マメブロの小説 -2ページ目

マメブロの小説

こちらは小説です。実在の人物、団体名とは一切関係ありません。
「ブラックコーヒー」は①から⑭までで、完結です。

引っ越しがすんでしまうとずいぶん落ち着いた感じがしたが、千歳の荷物を運び入れると、ハルの部屋もごちゃごちゃしてきた。マンションといっても豪華なものではなく、階も三階までしかない建物で家賃も高くない。ただ築が古い分、他の物件よりは少し広めの間取りでハルはそれが気に入っていた。しかしいくら広めとはいえ、二人で住むとなると窮屈感がどうしても出てきてしまい、やはりもう少し広い部屋を早く見つけた方がいいだろうとハルは考えていた。だが、千歳は狭くなった部屋でも機嫌良く、何か憑き物が落ちたような生活ぶりで、そんな千歳を見るとハルは引っ越し物件を探すのが面倒くさく思えるくらいだった。ハルは最初、ここに千歳を連れてきたことにちょっと責任を感じてもいた。もちろん、あのまま放っておくことはできなかった。そして今は、連れてきたからには、千歳がなるべく普通に元気でいられる環境を作りたいと思うようになった。でも、普通ってなんだろう?俺の考える「普通」に合わせるかたちでいいんだろうか?


そんなことを考えながらなんとなく過ごして1ヶ月ほど経った頃、ハルの携帯に珍しく実家の母親から電話がかかってきた。電話自体が久しぶりだったし、母親はあまり携帯に電話をかけてこないので少し驚いた。かけてくるならいつも部屋の電話なのだ。ハルは携帯があるから部屋の電話を解約してしまおうと何度も考えたが、母親がいつもかけてくるので仕方なくそのままにしていたのだ。

千歳が仕事から戻ってくると、ハルが大きめのボストンバッグに荷物を詰めていた。
「なに?どこか行くの?出張?」
手を止めずにハルが振り向いた。
「いや、今日母さんから電話かかってきてさ。なんか、おやじ倒れたんだって。」
「そ、そうなの。」千歳はどうリアクションしていいのかわからなかった。こういう場面には出くわしたことがない。「大丈夫なの?」
「ああ、なんか命にかかわるとかじゃないらしいんだ。でも入院してるって言うから一応な、様子見に行って来るよ。」
「うん、わかった。心配だよね。大丈夫だといいね。」
「ああ、平気だと思うよ。それより、千歳、一人で大丈夫か?」
千歳はにっこり笑って椅子に座った。
「私は大丈夫だよ。今までも一人暮らししてたじゃん。」
「そうだよな。しばらく向こうから仕事に行くようになると思うけど、なるべくすぐ帰ってくるよ。」
「そういえば、実家ってどこなの?」
「逗子。」
「逗子。もしかして、お金持ち?」
「いや、土地が値上がりしてから移り住んだ金持ちじゃなくて、昔からそこが地元なんだよ。」
「へぇ~。」何が違うのかよくわからなかったが、千歳は何も言わなかった。
「電話するよ。」
「うん。」
千歳は荷物を詰めるハルをただ眺めた。それから五分くらいかかってハルは手際よく必要な物だけを入れ終えると、バッグを肩にかけ車のキーをつかみ、それから一瞬黙って千歳の顔を見つめた。
「じゃ、行ってくる。」
千歳も椅子から立ち上がってハルの顔を見つめ返した。
「うん。行ってらっしゃい。気をつけてね。」
ハルはバッグがぶつからないように手で押さえながら、もう片方の腕を千歳の体にまわしてぎゅっと抱きしめ、キスをした。それから軽く手を振って部屋を出て行った。


次の日の朝、すぐにハルは千歳に電話をかけた。
母親の報告によれば、父親は脳卒中だった。いつもどおり仕事から戻ってきて食事をし、食べ終わって席を立った時に倒れたらしい。母親がいた目の前で倒れたのですぐに救急車を呼べたのが、後の症状の軽さにつながったと医者は言った。やはり早期発見と迅速な対処が一番のキーポイントだそうだ。それは素人のハルにもわかる。実際、ハルは病室に入って父親を見て安心すらした。やはり最悪の状況を覚悟して行ったのだが、父親は見た目もそんなにひどくはなく、麻痺も体の左側が少ししびれる程度だと本人が話した。しゃべり方も舌っ足らずな印象を与えはするが特有の不自由な感じまではなく、話をする時の顔つきもひきつれたりする程ではなかった。不幸中の幸いと言うべきだろう。父親は現役で設計事務所を経営しているので、他人から見ても年よりはずっと若く見えたし、体力もある。きっと回復も早いにちがいないと期待するかたわら、やはりもう親が倒れる年になったのだという、暗くて大きな波にのまれるような感覚が、病院の冷たい床から足をつたって這い上がってくる気がした。今回は病状も後遺症も比較的軽くて幸いだったが、これからだってどうなるかわからない。今回のことは将来を真面目に考える良い機会なのだろう。

