引っ越しがすんでしまうとずいぶん落ち着いた感じがしたが、千歳の荷物を運び入れると、ハルの部屋もごちゃごちゃしてきた。マンションといっても豪華なものではなく、階も三階までしかない建物で家賃も高くない。ただ築が古い分、他の物件よりは少し広めの間取りでハルはそれが気に入っていた。しかしいくら広めとはいえ、二人で住むとなると窮屈感がどうしても出てきてしまい、やはりもう少し広い部屋を早く見つけた方がいいだろうとハルは考えていた。だが、千歳は狭くなった部屋でも機嫌良く、何か憑き物が落ちたような生活ぶりで、そんな千歳を見るとハルは引っ越し物件を探すのが面倒くさく思えるくらいだった。ハルは最初、ここに千歳を連れてきたことにちょっと責任を感じてもいた。もちろん、あのまま放っておくことはできなかった。そして今は、連れてきたからには、千歳がなるべく普通に元気でいられる環境を作りたいと思うようになった。でも、普通ってなんだろう?俺の考える「普通」に合わせるかたちでいいんだろうか?
そんなことを考えながらなんとなく過ごして1ヶ月ほど経った頃、ハルの携帯に珍しく実家の母親から電話がかかってきた。電話自体が久しぶりだったし、母親はあまり携帯に電話をかけてこないので少し驚いた。かけてくるならいつも部屋の電話なのだ。ハルは携帯があるから部屋の電話を解約してしまおうと何度も考えたが、母親がいつもかけてくるので仕方なくそのままにしていたのだ。
千歳が仕事から戻ってくると、ハルが大きめのボストンバッグに荷物を詰めていた。
「なに?どこか行くの?出張?」
手を止めずにハルが振り向いた。
「いや、今日母さんから電話かかってきてさ。なんか、おやじ倒れたんだって。」
「そ、そうなの。」千歳はどうリアクションしていいのかわからなかった。こういう場面には出くわしたことがない。「大丈夫なの?」
「ああ、なんか命にかかわるとかじゃないらしいんだ。でも入院してるって言うから一応な、様子見に行って来るよ。」
「うん、わかった。心配だよね。大丈夫だといいね。」
「ああ、平気だと思うよ。それより、千歳、一人で大丈夫か?」
千歳はにっこり笑って椅子に座った。
「私は大丈夫だよ。今までも一人暮らししてたじゃん。」
「そうだよな。しばらく向こうから仕事に行くようになると思うけど、なるべくすぐ帰ってくるよ。」
「そういえば、実家ってどこなの?」
「逗子。」
「逗子。もしかして、お金持ち?」
「いや、土地が値上がりしてから移り住んだ金持ちじゃなくて、昔からそこが地元なんだよ。」
「へぇ~。」何が違うのかよくわからなかったが、千歳は何も言わなかった。
「電話するよ。」
「うん。」
千歳は荷物を詰めるハルをただ眺めた。それから五分くらいかかってハルは手際よく必要な物だけを入れ終えると、バッグを肩にかけ車のキーをつかみ、それから一瞬黙って千歳の顔を見つめた。
「じゃ、行ってくる。」
千歳も椅子から立ち上がってハルの顔を見つめ返した。
「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね。」
ハルはバッグがぶつからないように手で押さえながら、もう片方の腕を千歳の体にまわしてぎゅっと抱きしめ、キスをした。それから軽く手を振って部屋を出て行った。
次の日の朝、すぐにハルは千歳に電話をかけた。
母親の報告によれば、父親は脳卒中だった。いつもどおり仕事から戻ってきて食事をし、食べ終わって席を立った時に倒れたらしい。母親がいた目の前で倒れたのですぐに救急車を呼べたのが、後の症状の軽さにつながったと医者は言った。やはり早期発見と迅速な対処が一番のキーポイントだそうだ。それは素人のハルにもわかる。実際、ハルは病室に入って父親を見て安心すらした。やはり最悪の状況を覚悟して行ったのだが、父親は見た目もそんなにひどくはなく、麻痺も体の左側が少ししびれる程度だと本人が話した。しゃべり方も舌っ足らずな印象を与えはするが特有の不自由な感じまではなく、話をする時の顔つきもひきつれたりする程ではなかった。不幸中の幸いと言うべきだろう。父親は現役で設計事務所を経営しているので、他人から見ても年よりはずっと若く見えたし、体力もある。きっと回復も早いにちがいないと期待するかたわら、やはりもう親が倒れる年になったのだという、暗くて大きな波にのまれるような感覚が、病院の冷たい床から足をつたって這い上がってくる気がした。今回は病状も後遺症も比較的軽くて幸いだったが、これからだってどうなるかわからない。今回のことは将来を真面目に考える良い機会なのだろう。
