マメブロの小説

マメブロの小説

こちらは小説です。実在の人物、団体名とは一切関係ありません。
「ブラックコーヒー」は①から⑭までで、完結です。

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ハルとシェフがハヤシライスを食べ終えた頃、司がコーヒーを三つトレイに乗せてテーブルまで運んできた。二つをテーブルに置き、一つは手に持って、そのままハルの隣に腰をおろした。もうほとんど閉店時間間際で、店内に客はいなかった。司の母親がテーブルを丁寧に拭いている。
「どうだ、腹いっぱいになったか。」司がもうコーヒーをすすりながらハルに聞いた。
「ええ、すっごくおいしかったです。あ、コーヒー、いただきます。」ハルもカップを手に取った。
「そういえば、お父さんが倒れられて大変だったそうじゃないか。」千歳に聞いたのだろう、シェフがたずねた。「どうなんだい?」
「はい、始めは心配しましたけど、リハビリ次第では後遺症も重くならずにすみそうで、とりあえずはほっとしました。」
「そうか。」シェフはにっこり笑った。「お父さんはお仕事は?」
「設計事務所をやってるんですけど、今は事務所の人が管理してくれてます。」
「へえ。ハルも設計事務所で働いてるんだったよな。」
「じゃあ将来的にはお父さんの事務所を継ぐつもりなのかな。」
「そうですね。」ハルは自分で確認するように間を置いた。「今まではそのつもりでした。」
シェフと司はハルの言葉を待ってくれている。
「なんにも考えてなかったけど、ただ漠然といつかは継ぐもんだと思ってました。なんとなく父と同じ仕事を選んで、今は就職したところにいるけど父が引退するころにはきっと俺が継ぐんだろうなって。そうしたら父も喜んでくれると勝手に思ってました。でも今回のことがあって、父を見ていたらそうじゃないんじゃないかって思うんです。母はこの機会に父の事務所を手伝ってくれないかって言ってました。でも、病院で父は麻痺が残るとしても左側だから利き手じゃなくて良かった、って言ってたんです。リハビリして早く復帰しなきゃ渡辺さんに悪いって。あ、共同経営者の人なんですけど、すごく意気込んで話してました。それ見て俺は、俺には出る幕なんてないと思ったんです。ていうか、最初から俺の場所なんてないんじゃないかって。俺が気安く後を継ごうなんて思えるような軽い場所じゃないんです、きっと。」

ハルはコーヒーをすすった。
「それに、俺もそんな自分の場所を作ってみたいと思うんです。年取っても倒れても、手放したくない自分の場所っていいもんだなって。だから、父の事務所は継ぎたくないんです。自分でいつか独立してやってみたいって、急に考えるようになりました。変ですよね、親が倒れたのに親の仕事を継がない決心をするってのも。」
「いやあ、いいんじゃないか。」シェフが笑って言った。
「なんだよ、俺には耳が痛い話だな。おやじの店手伝ってる俺にわざと言ってるだろ。」司が茶化す。
「いえ、違いますよ。俺、司さん店の味を守ってすげえなあって思ってるし。」
「ほんとかよ。」
「まだまだ俺には父にまかせてもらえるものなんてないってことですよ。」ハルはコーヒーを全部飲んでカップをソーサーの上に置いた。
「さてと、俺、千歳が戻ってくる前に部屋に帰ります。」ハルはシェフと司を交互に見て頭を下げた。「ごちそうさまでした。」
「またいつでも食べにおいで。」やさしく言うシェフを見て、ハルはこの人にどれだけ千歳が救われたかがわかる気がした。

 