「今日はどうするの。」病室から出て来たハルに、廊下で待っていた母親が心配そうに声をかけた。
「ああ、」ハルは自分よりもずっと小さくなった疲れ気味の母親を見て、ちょっとほったらかしすぎたかな、と罪悪感を覚えた。
「今日は泊まる準備してきたからうちで寝るよ。明日はそのまま仕事に行くから。もし父さんが大丈夫そうなら、ようすを見てマンションに戻る。」
「そう、わかったわ。じゃあ今日は泊まっていけるのね。よかった。シンジ、一足先に戻って家で待ってるのよ。」
「ああ、シンジ来てたんだ。」シンジに会うのは久しぶりだ。ハルは大学生になってからアパートで一人暮らしをしていたが、家を出てからもしばらくはシンジの方から遊びに来たりしていた。実家に住んでいる高校生の男の子には、兄貴の部屋は格好の息抜きの場所だったのだろう。しかし仕事を始めて今のマンションに引っ越してからはあまり顔を見せなくなった。シンジも大学生になってハルのように安アパートだが一人暮らしをするようになり、もう兄貴は必要ないみたいだった。別に仲が悪くなったわけではないが、自然と連絡を取らなくなっていた。

病院から家へ帰るタクシーの中で、ハルと母親は一言も口をきかなかった。ハルは黙っているつもりがあったわけじゃなく、母親が何か愚痴めいたものを言うだろうと思っていたのでそれに受け答えをするつもりだったのだが、いつまで待っても母親は何も言わなかった。普段はよくしゃべる母親が黙っているのはなんだか不気味にさえ思えた。もしかして父親の容態は実はもっと悪いんじゃないか。そんなことを思いながら気まずくて、外の景色を見ながら今頃千歳はなんの料理を作っているんだろうとぼんやり考えた。そうだ、実家から戻ったら、一度千歳がバイトしている洋食屋に食べに行ってみよう。千歳は厨房で働いているから表には出ないと言っていたが、別にかまわない。どんなメニューで、どんな味のものを出すのか、実際に食べてみたい。そしてふと、自分が全然父親のことを考えていないことに気が付いた。心配してないわけじゃない。でもどうしてだか、考えたくない。

実家に着くと、家に戻るのも久しぶりだったことを思い出した。子供の頃を思い出させる家のにおい。
シンジはハルの顔を見て「よっ。」と小さく言っただけで、またテレビに目をうつした。
「あのね。」口を開いたのは母親だった。
「お父さんだけどね、今の症状が良くなれば、すぐにリハビリの方に移れるんだって。」
「そう。良かったよ、本当に深刻じゃなくて。」
「でも、リハビリがどれくらいかかるのか、まだ全然わからないのよ。」
「いや、俺はもっと生死にかかわるような状況も覚悟してたからさ。そんなに早くリハビリに移行できるんなら、致命的じゃないってことだろ。」
「それはそうね。お医者様がとてもラッキーだったっておっしゃってたわ。麻痺も残るそうだけど、リハビリ次第では軽くてすむそうだから。」
ハルは冷蔵庫からいつも母親が作って常備してある麦茶を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。病院でやけに喉が渇いた。
「まあさ、俺なんかには脳卒中って言われても、脳梗塞とか脳内出血とかとの違いもわかんないしな。だから病名とかよりもさ、そういうこれからのことを言ってくれた方がわかりやすいよ。」
「事務所はどうしてるの?」シンジがテレビからくるりとこちらを向いた。
「渡辺さんがやってくれてるわ。」
「ま、そうだろうね。じゃあ、一人で大変なんじゃないの。」そう言うわりにはシンジは関心なさそうに見える。

渡辺さんは父が入社した時の同期で、二人でいつもいつか独立しようと話し、それを実現して共同経営者として今の設計事務所を立ち上げた人だ。本来なら父が倒れている間事務所を他の誰かに任せたら、金銭面や経営面での心配も普通はありそうなものだが、ハルは子供の頃から父親と一緒に働く渡辺さんを見てきて全面的に信用できた。もちろんいくら長年一緒に仕事をしてきても裏切る人はいるだろう。が、渡辺さんはそういう人種とは一番遠い所にいる人のように思えた。なによりも父と二人でやってきた、小さいながらも自分達の城である事務所を誇りに思っているのが伺えた。渡辺さんが仕切っているのなら、父の事務所は心配することはないだろう。

