父親の手の甲に突き刺した。
「痛えー!」咄嗟に父親は手を離して千歳から離れた。千歳はキリを握り締めたまま、湯船の端を掴み勢いをつけてお湯から飛び出ると、今度はどこを狙うでもなくただ父親に向かってキリを振り下ろした。それは危うくよけた父親のもう片方の腕に突き刺さった。
「うわっ!てめえ・・・。」父親は何か叫んでいたが、千歳は風呂場を飛び出し、これ以上ない速さで玄関から外にダッシュした。

もう息もできなくなって折れるようにひざを付いて転倒するまで、千歳は走った。時間も距離も、どれくらい走ったのだろう。
全身びしょ濡れで、顔の前に覆いかぶさった髪からは水がぽたぽたとしずくになって落ちている。とりあえず、呼吸を整えるまで、しばらくその場にうずくまった。

こんなに怖かったのは何年ぶりだろう。今日はちょっとやばかった、と千歳は反省した。お父さんをあなどりすぎていた。仰向けにお湯につけられたからまだ抵抗できたけど、もしうつぶせで後ろから首を押さえられて湯船に沈められたら、きっとキリも使えなかった。ほんの少しの油断で、人生終わってたかもしれなかった。

びしょびしょの服がどんどん冷えて重く感じられてきた。でもそれすら千歳はちょっと生きてる実感が持てるように思えた。のろりと立ち上がって、うつむいたまま前も見ずに、隣に見えていたハイヒールの足に向かって聞いた。
「すみません、駅はどっちですか?」
「駅?駅ッテドノ駅?」
千歳が顔を上げると、その女の人はびっくりするくらい近くに寄って千歳の顔を覗き込んだ。
「チョット、ダイジョウブ?」
「あ、大丈夫です。駅ってこの辺にいくつもあるんですか?」
「ウウン、一個ダケド。ドウシタノ、ビッショリデ~。」
横を見てみるとショーパブの入り口があり、どうやらこのパブで働いている外国人お姉さんのようだった。アジア系で、長い髪をおろしてミニスカートのスーツの上にロングスタッフコートをはおり、何かを配りながら客引きをしているらしい。そういえば、辺りはもうだいぶ暗くなっている。
「駅ネ、ココマッスグ行ッテ、・・・」
彼女が説明を始めてすぐに、白いスーツを来た体格のいい男がこっちに向かってやってきた。30前後の、いかにもパブのフロアマネージャーをやっていそうな男である。
「なんや、姉ちゃんどないしたんや。」
「あ、駅の場所を知りたくて・・・。」
「駅よりか姉ちゃん、ずぶ濡れやんか。何してそないになってん。」
「えー・・・、ちょっとケンカ?」
「ケンカて、ひどいやられようやなぁ。」そう言うと彼は心配そうに見ているさっきのお姉さんに「ちょっと中からタオル持って来たれや。」と言い、また千歳に聞いた。「あれか、公園の池か?落とされたんか?」
「いえ、湯船です。」
「湯船か・・・。まあ、そんならせめてキレイやな。池の水はアカン。あれは腹壊すわ。」
なるほど・・・。千歳はちょっとおかしくなった。公園の池に比べたら湯船はずいぶんマシだ。
お姉さんがタオルを持ってくると男はそのタオルを取り、千歳の頭に乗せた。
「ほれ、ちぃっと拭いときや。そいから、エリカ。」源氏名なのだろう。「お前、もう中入ってええから、それ上着脱いで貸したれ。」
エリカと呼ばれた彼女は着ていたスタッフコートを脱いで千歳の肩にかけてくれた。
「え、いいんですか・・・。」千歳が言うと、白スーツの男は笑った。
「こんなん一枚どうってことないがな。姉ちゃん、これからは男、選ぶんやで。」
「どうも。」千歳はぺこっとおじぎをして、教えてもらった駅に向かって歩き出した。
お姉さんがさっきまで着ていたコートは濡れて冷えた体に暖かかった。

朝、千歳が目を覚ますともうハルはいなかった。窓から明るく日が差し込んでいてまぶしい。ソファに起き上がってしばらく部屋の中を見回してみた。なんてことのない、男の人の一人暮らしの部屋だ。ハルと言っていたけど、大学生だろうか、働いているのだろうか。ソファの前にある小さなテーブルの上には水の入ったビニール袋が置いてある。ハルが氷を入れて千歳の顔を冷やしていてくれたらしいが、千歳は全然気づいていなかった。久しぶりの格闘と痛みで、ぐっすり寝たわけではないのに、横になってからの記憶はなかった。