エレベーターを降りて、もう慣れた廊下を歩いていきながら、千歳はバッグから鍵を取り出した。長居したわけじゃなかったのに、思ったより時間がかかってしまった。鍵穴に鍵を差し込んでドアを開けると、中が明るいので、千歳は足元を見ていた目をはっと上げた。昔はずっと、ドアを開けて真っ暗だと安心していた。部屋の電気が点いているということは父親がいるということだったからだ。だが、ハルの部屋に一緒に住むようになってから、明るい場所に帰ることがうれしいと思うようになった。ハルが実家に戻ったあとは一人だったから、今日久しぶりに点いている明かりに千歳は思わず声をあげた。
「ハル!帰ってきたの!」
「おう、ただいま。ていうか、おかえり。」
靴も脱ぎっぱなしで千歳はリビングに駆け込んだ。今、いてくれるのがうれしい。
「今日戻ってくるなんて言ってなかったのに。もう大丈夫なの?」
「ああ、なんかさ、」ハルはテーブルの上に置いてあったコーヒー豆の袋を指差した。「すげぇおいしいコーヒー飲みたいんじゃないかと思ってさ。」
いつものように元気に返事が返ってくると思っていたのに、千歳は黙ってハルを見つめて突っ立っていた。泣きたいのか、笑いたいのか、どっちとも取れる顔をして、くちびるを噛んでハルの目をずっと見ている。それから小さく笑って下を向いた。
「知ってる?」
「なに?」
「私もね、すっごいコーヒー飲みたくて、でも、」千歳は手に持っているコンビニのビニール袋をハルに向かって持ち上げた。「今日はたっぷりミルクとお砂糖入れようと思って、牛乳買ってきた。」
そういう千歳の顔はなんだかすごくうれしそうだった。
ハルも満面の笑みを浮かべた。「・・・・・・そっか。」

ハルが二つのカップにコーヒーを注ぐと、千歳がスプーンで砂糖を一杯ずつ入れ、それを両方ともかき回してから買ってきた牛乳をコーヒーに加えた。スプーンで混ぜたばかりのコーヒーの中に、牛乳がマーブル模様を作って渦を巻いていく。
ハルがカップを手に取り、千歳に向けて言った。「じゃあ、乾杯。」
「うん。乾杯。」
二人はカップを少しだけそっと合わせた。小さくカツンと音がした。
喉を下りていくコーヒーは甘くやわらかく体を暖めた。

千歳は横浜駅の西口からとりあえずどんどん東急ハンズの方向に歩いて、ハンズに出たところで右に曲がって大通りに出た。そのまままっすぐ岡野町の交差点まで出る。カードの地図ではこの交差点を右に曲がる。岡野町の大きな交差点で立ち止まって信号を待ちながら、この先に店なんてあったっけ、とふと考えた。駅からはだいぶ離れているし、ここからは大通りで車やバスはひっきりなしに走っているが、歩いて飲みに来るような店は記憶にはない。一体どんな店で働いているんだろう。歩く距離はわりとあるので色々考えるにはたっぷり時間があった。信号が青になって千歳は交差点を右に渡った。

シンプルな地図のとおり、シンプルな道筋で、店はすぐにみつかった。というより、他にあまり店がなくて迷いようがなかった。まったく何もないわけではないので、ぱらぱらとお弁当屋さんやペットショップなどがあるが、カードの店を見つけるには簡単だった。「キャクタス」と書かれたその店の看板が、ログハウス風の丸太木材で作られている店のドアの上に飾ってある。どうやらアメリカンスタイルの飲み屋らしい。パブやクラブを想像していた千歳には意外だった。小さなパブで地味にホステスをやっているんだろうと勝手に思っていたからだ。「キャクタス」の窓にはよくありがちなバドワイザーの電光看板がかかっていて、幌馬車風の車輪や牛骨が外に飾ってある。ドアの前には黒板のメニューが小さいイーゼルに乗せて置いてある。「トルティーヤチップスのアボカドディップ添え」、「チリビーンズ」といった、ひねりのないアメリカンというよりはメキシカンなメニューが書いてあった。

「ふん。」千歳はメニューを一通り読んでから店のドアを開けた。
カラン、と平べったいベルの音がした。
「いらっしゃいませ。」少し遠くにいるウェイターらしき男が千歳を見た。「お二人様ですか?」
「いえ、一人です。」
「カウンター席でもよろしいですか?」
「はい。」
「では、こちらにどうぞ。」男は微笑んで千歳を奥のカウンターに案内した。