「でもさ、」ハルは落ち着きなく無駄に動きまわっている母親を呼び止めた。「ちょっとは座れば。でもさ、軽くてすんでラッキーだってわりには、母さんタクシーの中でもなんにもしゃべらなかったじゃん。他にもなんかあんの?」
「他にも何かってね、あなた。」母親はキッとハルの方に振り向き、下からすごい目つきで睨んだ目は赤く血走っていた。「あなたたちはいなかったからわからないでしょうけど、お母さん、大変だったのよ!急にお父さん黙ってしゃがみこんで、どうしたの、って隣に膝をついたらそのままゆっくり私によりかかるように倒れちゃったのよ。しかもそれっきり動かないじゃない!一人で、もうどうしようかと思ったわよ。倒れた時にどうしていいかなんてわからないし、電話で救急車呼んで来るまでの間がものすごく長かったわ!わかる?」
「わかった、わかった、わかったよ。大変だったよね。」
「もう、お母さんも寿命が縮んじゃうわよ。」母親は少し目に涙がにじんでいた。
ハルは地雷を踏んだので慌てて麦茶のコップを持ってシンジの座っているソファに自分も座り、テレビを見るフリをした。シンジが小さく「バーカ。」と言って笑った。

実家で寝泊りするのは正月以来で、そのせいかどうかはわからないが、ハルはなんだか妙な感じがした。そんなに久しぶりでもないのに、なんだかちっともくつろげないのだ。生まれて育った家なのに、イベントもないのにやってきて客のような居心地悪さと、すみずみまでよくわかっているなつかしさとがごちゃまぜになって、どうも落ち着かない。家を出てからも休みのたびには戻ってきたことがあるのに、どうして今回はこんなに変な感じがするのか、自分でも不思議だった。そしてその違和感は、頭の中で千歳のことばかり考えてしまっているからかもしれないとも思っていた。自分の今まで見てきた千歳のイメージとこの家があまりにもかけはなれていて馴染むことがなく、そのため千歳のことを考えている自分も異質なものの側に立っている気がするのだった。今までももちろん彼女がいたことはある。実家にも大層な紹介などではなく、遊びに連れてきたこともあった。しかし、千歳ほど自分自身がむき出しになって向き合っていると感じる相手はいなかった。千歳といると、ハプニングのスピードが早くてつい素のまま対応してしまい、結果最初からよくも悪くも自分を出したままやってきた。千歳に対してはええ格好しいをする暇もなかったのだ。そして今実家に来てみて、昔ここに住んでいた頃の自分と、最近の自分が違ってきていることが実感できた。

ハルは結局ずるずると実家にいた。父親の状況はそんなに急に変わるわけでもなく小康状態だ。だがこれ以上悪くはならなくても世話は必要で、母親は何かとあわただしく病院に通わなければならなかった。完全看護の病院であっても、家族のやることはたくさんあるものである。しかし普通に会社に行くハルがそれらを手伝えるわけでもなく、実家にいてもそこから会社に通い、帰ってきて母親の一日の報告を聞く日が続いた。シンジも大して変わらなかった。大学ももう終盤にさしかかり、卒業準備でゼミのレポート提出やらテストやら、留年するわけにはいかないだけに本当に忙しそうだった。これでは実家にいてもマンションにいても同じじゃないかと思い始めた四日目、いつものように千歳にメールをしたが、返事が返ってこなかった。

当日は遠足に行きたくなるくらいにきれいに晴れて、アパートに向かって走る軽トラックは映画のワンシーンみたいだった。ハルが運転するトラックに千歳が乗り、山口と司と文乃は現地集合だ。ハルのマンションからさほど遠くはないのですぐに千歳のアパートが見えてくると、千歳は誰かが部屋の前に立っているのに気がついた。集合時間より早めに着いてしまいそうだと思っていたのに、誰がこんなに早く到着しているんだろうと思い、目を凝らして見ていたが、どれだけ近づいてもその人影は見慣れない誰かのままだった。

アパートの目の前の車道にひとまずトラックを停め、千歳とハルは車から降りた。ちょうど千歳の部屋のドアの前に見知らぬ男が立ってこちらを見ている。
「お父さんいないみたいだね。」千歳は小声でハルに耳打ちした。
「うーん・・・。借金取りかな?」二人とも視線はその男に向けたままで、ハルも小声で千歳に言った。
「それにしちゃ、気が弱そうだよね。」千歳が言い終わらるか終わらないかのうちに、その男が口を開いた。
「あの、」言ってから自分でごくりとつばを飲み込んで、また続けた。「どなたですか?」
「どなたって・・・。」千歳は嫌な予感がよぎるのを無視できなかった。また何か面倒臭そうなことになりそうだ。「ここの部屋の住人ですけど。」
すると彼はずいぶん驚いた様子で小さく「えっ。」と叫んだ。
「あなたはどういう・・・」千歳が聞こうとすると、さえぎるようにまたその男が聞いた。
「ここって、この部屋ですよね?」ドアを指す。
「ええ、そうです。まあ住人ていっても、今これから引っ越しするんですけど。」
「引っ越し?引っ越しって・・・じゃあ藤さんはどこに?」
「は?富士山?」千歳はまったく話が見えなかった。
「そうです、僕、藤さんと一緒にちょっとある企画をしていて、それで藤さんを探しているんです。企画の途中なのに藤さんがいなくなってしまったんですよ。このアパートが藤さんの部屋だったんですけど。」
「ちょ、ちょっと待って、そのフジさんって山の富士山じゃないんだ?なに、人の名前?」
「ええ、ここが自分の部屋だからって僕も紹介されてお邪魔したこともあるんですよ。なのに、あれから何回来ても留守みたいで・・・。」