「今日はどうするの。」病室から出て来たハルに、廊下で待っていた母親が心配そうに声をかけた。
「ああ、」ハルは自分よりもずっと小さくなった疲れ気味の母親を見て、ちょっとほったらかしすぎたかな、と罪悪感を覚えた。
「今日は泊まる準備してきたからうちで寝るよ。明日はそのまま仕事に行くから。もし父さんが大丈夫そうなら、ようすを見てマンションに戻る。」
「そう、わかったわ。じゃあ今日は泊まっていけるのね。よかった。シンジ、一足先に戻って家で待ってるのよ。」
「ああ、シンジ来てたんだ。」シンジに会うのは久しぶりだ。ハルは大学生になってからアパートで一人暮らしをしていたが、家を出てからもしばらくはシンジの方から遊びに来たりしていた。実家に住んでいる高校生の男の子には、兄貴の部屋は格好の息抜きの場所だったのだろう。しかし仕事を始めて今のマンションに引っ越してからはあまり顔を見せなくなった。シンジも大学生になってハルのように安アパートだが一人暮らしをするようになり、もう兄貴は必要ないみたいだった。別に仲が悪くなったわけではないが、自然と連絡を取らなくなっていた。
病院から家へ帰るタクシーの中で、ハルと母親は一言も口をきかなかった。ハルは黙っているつもりがあったわけじゃなく、母親が何か愚痴めいたものを言うだろうと思っていたのでそれに受け答えをするつもりだったのだが、いつまで待っても母親は何も言わなかった。普段はよくしゃべる母親が黙っているのはなんだか不気味にさえ思えた。もしかして父親の容態は実はもっと悪いんじゃないか。そんなことを思いながら気まずくて、外の景色を見ながら今頃千歳はなんの料理を作っているんだろうとぼんやり考えた。そうだ、実家から戻ったら、一度千歳がバイトしている洋食屋に食べに行ってみよう。千歳は厨房で働いているから表には出ないと言っていたが、別にかまわない。どんなメニューで、どんな味のものを出すのか、実際に食べてみたい。そしてふと、自分が全然父親のことを考えていないことに気が付いた。心配してないわけじゃない。でもどうしてだか、考えたくない。
実家に着くと、家に戻るのも久しぶりだったことを思い出した。子供の頃を思い出させる家のにおい。
シンジはハルの顔を見て「よっ。」と小さく言っただけで、またテレビに目をうつした。
「あのね。」口を開いたのは母親だった。
「お父さんだけどね、今の症状が良くなれば、すぐにリハビリの方に移れるんだって。」
「そう。良かったよ、本当に深刻じゃなくて。」
「でも、リハビリがどれくらいかかるのか、まだ全然わからないのよ。」
「いや、俺はもっと生死にかかわるような状況も覚悟してたからさ。そんなに早くリハビリに移行できるんなら、致命的じゃないってことだろ。」
「それはそうね。お医者様がとてもラッキーだったっておっしゃってたわ。麻痺も残るそうだけど、リハビリ次第では軽くてすむそうだから。」
ハルは冷蔵庫からいつも母親が作って常備してある麦茶を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。病院でやけに喉が渇いた。
「まあさ、俺なんかには脳卒中って言われても、脳梗塞とか脳内出血とかとの違いもわかんないしな。だから病名とかよりもさ、そういうこれからのことを言ってくれた方がわかりやすいよ。」
「事務所はどうしてるの?」シンジがテレビからくるりとこちらを向いた。
「渡辺さんがやってくれてるわ。」
「ま、そうだろうね。じゃあ、一人で大変なんじゃないの。」そう言うわりにはシンジは関心なさそうに見える。
