ハルとシェフがハヤシライスを食べ終えた頃、司がコーヒーを三つトレイに乗せてテーブルまで運んできた。二つをテーブルに置き、一つは手に持って、そのままハルの隣に腰をおろした。もうほとんど閉店時間間際で、店内に客はいなかった。司の母親がテーブルを丁寧に拭いている。
「どうだ、腹いっぱいになったか。」司がもうコーヒーをすすりながらハルに聞いた。
「ええ、すっごくおいしかったです。あ、コーヒー、いただきます。」ハルもカップを手に取った。
「そういえば、お父さんが倒れられて大変だったそうじゃないか。」千歳に聞いたのだろう、シェフがたずねた。「どうなんだい?」
「はい、始めは心配しましたけど、リハビリ次第では後遺症も重くならずにすみそうで、とりあえずはほっとしました。」
「そうか。」シェフはにっこり笑った。「お父さんはお仕事は?」
「設計事務所をやってるんですけど、今は事務所の人が管理してくれてます。」
「へえ。ハルも設計事務所で働いてるんだったよな。」
「じゃあ将来的にはお父さんの事務所を継ぐつもりなのかな。」
「そうですね。」ハルは自分で確認するように間を置いた。「今まではそのつもりでした。」
シェフと司はハルの言葉を待ってくれている。
「なんにも考えてなかったけど、ただ漠然といつかは継ぐもんだと思ってました。なんとなく父と同じ仕事を選んで、今は就職したところにいるけど父が引退するころにはきっと俺が継ぐんだろうなって。そうしたら父も喜んでくれると勝手に思ってました。でも今回のことがあって、父を見ていたらそうじゃないんじゃないかって思うんです。母はこの機会に父の事務所を手伝ってくれないかって言ってました。でも、病院で父は麻痺が残るとしても左側だから利き手じゃなくて良かった、って言ってたんです。リハビリして早く復帰しなきゃ渡辺さんに悪いって。あ、共同経営者の人なんですけど、すごく意気込んで話してました。それ見て俺は、俺には出る幕なんてないと思ったんです。ていうか、最初から俺の場所なんてないんじゃないかって。俺が気安く後を継ごうなんて思えるような軽い場所じゃないんです、きっと。」
ハルはコーヒーをすすった。
「それに、俺もそんな自分の場所を作ってみたいと思うんです。年取っても倒れても、手放したくない自分の場所っていいもんだなって。だから、父の事務所は継ぎたくないんです。自分でいつか独立してやってみたいって、急に考えるようになりました。変ですよね、親が倒れたのに親の仕事を継がない決心をするってのも。」
「いやあ、いいんじゃないか。」シェフが笑って言った。
「なんだよ、俺には耳が痛い話だな。おやじの店手伝ってる俺にわざと言ってるだろ。」司が茶化す。
「いえ、違いますよ。俺、司さん店の味を守ってすげえなあって思ってるし。」
「ほんとかよ。」
「まだまだ俺には父にまかせてもらえるものなんてないってことですよ。」ハルはコーヒーを全部飲んでカップをソーサーの上に置いた。
「さてと、俺、千歳が戻ってくる前に部屋に帰ります。」ハルはシェフと司を交互に見て頭を下げた。「ごちそうさまでした。」
「またいつでも食べにおいで。」やさしく言うシェフを見て、ハルはこの人にどれだけ千歳が救われたかがわかる気がした。
エレベーターを降りて、もう慣れた廊下を歩いていきながら、千歳はバッグから鍵を取り出した。長居したわけじゃなかったのに、思ったより時間がかかってしまった。鍵穴に鍵を差し込んでドアを開けると、中が明るいので、千歳は足元を見ていた目をはっと上げた。昔はずっと、ドアを開けて真っ暗だと安心していた。部屋の電気が点いているということは父親がいるということだったからだ。だが、ハルの部屋に一緒に住むようになってから、明るい場所に帰ることがうれしいと思うようになった。ハルが実家に戻ったあとは一人だったから、今日久しぶりに点いている明かりに千歳は思わず声をあげた。
「ハル!帰ってきたの!」
「おう、ただいま。ていうか、おかえり。」
靴も脱ぎっぱなしで千歳はリビングに駆け込んだ。今、いてくれるのがうれしい。
「今日戻ってくるなんて言ってなかったのに。もう大丈夫なの?」
「ああ、なんかさ、」ハルはテーブルの上に置いてあったコーヒー豆の袋を指差した。「すげぇおいしいコーヒー飲みたいんじゃないかと思ってさ。」
いつものように元気に返事が返ってくると思っていたのに、千歳は黙ってハルを見つめて突っ立っていた。泣きたいのか、笑いたいのか、どっちとも取れる顔をして、くちびるを噛んでハルの目をずっと見ている。それから小さく笑って下を向いた。
「知ってる?」
「なに?」
「私もね、すっごいコーヒー飲みたくて、でも、」千歳は手に持っているコンビニのビニール袋をハルに向かって持ち上げた。「今日はたっぷりミルクとお砂糖入れようと思って、牛乳買ってきた。」
そういう千歳の顔はなんだかすごくうれしそうだった。
ハルも満面の笑みを浮かべた。「・・・・・・そっか。」
ハルが二つのカップにコーヒーを注ぐと、千歳がスプーンで砂糖を一杯ずつ入れ、それを両方ともかき回してから買ってきた牛乳をコーヒーに加えた。スプーンで混ぜたばかりのコーヒーの中に、牛乳がマーブル模様を作って渦を巻いていく。
ハルがカップを手に取り、千歳に向けて言った。「じゃあ、乾杯。」
「うん。乾杯。」
二人はカップを少しだけそっと合わせた。小さくカツンと音がした。
喉を下りていくコーヒーは甘くやわらかく体を暖めた。