千歳とハルにはなんとなく見えてきた。きっと千歳がいない間に父親が適当なことを言ってこの部屋を使っていたに違いない。フジさんと言っているのは多分父親がこの男にそう名乗っていたのだろう。でもこの男が部屋の前でずっと待っているということは、何かまずいことがあって、父親は逃げているに違いない。それなら部屋の中にはもういないだろう。
「あ、すいません、じゃあちょっと部屋の中で話聞かせてください。ここで三人で突っ立ってるのもなんですから。」千歳は鍵をバッグから取り出してドアを開けた。千歳のすぐ後にハルが続いて部屋に入り、一番最後に遠慮がちに男が入ってきた。中をキョロキョロしながら見回している。

中はさほど散らかっているわけではなかった。父親はこの男に自分の部屋だと言っていたらしいが、それもあってわざとなるべく汚さないようにしていたのだろう。何かたくらみがあって使おうとしていたに違いない。千歳は詳しく話を聞き出そうと思っていた。

低いテーブルの周りに座布団を敷いて座り、正面から男の顔を覗き込んだ。
「で、そのフジさんってなんて言ってたんですか?」
「いやぁ・・・・・・。」男は始め言いにくそうに下を向いていたが、自分が話さなければどうにもならないとあきらめたのか、ポツポツ説明し始めた。

「僕はレンタルビデオ屋をやっています。大手のチェーン店みたいなのとは違って、個人営業の店です。昔は父親が写真店をやっていたんですが、デジカメが出てくるにつれて写真店に現像を頼む人も減ったので、僕が店を継ぐ時にレンタルビデオ屋を始めたんです。レンタルビデオでは、もちろんどこの店でもアダルトを置いてあります。大切な人気ジャンルです。やっぱりアダルトはレンタルするのが一番手軽ですからね。で、うちはお客さんが借りやすいようにアダルトコーナーの中に別のレジがあって、他のお客様に気兼ねすることなく、アダルトだけそこで会計できるようにしてあるんです。ある日、そのアダルトコーナーのレジに藤さんが来て、僕に聞きたいことがあると言いました。」
「その時、自分の名前をフジって言ったの?」千歳が話をさえ切った。
「あ、はい。藤タツヤって言いました。」
「はあ?あなた、ビデオ屋やってて、藤タツヤって名乗るオッサンをなんとも思わなかったの?」
「ええ、思いましたよ。同姓同名っているんだなあって。」
「いや、それって偽名でしょ、普通。」ハルも耐え切れず突っ込みを入れた。
「あっ、偽名ですか?いや、そうか・・・。」その男は本当に今気がついたという顔をした。
「ねえ、あなた今まで他にもだまされてるでしょ。ま、いいや、でその藤タツヤはなんて言ったの?」
「え、それで藤さんはですね、オリジナルはないかと聞いたんです。」
「オリジナル?」
「はい、オリジナルです。つまり、まあ自分達で撮影したビデオですね。」
「アダルトの?」
「ええ。やっている所もなくはないんですよ。もちろん大っぴらに店に並べるわけにはいきませんけどね。」
「どうして?」自分の店だったら自分で撮ったビデオを置いても文句を言う人はいないんじゃないんだろうか、と千歳は不思議に思った。内容のおもしろさは別にして。
「そりゃ、違法だからですよ。」
「えっ、いけないの?」
「だって、自主撮影だからモザイクなしじゃないですか。」
「はあー・・・・・・なるほど・・・。」やっと話が飲み込めてきた。大体、千歳はアダルトビデオをレンタルショップで借りたことがないし、システム自体をあまり理解していない部分があった。しかしここまで聞いてやっとわかってきた。大手のチェーン店でない個人の店だからこそ、ある程度の自由がきく。規模は小さい店だが、そうやってちょっと裏家業をすることによって固定客を掴んでいる店もあるのだろう。そして父親はそのことを見越して、この店長に違法ビデオは作ってないのかと聞いたのだろう。