店内もすべて木調でテーブルもイスもそろって丸太風だった。変わった場所にあるわりには客は結構入っている。雰囲気がいいのだろうか。店の名前が「キャクタス」なだけに、中にはあちこちにサボテンが飾ってあった。ちょうどカウンターのわきの壁際に置いてある鉢植えがずいぶん大きくて、千歳は天井まで伸びているサボテンを下から上まで見上げてからカウンターに目を移して凍りついた。

カウンターの内側にいてビールを注いでいるのは母親だった。
千歳は母親から目を離すことができずに、視線を動かさないまま手探りで案内されたスツールに座った。上着を上半身だけ脱いでそのままスツールの背にかかるように後ろにたらした。心臓はバクバクしているのに、耳は水の中にいるかのように周りの音を拾わない。
「刑事に向いてないわね。」
突然母親がそう言った。目はビールを注いでいるグラスを見つめたまま、手も止めていない。
「・・・・・・え?」それが自分に言われた言葉だとわかるまでに時間がかかった。
「あたしが渡したカード、もらったんでしょう。刑事にしちゃ口が軽すぎだわね。」ビールを注ぎ終えるとレバーを離し、グラスをななめ向こうの客に差し出した。「おまちどうさま。」
千歳は黙って自分の両手をカウンターの上でぎゅっと握った。
「よく私ってわかったね。」話してみるとすごい久しぶりだけど、声は思ったより落ち着いていて普通で良かった、と千歳は自分のことながらほっとした。声がうわずったりするのはいやだと思っていた。
「どうしてって言われても説明できないけど、わかるわねえ。それに、警察が来たから近いうち来るだろうと思ってたし。」
「そう。」来るだろうとは思ってて、連絡しようとは思ってくれなかったの、と言いたかったがどうしても言葉になって出てこなかった。「何飲む?」
「あ、えっと、」千歳はこの場に来て何かを飲むことをまったく考えていなかった。「なんでもいい。」
母親は何も言わずにくるりと背を向け、後ろにある棚からグラスを手に取り、カウンターの上に置いた。丸っこい、かわいい安定型のグラスだ。それからリキュールの棚に手を伸ばして上の方から一本取り、次にカウンターの下に置いてある冷蔵庫からジュースを出した。千歳が見ている間に、母親は手際良くグラスにそれらを入れ、マドラーできれいに混ぜた。千歳はただそれをぼんやり見ているだけだった。正直、千歳が考えていた母親像とはまったくかけ離れていて、どうしていいのかわからなかった。母親の顔を見たら、もっと文句を言うつもりだったのかもしれない。大して流行っていそうもないパブで汚い化粧をして働いている母親を見て、馬鹿にしたかったのかもしれない。でも、目の前でグラスの中身をカラカラと涼しい音を立てて混ぜながら、千歳のわからない名前の飲み物を作っている母親は、きちんと仕事をしている人だった。年相応の化粧をしてはいるが、服装は若く見えるさっぱりとしたブルーのシャツを着て、茶色く染めた髪をゆるく上にまとめている母親は、いかにも酔っ払った若い男の子が恋愛相談をしそうなおばさんだ。
「はい、どうぞ。」
母親はコースターを千歳の前に置いて、その上にさっきのグラスを乗せた。
千歳は何も言わずにひとくち、飲んだ。グレープフルーツの味とライチの香りがふわっとただよう、甘いお酒だった。
「ふうん。おいしい。」思わず口から言葉が出た。ほめるつもりなんてなかったのに、となぜか思った。
「それ、ディタグレープフルーツ。」
「ディタ?」
「そう、ディタ。」
千歳はディタというお酒は聞いたことがなかった。リキュールの名前なのかなんだかわからなかったがそれ以上聞かなかった。ただ黙ってもうひとくち飲んだ。すきっ腹にきゅうっと吸い込まれていく。
「で、どうしたの?」
「え?何が?」
「何がって何かあるから来たんでしょう。」
「何がって・・・突然いなくなった母親が働いている場所がわかったら普通会いに来るんじゃない?」
「お父さんはどうしてるの?」母親は千歳の質問には答えずにそう聞いた。
「知らない。私、引っ越したから。」
「そう。まあ誰でもいやになるわよね。」ふっと口の端だけで笑うと千歳の顔を見て言った。「お兄ちゃんもいなくなっちゃったしね。」
「知ってたの。」
店員が伝えに来たオーダーを聞くと、母親はうなずいて冷蔵庫からタッパーウェアに入っているライムのスライスを一個取り出してコロナのビンの中にプシュッと入れ、それを店員の差し出したトレイの上に乗せた。
「あの子、おばあちゃんに連絡したらしいのよ。もう家を出たから私の居場所を教えてくれって。それでおばあちゃんがかわいそうに思って教えたらしいの。その頃はまだこの店じゃなくて他で働いてたんだけど、その当時住んでいた部屋に会いに来たのよ。本当に家出してもうお父さんとは連絡を取ってなかったから、私も特に拒む理由もないしね。今でもこの店にもたまに来るわよ。でも忙しいみたいだから何ヶ月かに一回だけど。」
千歳は信じられなかった。あのお兄ちゃんがお母さんの居場所を知っていて会いに来ていた。私があのアパートにいることはお兄ちゃんも知っていたのに自分には何も知らされずにお兄ちゃんはお母さんと会っていた。
グラスの中の氷が溶けてカランと下にくずれて納まっていくように、千歳は何かが自分の中に染み込んでいくような気がした。