渡辺さんは父が入社した時の同期で、二人でいつもいつか独立しようと話し、それを実現して共同経営者として今の設計事務所を立ち上げた人だ。本来なら父が倒れている間事務所を他の誰かに任せたら、金銭面や経営面での心配も普通はありそうなものだが、ハルは子供の頃から父親と一緒に働く渡辺さんを見てきて全面的に信用できた。もちろんいくら長年一緒に仕事をしてきても裏切る人はいるだろう。が、渡辺さんはそういう人種とは一番遠い所にいる人のように思えた。なによりも父と二人でやってきた、小さいながらも自分達の城である事務所を誇りに思っているのが伺えた。渡辺さんが仕切っているのなら、父の事務所は心配することはないだろう。
「でもさ、」ハルは落ち着きなく無駄に動きまわっている母親を呼び止めた。「ちょっとは座れば。でもさ、軽くてすんでラッキーだってわりには、母さんタクシーの中でもなんにもしゃべらなかったじゃん。他にもなんかあんの?」
「他にも何かってね、あなた。」母親はキッとハルの方に振り向き、下からすごい目つきで睨んだ目は赤く血走っていた。「あなたたちはいなかったからわからないでしょうけど、お母さん、大変だったのよ!急にお父さん黙ってしゃがみこんで、どうしたの、って隣に膝をついたらそのままゆっくり私によりかかるように倒れちゃったのよ。しかもそれっきり動かないじゃない!一人で、もうどうしようかと思ったわよ。倒れた時にどうしていいかなんてわからないし、電話で救急車呼んで来るまでの間がものすごく長かったわ!わかる?」
「わかった、わかった、わかったよ。大変だったよね。」
「もう、お母さんも寿命が縮んじゃうわよ。」母親は少し目に涙がにじんでいた。
ハルは地雷を踏んだので慌てて麦茶のコップを持ってシンジの座っているソファに自分も座り、テレビを見るフリをした。シンジが小さく「バーカ。」と言って笑った。
実家で寝泊りするのは正月以来で、そのせいかどうかはわからないが、ハルはなんだか妙な感じがした。そんなに久しぶりでもないのに、なんだかちっともくつろげないのだ。生まれて育った家なのに、イベントもないのにやってきて客のような居心地悪さと、すみずみまでよくわかっているなつかしさとがごちゃまぜになって、どうも落ち着かない。家を出てからも休みのたびには戻ってきたことがあるのに、どうして今回はこんなに変な感じがするのか、自分でも不思議だった。そしてその違和感は、頭の中で千歳のことばかり考えてしまっているからかもしれないとも思っていた。自分の今まで見てきた千歳のイメージとこの家があまりにもかけはなれていて馴染むことがなく、そのため千歳のことを考えている自分も異質なものの側に立っている気がするのだった。今までももちろん彼女がいたことはある。実家にも大層な紹介などではなく、遊びに連れてきたこともあった。しかし、千歳ほど自分自身がむき出しになって向き合っていると感じる相手はいなかった。千歳といると、ハプニングのスピードが早くてつい素のまま対応してしまい、結果最初からよくも悪くも自分を出したままやってきた。千歳に対してはええ格好しいをする暇もなかったのだ。そして今実家に来てみて、昔ここに住んでいた頃の自分と、最近の自分が違ってきていることが実感できた。
ハルは結局ずるずると実家にいた。父親の状況はそんなに急に変わるわけでもなく小康状態だ。だがこれ以上悪くはならなくても世話は必要で、母親は何かとあわただしく病院に通わなければならなかった。完全看護の病院であっても、家族のやることはたくさんあるものである。しかし普通に会社に行くハルがそれらを手伝えるわけでもなく、実家にいてもそこから会社に通い、帰ってきて母親の一日の報告を聞く日が続いた。シンジも大して変わらなかった。大学ももう終盤にさしかかり、卒業準備でゼミのレポート提出やらテストやら、留年するわけにはいかないだけに本当に忙しそうだった。これでは実家にいてもマンションにいても同じじゃないかと思い始めた四日目、いつものように千歳にメールをしたが、返事が返ってこなかった。