「僕の商売仲間で自主撮影ビデオをこっそりレンタルしている人もいます。でも僕はやったことなかったので、うちにはないと言いました。すると、藤さんは簡単だしいい商売になるから一緒にやってみないかと言ったんです。前にもやったことあるからやり方はわかっているし、言うとおりにやればいいって。」
「ふーん。それで?」このへんから千歳は自分の目がきつくなるのがわかった。あの父親は本当に相変わらずだ。
「カメラは普通のビデオカメラでいいって言ってました。親が子供の運動会を撮影するような普通のやつです。それは僕も持っていましたから、何の問題もありません。次に、出演してくれる女の子を探しに行こうと言われて、一緒に出会い系に電話しました。電話は藤さんがしゃべって、最初はなんてことない世間話をしてました。それで見込みのありそうな、明るくて細かいことにこだわらず、金額を言えばケロッと協力してくれそうな女の子だなと思ったら撮影の話をしました。10人くらい話してからでしょうか、一人、会ってもいいという女の子が出てきたんです。」男は淡々と話を続けた。

「僕達は渋谷で待ち合わせしました。彼女はサユリさんと言って、もちろん本当の名前かどうかは知りませんが、そんなのはどうでも良かったんです。僕達も説明をしました。モザイクなしならお客様はなんでも喜ぶから、何も男と本番をやらなくてもいいと藤さんが言ったんです。一人でやってるところを撮影させてくれればオーケーだって。サユリさんはそれで承諾して、まず僕達は彼女の顔だけを僕の携帯で撮って名前を登録しました。じゃないとこの後また候補者が現れたらごちゃごちゃになっちゃいますからね。リスト作りです。僕達はサユリさんの顔写真を撮ってから、そこに名前と連絡先の携帯番号を入力しました。こちらの携帯番号と店の電話番号も教えました。その方が信用してくれると思ったんです。」そこで男は少しだまって居住まいを正した。汗をかき、目はおどおどとおびえている。
「でもそれが失敗でした。次の日、サユリさんから、僕の携帯に連絡が来ました。その日に会いたいと言うので藤さんも一緒に会うことにしたんです。撮影は藤さんが自分の部屋、つまりここを使っていいと言ってくれていたので、ここに来てくれるように頼みました。藤さんはこの部屋は撮影用に借りてあるんだって言ってました。」
「はあー?撮影用ってあの大ウソつき!私の部屋じゃん!」
「そうだったんですね。中に入ってみたら女の子らしい部屋だなと思ったので、本当に撮影用に常備してあるんだと思いました。」
「あのクソ親父~。」
「でも問題はここからです。」男はぐぐっと千歳の目をのぞきこんだ。
「一人じゃなかったんですよ。」
「え?」
「サユリさんは一人で来たんじゃなくて、男の人を一緒に連れて来たんです。」
コンコン。突然ドアを叩く音がした。そしてすぐに文乃が呼んだ。「ちょっと、中にいるの?待ち合わせ、外じゃなかったっけ?」
千歳は店長に手で押さえるジェスチャーをして話を中断させてから、玄関に走った。千歳がドアノブに手をかけようとした直前にドアが開いて文乃が覗き込んだ。「なんだ、いるんじゃない。お父さん、いないの?」
「うん、いないいない。それより中入って。今盛り上がってるところなんだから。」急いで靴を脱いでいる文乃のそでを千歳が引っ張ると、文乃の後ろから司が芋づる式に顔を出した。「あの、俺も外で待ってたんだけど・・・。」
「なに、もう、早く早く。」千歳はさっさと中に入ってさっきまで自分が座っていた座布団に戻った。文乃が後に続いて千歳の隣に座り、司もわけがわからないままとにかく上がることにして靴を脱ぎ、二人を追ってテーブルについた。
「いきなりギャラリーが増えましたね。」男はもう乾いてしまった汗を拭くしぐさをして、ふうと息を吐いた。「こんなに取り囲まれるとどうも話づらいです。」
「何言ってんの、話しづらいです、じゃないよ。どこまでいったっけ?」
「やっぱり続けますか。」
「当たり前でしょ。ここでやめてどうすんのよ。」
「そ、それはそうですね。では、えー、そのサユリさんですが、男の人と一緒に来たんです。」
「あー、そうだった、そうだったね。」
「はい、そして、その男の人というのが、どう見てもあの、まあそのスジの人でした。20代後半でしょうか。背が高くて短く刈り込んだ髪の生え際が、勢い良くM型の剃りこみになってました。最初に話した時は結構乗り気だったサユリさんが、この日は全然違って弱々しく、私達のことをこの二人よ、と指差したんです。するとそのM型はまるでドラマか映画みたいに藤さんの胸元を掴んですごんでこう言ったんです。"お前ら、俺の女を使ってビデオ撮ろうとしてるんだってな。俺になんの断りもねえどころか、もう早速写真は撮ったそうじゃねえか。ちょっとその撮影代だけでも払ってもらわねえとあんまり勝手なことされると困るんだよな。"」
「わー、ヒモだ!ヒモのヤクザだ!」文乃がおもしろそうに茶々を入れる。
「え、ヒモは違うよ、美人局っていうんじゃないの?」ハルも参加する。
「でもさ、撮影って携帯で顔撮っただけなんでしょ?」千歳が店長に戻す。
「はい、たった一枚携帯で撮っただけなんですけど、そんなの関係ないんですよね。どう説明しても、とにかく撮影代をよこせって言うんですよ。」
「つまりは、ユスられ始めたってことだ。で、いくらって言ってきたの?」ハルが真面目な表情になった。
「100万です。」
「出た~もう~また100万!」
「あんたたちのやろうとしてたことが違法だからな、相手も痛いとこついてくるもんだな。」途中から参加したわりには司もしっかり状況を把握している。
「はい、足元を見られてます。でも誰にも相談できません。そうこうしてるうちに藤さんが消えてしまいました。」
「それまではどうやって連絡取ってたの?」
「連絡を取ってたというか、藤さんが毎日店に来てくれてましたし、ここの部屋も知っていたので特に連絡先を聞いたわけではなかったんです。でも急に店に来なくなってしまったのでここに来たんですけど、まったく姿が見えません。サユリさんはこの部屋も私の店も知っているので、いつあのM型がまた来るかと思うと生きた心地がしません。もちろん急に100万なんて払えないですし。」
「あきれた。」テーブルに肘をつき、下を向いたまま千歳はものすごくはっきり言葉を吐き出した。「今度ばかりはほんっとうにあきれた。聞いてりゃ、やけに途中までは段取りがいいからきっと今までにもこの手で小金を稼いだことあんのよ、あいつ。だから今回も自信満々でやろうとしたんだわ。バッカみたい。チンピラが出てきて正解よ。それでビビッて逃げたのよ。きっと当分ここには戻って来ないでしょ。私も引っ越しするし、ちょうど良かった。これで縁が切れるわ。」
「あの、」男が千歳を覗き込みながら小さく聞いた。「あなたは藤さんとはどういう・・・。」
「娘よ。あいつの娘。大体、あいつフジさんじゃないからね。本城っていうの。あんたがだまされたのは本城昭一。残念でした。」
「そ、そんな、じゃあ100万とM型はどうしたらいいんですか?」
「知らないわよ、そんなの。私、ぜったいそんな責任取りたくないからね。自分でもう少し強そうなヤクザでも探してきて50万くらい渡してそのM型を追い払ってもらえば。」
「でも、ヤクザにそんな貸し作ったら今度はそこからゆすられそうだよねえ。」文乃が他人事と思って笑っている。
「ゆすられるのも営業できなくなるのも、困るんです。」
「だから、知らないって。悪いけど、もう帰ってもらえる?これから荷物まとめなきゃならないから。」千歳は冷たくあしらって席を立った。その雰囲気でみんなもなんとなく立ち上がり、ハルはダンボール箱をトラックから降ろすために外に出た。外では後から来た山口が気付かずにぼんやり呆けていた。
「あれ、先輩、中にいたんですか。」
「おう、さっ、ちゃっちゃと始めるぞ。」