父親にしがみついていたのは自分の方だったのだ。
みんなに置いていかれて自分はそこにいるしかないと思っていたのに、離れて行けないと勝手に思っていたのは自分だったのだ。自分を殴らなければいられない父親の手の届くところにいて借金をされたり迷惑をこうむることで、頼られているような気分になっていたのは自分だった。この位置は母親に、お兄ちゃんに、押し付けられたものだとばかり思っていた。でも、それはこんなにもあっさり出て行ける場所だった。そして出て行った外の世界では、みんなが自分のペースでそれぞれの生活を歩んでいた。母親も、憎らしい、自分を捨てたひどい女というよりは、自分が食べていくために働いている、ごく普通のおばさんだった。
「これ、いくら?」千歳はグラスを指差した。
「いいわよ、今日は。」
「ありがとう。」千歳は素直に礼を言ってスツールから降り、上着を手にかけた。「ごちそうさま。」
母親はカウンターの上を拭きながら千歳の目を見て言った。「しばらく、ここ辞めないからね。」
「そう。」千歳も母親の目を見て、微笑んだ。「でも、私もうここに来なくてもいいみたい。」
母親は首だけを少し動かして二度、うなずいた。じっと千歳を見つめていたが、何も言わなかった。

千歳は上着を手に持ったまま、着ないでさっさと出口まで歩き店のドアを開けた。ありがとうございました、と男の店員の声が響いた。振り返らずにドアを後ろ手で閉めると、ベルの音がリズム良くカランカランと鳴り続けた。

駅に向かって千歳はすごく早く歩いた。ブーツの底がカツカツといい音を立て、まだ手に持ったままの上着は千歳のひざあたりをはたはたと波打った。まだ冷たい空気を吸い込んで深く吐き出した時、ディタの甘い香りがただよった。

ハルは実家から毎日千歳に電話をしていた。千歳の仕事が終わる時間まではたわいない話をメールで入れ、終わった頃を見計らって電話をかけた。千歳はメールには休憩時間になるべく返事をしてきたし、仕事が長引いてハルの電話に出られなかった時でも、レストランを出ればすぐに折り返しかけてきた。この日も普通になんてことないメールを会社から送ったのだが、メールの返事はいくら待っても帰って来なかった。普段意外にこういう連絡事に関してはマメな千歳を知っているのでハルはちょっと気になった。メールの返事もできないほどバイトが忙しいのか、それとも寝ているのか。しかし、昨日のメールでは大きな予約が入っているとか最近忙しいとかは言っていなかったし、バイトが休みだとも言っていなかったので、寝ているとも考えづらい。休憩時間にたまたま何かやらなければいけないことが入ってメールできないとしても、やはり気になってしまう。あとで電話がかかってくるさ、とハルは自分を納得させようとしたが、今まで一緒に暮らしていたのが急に四日も会っていないことも手伝って、考え始めると止まらなくなってしまった。