そーっとソファから降りてキッチンテーブルを見ると、おにぎりやサンドイッチがメモと一緒に置いてあった。"仕事に行きます。なるべく早く帰ってきます。"とメモには書いてあった。
千歳はおにぎりをひとつ手に取った。おかかだ。
「ふうん。」おにぎりをテーブルに戻すと、一緒に置いてある水のペットボトルだけを取ってまたソファに戻り、ちびちびと飲みながらぼんやり窓の外を眺めた。

 

夕方近くになり日が傾き始めた頃、ガシャンと鍵を開ける音が響いてハルが戻ってきた。
慌ててキッチンと繫がっているリビングに入ってきて、朝と同じ位置に座っている千歳を見るとほっとした表情を浮かべた。
「ああ、ただいま。」
「おかえり。」
「どう、大丈夫?痛む?」
「うん、まあ、普通。」
「そうか。」ハルはテーブルの上を見た。千歳は何も食べていない。
「お腹、すかないの?」
「う~ん。べつにいいかなと思って。」千歳はまだ口の中が切れたばかりで食べると結構痛いのがわかっているので、水だけ飲んでいたのだ。
「なんかさ、簡単に食うもん作るから、シャワーでも浴びてくれば。顔にお湯かけなきゃ平気だろ。」
「わかった。」千歳はゆっくり立ち上がって洗面所の方に歩きだした。キッチンのハルの横を通るときに、ついっと振り向いてハルを見て聞いた。
「ねえ、パンツってトランクス?」
「へぇ?」
「トランクス?」
「なんだよ、急に。」
「なんか、いっこ貸してよ。」
ああ、とハルは納得した。そうだ、千歳は着替えも何もない。
「そうか、じゃあ俺のトランクスはいてればいいよ。あと」ハルは奥の寝室に行って服を取って戻ってきた。「これ、Tシャツとジャージ。これ着てな。」
「ありがとう。」千歳は服を受け取ると風呂場に入って行った。

シャワーの音が聞こえている間、ハルはスパゲッティをゆで、玉ネギとブロッコリーと鶏肉を切って炒めて市販のソースと混ぜた。ハルはそんなに料理をする方ではないが、しないわけでもない。一応"適当に簡単なごはん"くらいは作れるつもりだ。

傷は、体が温まってもそんなに痛くはならなかった。首筋にお湯が当たるのが気持ちよくて、千歳はしばらくシャワーを当ててじっとしていた。それからお湯を止めてバスタオルで体を拭き、渡されたTシャツとジャージを着た。メンズなのでやせている千歳には大きかったが、その余裕が心地よく体のまわりに暖かい空気の層を作った。なんだか、自分が思っていた以上にほっとした。
風呂場から出てくると、千歳はキッチンテーブルの椅子に座った。ハルがスパゲッティをフライパンから皿に乗せている。それをぼんやり眺め、椅子の上に足を乗せて膝を立て、背もたれに寄りかかった。

部屋に来て始めて見せるくつろいだ表情にハルは安心した。昨日の夜は本当に具合が悪そうだったから、正直置いて仕事に行くのすらちょっとためらうくらいだった。もちろんそんな簡単に休めるわけではないので出勤したが、これでもかなりがんばって急いで帰ってきたのだ。