スーパーやドラッグストアでもらってきたダンボール箱に、千歳と文乃が荷物をまとめて入れ、ガムテープで運ぶ間だけこぼれないように簡単に封をしてから、油性ペンで何を入れたか中身を表に書き込んだ。ハル、山口、司はクリアケースなんかに入れてある物は出さずにケースごとどんどんトラックに運んでいった。テーブルや鏡やテレビはプチプチで梱包して積み、その間に千歳と文乃は食器を服やタオルにくるんでまた箱に入れていった。その間、ビデオ屋店長は心配そうな目をしたまま同じ位置に座ってみんなの作業をじっと眺めていた。

千歳の言うとおり、荷物はさほど多くはなく、一通りの家具、身の回りのもので終わりだった。冷蔵庫や洗濯機といった大きなものでハルとダブるものは、あらかじめネットオークションで買い手を決めてあり、一旦はハルの部屋に運ぶことになるがすぐに取りに来てもらうことになっている。若い女の子の引越しにしてはさっぱりとしたものだった。

トラックに積み終わりロープをかけ、あとはハルの部屋に出発するだけになっても、ビデオ屋店長はなごり惜しそうにみんなが車に乗り込むようすを見ていた。ハルと千歳はトラックに、文乃と司は山口の車に乗ってハルのマンションまで行く。
乗り込んだ助手席の窓から千歳は顔を出してビデオ屋店長に言い放った。
「あとつけて来ないでよ。」
「車じゃないのに、つけられませんよ。」
「それならいいけど。じゃあね。」
ハルがトラックを出し、そのあとに山口の車が続いて千歳のアパートを後にした。朝来た時と同じシルエットが、またドアの前で立ち尽くしたまま遠く小さくなっていった。