「もしもし、母さん?」ハルは家に電話をした。「俺、今日マンションに帰るわ。父さんもとりあえず安定してるし。」
「そう、そうね。うちからじゃ不便だしね。会社から直接行くの?」
「うん。荷物はまた近いうちに取りに行くから置いといてよ。」
「わかったわ。じゃあまた来る前に電話ちょうだい。」
「うん、そうするよ。じゃ。」
ハルは電話を切ると、急いで事務所を出た。メールの返事が来ないくらいでばかばかしい。そう思いながら、ハルは千歳がバイトしているレストランに向かうために駅へ走った。

 

千歳が横浜駅に着いた時はもうすっかり暗くなっていた。
横浜駅に来るのは久しぶりだった。だいぶ春らしくなってきていても、夜になるとまだ肌寒い。でも、冷たい風が気分をきりっとさせて心地よかった。いよいよだと思う反面、突然向こうからやってきたということもあって、なんだか胸はざわざわしている。電車の中で何度も確認した、もらったカードをもう一度見てみた。小さくてものすごく簡単な地図が書いてある。かなりわかりづらいが、横浜の土地勘のある千歳は大体の見当がついた。駅からはちょっと遠そうだ。十五分は歩くだろう。横浜駅はいつもそうであるようにものすごい人ごみで、にぎやかで、明るい。千歳はそれをぼんやり見ている自分が別世界にいるようだと思った。足を踏み出すと、西口を出てからすぐの信号が赤に変わってまた立ち止った。金髪で白いえりを立て、黒っぽいスーツを着たお兄さんがすかさず話しかけてくる。千歳はスーツの彼の目に入っているグレーのカラーコンタクトを見つめながら、ハルはどうしてるかなあと考えた。そのスーツの彼があまりに何ひとつハルに似ていないので、ハルがなつかしくなって急に会いたくなった。


ハルは千歳のバイト先の場所は知らなかったが、千歳が前に住んでいたアパートからそう遠くないということと、レストランの名前で、駅の交番で聞くとあっさり場所がわかった。昔からやっている商店街のレストランだから、きっと地元の人ならみんな知っているのだろう。
商店街はそんなににぎやかでもないがさびれている風でもなく、やたらにうるさいパチンコ屋と携帯ショップの勧誘が活気を出していた。商店街の通りを少し歩いて一本奥に入った所にその古びたレストランはあった。ドアの上にかかっているテント風の屋根と看板は新しいらしく、そこだけ年季の入った壁に取って付けたように色があざやかだ。まだ閉店時間には間があるが、ハルはちょっと躊躇してからドアを開けた。ちりんちりんとドアの上にぶら下がっているベルの音が響いた。