「食おうか。」ハルは皿を自分と千歳の前に置いた。
「ありがとう。いただきます。」
「いただきます。」
食べながら、しばらく沈黙が続いた。
「あのね、」千歳が痛そうに片方だけで食べながら口を開いた。「明日、バイト先に行きたいんだけど。」
「え、バイト?」
「うん、今日は携帯で休みますって言ったんだけど、こういうのって実際見た方が印象が違うから。」
「印象?」
「そう。顔見れば、そりゃこの顔じゃ仕事できないなって思うでしょ。電話だけじゃバックレかもしれないじゃん。」
「なるほど。」ハルはスパゲッティを飲み込んで水を飲んだ。「バイトって、何してんの?」
「レストランの厨房。ま、中だからもう少し腫れが引いたらすぐ仕事できるけど。」
「いや、そんな無理しなくてもいいと思うけど。まあ、ちょっとバイト先に行くくらいなら外でおやじさんとバッタリなんてこともないだろうしな。」
「そんなこと心配してるんじゃなくて、鍵。仕事に行ってる間に私が鍵開けたままで出かけちゃまずいでしょ。」
「ああ~、そうか。そういうことね。わかった、じゃあ明日は鍵置いて行くから、帰ってきたらまた開けて中で待っててくれればいいよ。」
「ありがとう。」
二人はまたしばらく黙って食べた。千歳はゆっくり食べていたが、ハルはすごく空腹だったのでついがっついてしまう。ハルは最後の一口を詰め込むと水で流し込みながら聞いた。
「なあ。」
「ん。」
「おやじさんってさ、ずっと昔からああなの?いつ頃から・・・その、殴られたりしてんの?」
「ん・・・そうだね、一番最初の記憶は幼稚園の頃かなぁ。叩かれて痛いって思ってたの覚えてるよ。」
「てことは、最初っからってことじゃん・・・。あのさ、そういう時お母さんはどうしてんの?かばったり・・・とかしてくれなかったの?」
「私が小さい頃はお母さんは一緒に殴られながら泣いてたかなあ。小学校に行くようになってからはあんまり家に帰って来なくなっちゃったよね。」
「ああ・・・。」ハルは水を飲みながら千歳がゆっくりゆっくりスパゲッティを食べるのを眺めた。そして突然気が付いた。
「ええ?!厨房?ナースじゃなかったの?!」
「ナースぅ?」千歳は噴出しそうになりながらハルを見た。「そういう趣味なの?」
「ちがうよ!だって昨日の飲み会はナースとの飲み会だ、って友達が言ってたんだよ。だからてっきりみんなナースの女の子達なんだとばっかり・・・。」
千歳はフォークを置いて水を飲むとハルの方を向いた。
「ばっかみたい。あ~でも私も病院関係者と合コンって聞いたよ。ハルは医者かなんかなわけ?」どう見ても医者には見えないハルにわざと言っているのは明らかだ。
「そんなわけないだろ~。俺は設計事務所で働いてんの。病院とは無関係者だよ。じゃあ千歳はなんで来てたんだよ?」
「専門学校で一緒だった友達がね、病院で働いてるの。それで誘ってくれたんだ。バイトも定休日だったし。」
「専門って看護学校?」
「ううん、栄養士。その子は院内食作ってるんだ。」
「すげえじゃん。じゃあ千歳も栄養士の資格あんの?!」
「ううん。まだ。ほんとはその友達と一緒に終了して資格取りたかったんだけど、あと少しって所でお父さんが借金してくれちゃったからさ。借金返すのと学費両方はとても払えなくて、休学して借金の方返してるの。でも返し終わったら絶対学校に戻って資格取るんだ。栄養士なら給食のおばちゃんもできるし病院でも働けるし、やっぱり手に職だよね。」
初めて饒舌に話す千歳の話を、ハルは意外な思いで聞いた。単にやられっぱなしの子かと思っていたけど、結構ちゃんと考えているんじゃないか。
「その専門の学費はどうしたの?」
「中学出たあと、みんなが高校行ってる3年間バイトして貯めたの。専門行ってる間ももちろんバイト続けてたしね。今働いてるレストランでずっと雇ってもらってるの。だからできるだけ早くバイトに戻りたいんだ。お世話になってるから。」
「そうなのか。」
ハルは段々自分が子供っぽいように思えてきた。自分はそんな風に真剣に勉強したり、仕事をしたりしてきただろうか。大学にも親のスネをかじって行かせてもらい、普通の大学生並みに遊び歩いた。就職活動をして今の会社に入り、真面目に仕事をしているが何かにそんなに必死になったような記憶はない。
「そのさ、借金はあとどれくらい残ってんの?」多分他のどんな人にも借金の残額なんて聞けないが、千歳は聞いても気にしないような感じがしてつい聞いてしまった。思ったとおり、千歳は表情も変えずに答えた。
「ちょうど100万くらいかな。」
「100万!」
「ええーだいぶ減ったよ。もう半分以下だしあとちょっとだね。」
けろっとそう言う千歳にハルは言葉を返すことができなかった。そう言えば俺って金額の目標を持って稼いだことってないんだな・・・。

千歳が食べ終わったので、ハルは二人分の皿を流しに運びながらまだ黙っていた。千歳が小さくごちそうさま、と言った。
「あ、そうだ。お前今日ベッドで寝ろよ。」ハルはキッチンから千歳に言った。
「え、いいよ。このソファ寝心地いいし。」
「いや、いいよ。俺今日早く帰るんで仕事持って帰ってきたから少しこれからやらなきゃだし、眠くなったらそっちの部屋で先に寝ていいよ。」
「・・・。ハルはどこで寝んの?」
「俺今日ソファでいいよ。」
「そう・・・・・・。」千歳はちょっと考えてから言った。「もう少しテレビ見ててもいい?」
「ああ、俺全然音気になんないから、いいよ。」
ハルがそう言うと、千歳はソファに座ってテレビのスイッチを付けた。ハルはノートパソコンをカバンから出してキッチンテーブルの上に乗せ、仕事を始めた。

二時間くらい経って休憩しようかなとハルが立ち上がった時、ずいぶんつまらない番組を千歳が何も言わずに見ているのに気が付いた。
「おい、なんか飲むかー。」ソファに近寄って見てみると、千歳はまた昨日と同じ格好で寝ていた。
「なんだよ、もう・・・。ちゃんとベッドで寝ろって言ったじゃん。」
ハルは仕方なく自分の分だけコーヒーを淹れた。