しばらくトラックの中は沈黙のままだった。ハルは何かを言おうと思うのだが、さすがにさっきの店長の話にびっくりしていた。ハルの知り合いでもヤクザにゆすられているやつはまだいない。金額より、誰にゆすられているかが問題だ。一度目をつけられたらきっと100万だけじゃすまないだろう。ビデオ屋の命も短いかもしれない。
「つぶれちゃえばいいんだよ。」
突然の千歳の声にハルは驚いた。
「なに、俺の考え読み取ったりした?」
「あはは。あと、コイツ荷物少ない女だなーって思ってたでしょ。」
「うーん、荷物っていうか、服が少ないなとは思ったけど。」
「そう?」
「だって、女の子ってシーズンごとに旬の流行ってる服買うじゃん。」
「あー、あれ、もったいないよねー。だって次の年には流行遅れになってて恥ずかしくて着られないでしょ。だから最初から買わないんだ。でも、お店で売ってるのがそういうのばっかりになるから流行じゃないのを買うのも難しいんだよね。って、服ってほんと買ってないけど。」
「まあ、服に執着ないのはわかるよ。だっていきなり俺のトランクスはいてるもんなぁ。はっきり言って、かなり珍しいよ。」
「ちがうの、あれは。」恥ずかしそうに大声を出しているが、だいぶさっきの少し落ち込んだ感じが取れてきたように見える。平気そうな顔をしていても、荷物をまとめていた時かなり頭にきていたのが手に取るように伝わってきていた。千歳にもさっきの父親の話はショックだっただろう。
「あの時は結構ヘコんでたの。よくよく考える余裕がなかったんだってば。」
「うん、わかるよ。ありゃきついよな。」赤になった信号をみつめながらハルは言った。「俺、あの時一緒にいて良かったってほんとに思ってるよ。じゃなきゃ千歳、おやじさんに殺されてたかもしれないと思うし、そうじゃなくても確実に今回の自作アダルト100万に巻き込まれてるよな。」
それを聞いて千歳はそうっと運転しているハルの太ももの上に自分の手を乗せた。
「ありがとね。」信号が青になって、ハルがアクセルをゆっくり踏んだ。「私、今の借金全部払い終わったら、もうお父さんとはきっぱり何の関係もなくなる。もういらない。」そう言うと、ハルの目を見て、にっこり笑った。
「そっか。」ハルも笑った。

ハルが少し窓を開けると、冷たいけれども気持ちいい風が吹き込んできた。まだ二人ともコートを着ているが、もう冬は通り過ぎて、春になろうとしていた。だいぶ暗くなってきた景色が車の外を流れ、ライトが点き始めた町並みがどんどん後ろへ流れていった。

千歳は、久しぶりにリラックスしていた。仕事をしながら、落ち着いて昨日の夜のことを思い返していた。気持ちがゆったりして、微熱くらいに暖めた丸い石をお腹の中に入れているような、ちょうど良い重さのある安定感を感じていた。
「ちーちゃん、大変だったんだって?」裏口から厨房に入ってきた司がエプロンを後ろ手に結わきながら千歳に声をかけた。没頭してトマトを切っていた千歳は突然の声にびっくりした。
「ああ、司さん。びっくりした。」
司はこの店の店長兼シェフの息子で、千歳が働き始めた次の年から店を手伝っている。司が調理師免許を取るまでは店長と奥さんが夫婦二人で厨房に入り、娘がウェイトレスと会計をしていが、司が厨房に入るようになってからは奥さんがやるようになった。娘は今は結婚して兵庫県にいる。本当に家族でやってきたファミリービジネスの小さなレストランなのだ。
「おわ、その顔!本当に派手にやられたなあ。」
「でも、もうすっかり腫れは引きましたから。」
「ちーちゃんさぁ、何度も言うようだけど、引越したら?あそこに住んでる限り、おやじさん何度でも来るでしょ。」司は半ばあきらめで、今まで何度提案しても千歳が聞く耳持たなかったことを、駄目モトで再度言ってみた。しかし予想に反した答えが返ってくるとは思ってもいなかった。
「そうなんですよね。私ももうさすがに引っ越そうかと思って。」
「えええ~!?ほんとに言ってんの?今まで引っ越す資金がないとかなんとか言って動かなかったのに?」
「ま、それもそうなんですけど、ね。」
「いやあ、でも絶対あのアパート出た方がいいよ。引越し先をおやじさんにわからないようにしてさ。」
「そうですよね。」千歳は笑ってまた下を向いて残りのトマトを切り始めた。
「ふうん。」司はそんな千歳を見て、ちょっと様子が変わったなと思ったが、あえてあまり聞かないことにして、自分もさっさと支度にとりかかった。
以前から千歳はいつも黙って仕事をするタイプだった。忙しくなるランチとディナータイムにはとにかく手を動かすだけになるし、その合間の休憩時間でも自分から自分のことをべらべらしゃべる方ではなかった。でも、静かながらもいつも楽しそうに仕事をしている感じが伝わってきていた。