「いらっしゃいませ!」女性が振り向いてハルに声をかけた。「お一人様ですか?」
「はい。」ハルは答えながら、この人が司のお母さんかな、と思った。ショートカットが似合う明るい笑顔で、年齢にしては意外に背が高く細身だ。
「どうぞ。」案内しようとした彼女を、ハルは咄嗟に呼び止めた。
「あ、あのっ。」
「はい?」
「こちらに千歳さんはいらっしゃいますか。」
「あら。」彼女は立ち止ってハルの顔をじっと見ながら突然おばさん口調になった。「またちーちゃんのお客さんなの?」
「また?」
「ちょっと待ってて。」どうしてまたなのか聞こうとしたハルの言葉を聞かないうちに、おばさんは奥にすたすた入って行ってしまった。
「ねえ、またちーちゃんいないかってお客さんが来てるんだけど。今度は誰かしら。」最後のは小声で言っていたがハルにはしっかり聞こえてしまった。すると厨房につながっている出入り口からシェフの白い服を着た男が二人顔を出した。一人は司だった。
「あー!なんだ、ハルかあ!」司はハルの顔を見るなり満面の笑みで近づいてきてハルの肩をバンバン叩いた。「こっち来いよ。」そしてハルを厨房の出入り口近くまで連れて行った。
「おやじ、彼がちーちゃんの彼氏だよ、ハル。」
「ああ、そうか。」おやじと呼ばれたその男の人は手を拭きながらハルに近づいてにっこり笑った。
「千歳がお世話になってるそうで。」体格の良い体に熊のようなヒゲを生やした司の父親は、絵に描いたようなシェフだった。差し出された手を握ると、分厚くて、あちこちに小さいやけどの跡がいくつも見えた。
「いやだ、早く言ってよ。そう、あなたがハルくんなの。食事していってよね。さあどうぞどうぞ。」
なんだかわからないうちにハルは一番奥のテーブルに通されてしまった。厨房から千歳がひょっこり顔を出すものとばかり思っていたのに、千歳は現れない。
「わたしも一緒に座るよ。」司のお父さんがエプロンをはずした。
「ああ、もうほとんど終わりだからいいよ。」司が厨房から顔を出した。「ハル、何でも好きなもん食ってくれよな。」
「うん、ありがとう。」ハルはメニューを手に取りながら店内を見回してみた。店はこじんまりとして古くはあるがきれいに手入れされている。もう残っている客は少なく、ほとんどのテーブルは空いている。テーブルは五個ずつ、二列に並んでいて、みんな四人掛けだ。満席なら、家族だけでまわしていくのは忙しいだろう。
「決まりましたかな。」
「あっ、はい、じゃあハヤシライスを。」ハルは咄嗟に食べやすそうなものにした。司のお父さんがわざわざ一緒に座ったということは、何か話があるのだと思ったからだ。フォークとナイフで切りながら食べるようなものだと集中して聞けない気がした。
「じゃあ私もそれにしよう。」そう言って中の司に聞こえるように少し大きな声で「ハヤシふたつ。」と言った。
「千歳に会いに来たんでしょう。」前置きなく、彼が聞いた。
「はい。今日はメールしても返事がなかったので、突然失礼かもしれないと思いましたが・・・。」
「いやいや、うちは店をやってお客さんを迎えているんだ。突然来てくれたってまったくかまわない。千歳は普段どおり仕事をしていたんだが、たまたま今日はちょっと出かけたんだよ。」
「はい。」ハルはおとなしく次の言葉を待った。
「今日ここに警察が千歳をたずねて来てね。」
「警察?」
「ああ。被害届けが出されたんだそうだ。」
「被害届け?なんのですか?」
「ほら、引っ越しの時ビデオ屋が来てたって言ってただろう。その人がどうにもならなくなって警察に被害届けを出したんだよ。」
「ああ・・・。なんだ臆病もんだったんだな。」
「ははは。まあ、警察に言っても営業停止になるかもしれんが、それよりもやくざに脅される生活に絶えられなかったんだろう。やくざに搾り取られるより、警察に色々聞かれてからでもよそに行けばまた店ができるかもしれん。彼は君達には自主制作ビデオはまだ撮影していなかったと言っていたらしいが、その問題の女の子では撮っていなかったというだけで、違う作品はすでに作っていたらしいんだよ。」
「あいつ・・・じゃあウソついてたんですね。」