冷蔵庫から仕込みをしてある食材を取り出して鍋に向かいながら、司はさり気なく話を続けた。
「でもなんでさぁ、ちーちゃん急に引っ越す気になったの?」
「うん、なんていうか、いいなと思う人ができて。」
「へ、へぇー!相変わらず、ストレートな物言いだね。」司は思いっきり手を止めて千歳の方を見た。
「オブラートに包んでしゃべっても意味ないですよ。」
「いや、包むのもいいもんだと思うけどさぁ。ま、良かったじゃん。彼氏できたんだ。」
「え?彼氏じゃないですよ。まだちゃんと付き合うとかって話をしたわけじゃないし。」
「え~そうなの?付き合ってるんじゃないの?一体どこで知り合ったの?」
「合コン。」
「はあ~!?合コン!?それって大丈夫なの?いつ会ったの?その合コンっていつ?」
「この前のここの定休日です。」
「・・・・・・。」司はため息をついた。「ねえ、ちーちゃんそれってだまされたりしてない?ちゃんとした男なんだろうね。」
「毎日仕事に行ってますよ。」
「うん、まぁ、そりゃ大事だよね。」
野菜を切る音が続く。
「で、いつ頃引っ越すつもりなの?」
「今月末です。」
「えっ?もう決めてんの?」
「はい、大家さんには話しました。」

千歳はすでに大家に電話して、なるべく早く部屋から引っ越したいということを伝えてあった。普通は退室する一ヶ月前には大家に通知しなければならないのだろうが、月が変わったばかりというのもあって、今月末に出ればオーケーということにしてくれた。いつも色々親切にしてくれるやさしいおばあちゃんの大家さんだ。引っ越すことを残念がってくれたが、何も聞かずに了承してくれたのだ。

「じゃあさ、引越し、手伝いに行ってやるよ。どうせうちの定休日にやるんだろ?」司はちょっとその合コンで会ったという男を見てみたくなった。
「え、いいんですか?確かにバイト休みの日じゃないとできないですけど。司さんだって休みじゃないですか。引越しの手伝いなんかでつぶしちゃったらもったいないですよ。」
「いいよいいよ、べつに。月末の定休日に今のところ用事ないしさ。」
「じゃあ・・・お言葉に甘えて、お願いします。」千歳はハルと話していたことを考えて、司の申し出を受けることにした。

取り合えず、生活を変えるために引越しをしようとハルが強く押して、千歳もやっと本気になった。確かにあのアパートにいる間は父親との縁は切れないのはわかっていた。でも次の一歩をどこに出していいのかがわからなかった。単にハルの部屋に来るのでは転がり込むようでちょっとためらいがあった。でも千歳を動かした一番の言葉は、ハルが二人で新しい部屋に引っ越そうと言ってくれたことだった。まず部屋を出るためには一旦ハルの部屋に来るが、そのあと一緒に違う部屋を探そう言ってくれた。それが千歳に動く安心感を与えた。ただ単にハルの部屋に居候するのはなんとなく気が向かなかったのだ。でも、二人で一緒に部屋を探すのなら、いいかもしれないと思えた。

引越しは、大目の人数で行けばもし父親がいてもさすがにみんなの前では何もしないだろうということで、なるべくたくさん人を集めて自分達でやろうとハルが提案した。千歳もそんなに荷物はないから、業者に頼むくらいならその分節約したいと考えていた。ハルの言う通り、友達や人がいる前では父親も殴ったりはしないだろう。

引っ越しの日は千歳のバイト先の定休日にすることにしたのだが、週末ではないのでハルが休みを取ることにした。休みを取っても代わりにどこかで事務所に出ればなんとかなるので、ハルの方が融通が利く。人数かせぎのためにハルは、千歳と出会った合コンに一緒に行った山口にも参加してもらうように頼んだ。山口もヒマな男ですぐに手伝うことに同意してくれた。あとは千歳が文乃を誘って来てもらうように頼み、バイト先の司も合わせて、ハルと千歳を含めた五人で引越しをすることになった。車はハルが前日に友人から軽トラックを借りてくることにした。

引っ越しの段取りがすむと、後は待つだけだった。毎朝ハルが仕事に出かけるのを見送り、のんびりしてから自分もバイトに出かけ、バイトが終わって戻ってくると大抵はハルが先に帰っていて何か夕食を作っていてくれた。簡単な日もあれば、ちょっと手の込んだ料理の日もあった。千歳にとってはとても平和で今までにない新鮮な日々だった。男と付き合ったことが一度もないわけではないが、ハルとの暮らしには千歳が味わったことのなかった穏やかなものがあった。父親のことはもうすっかり慣れてなんとも思っていなかったつもりだったが、父親がいつ戻ってくるかを気にしないでいい生活がこんなにほっとするものだと、千歳はあらためて実感していた。こんなことならなんでもっと早く引っ越しを考えなかったんだろうとまで思うようになった。すっかり引っ越すつもりになると、今度はどうして今まであのアパートに居続けたのかが不思議なくらいだった。