「ああ、千歳も同じことを言っていたよ。ずいぶん前に作っていたらしくてそれをレンタルしていたそうだが、その品揃えが古いのを見て、千歳のおやじさんが声をかけたらしいんだな。」
「新しいのを作らないかと。」
「そうだ。で、二人で一本撮影したはいいが、二作目で例の女の子にひっかかったわけだ。そこで、被害届けを出された警察は一応共犯者である千歳のおやじさんも探すことにしたんだが、すっかり逃げちまっていてわからない。それで娘の千歳に事情聴取に来たわけだ。行き先を知っているかもしれないからな。」
「もし知っていたら喜んで教えるでしょうね。」
「ああ、千歳も教えられなくて残念だと言っていたよ。ああいうの、自分も迷惑だからぜひ捕まえてくださいってな。そうしたらな、警察が奥さんも娘さんもそろって知らないんですね、と言ったんだ。」
「奥さん・・・?」
「千歳のお母さんのことだよ。」
「まさか。」
「不思議なもんだな。長い間どうしているのかわからなかったのに、警察が調べると案外簡単にわかるもんなんだ。警察がお母さんの実家に聞きに行ったら、お母さんは妹さんには居場所を教えていたそうだ。」
「おやじさんとは離婚してたんじゃなかったんですか。」
「突然いなくなっただけだから、離婚の手続きも何もしていないんだよ。まだそのままだ。」
「・・・・・・。」
「千歳は警官にお母さんの居場所を教えてくれと頼んだんだ。父親の消息も知らなければ母親がどこにいるのかもわからないことに警官もちょっと驚いていたよ。最近は個人情報保護法とかがあるから簡単には教えられないと彼は言ったんだが、胸ポケットから一枚のカードを出してな、横浜にあるこの店が人気だから行ってみたらいいと言って、千歳にくれたんだ。」
「それが・・・。」
「ああ。たぶん母親の務め先だと思う。千歳はそのカードをもらってから上の空だから、もう上がっていいって行かせたんだよ。」
「それって横浜のなんて店なんですか?」慌てて立ち上がろうとしたハルの腕をシェフはぎゅっと掴んだ。
「邪魔をするな。ここでわたしとハヤシを食って、部屋に戻って待ってろ。」
ハルは何も言えずに、テーブルに置かれているハヤシライスを見つめて、もう一度腰をおろした。
「・・・なんで、母親の実家に消息を聞くなんて簡単なこと、今まで千歳はしなかったんでしょうか。」
「いや、したかもしれんよ。でも、相手が千歳じゃ向こうが何も教えなかったのかもしれん。」
「そんな・・・。」その時ふと、ハルは以前母親の話をした時に一度だけ千歳が泣いたのを思い出した。
「だから千歳は母親の話をした時にだけ、泣いたりしたんでしょうか。母親の実家ってことは千歳にとっては田舎で、おばあちゃんとかがいるわけじゃないですか。あんまりかわいがられてなかったんでしょうか。」
「いや、そうじゃないだろう。」
「え?」
「確かに暴力を振るわれるのはきつい。だが、父親はいつも千歳の所に戻ってきて殴ったり金を持って行ったりする。それは逆に考えてみれば父親の頭の中にはいつも千歳がいるということだ。それに反して母親は家を出て行ったっきり、千歳には無関心だろう。人間は暴力を振るわれるよりも、放棄されることの方が辛いってことだよ。だから千歳は父親のことはもうどうでもいいはずだ。母親との方がよほど傷ついているんだよ。」
まったく思いも及んでなかった言葉に、ハルは自分の鈍さを痛感した。そうだ、いじめだって無視されるのが一番辛いって言うじゃないか。そんなこと誰だって知っている。殴られても殴られても淡々としていた千歳が涙を流した時、どうして気が付かなかったんだろう。
「どうした、さあ食べよう。」
「はい。」ハルはスプーンを手に取りハヤシを見つめた。
「でも、そんな母親と今日会って、もっと傷付くんじゃないんでしょうか?」
「もちろん、そうなるかもしれん。でも、あの子にとっては、会わなければ何も進まないだろう?会ってから先は、あの子次第だ。」
ハルはしばらくその言葉を頭の中で繰り返した。それから、黙ってひとくちハヤシライスを食べた。時間も手間もかけて作られていることを主張する濃厚な味が口いっぱいに広がった。
おいしかった。