西日本ジェイアールバス 園福線廃止~5 | 菅沼天虎の紙屑談義

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交通機関を利用する為の切符・・・一般の方々にとっては使い終わってしまえばタダの紙屑で、最後は係員に渡して終わりになるモノです。
そんな紙屑に夢中になってしまった大馬鹿モノの戯言にお付き合い下されば幸いです。

西日本ジェイアールバス「園福線」廃止の5回目で、昨日のエントリでご紹介いたしました「須知(しゅうち)」は園福線廃止の時点では既にバス停として存在していなかったのですが、別に「新須知(しんしゅうち)」バス停が廃止まで設置されておりました。

 

「新須知」は国鉄時代には出札窓口が設置されており、ここで発売された乗車券です。

 

昭和58年7月に発行されました、 「[新須知]→国鉄線100円区間」の金額式乗車券です。

 

 

鉄道区間用の金額式乗車券と全く同じ様式となっています。

 

 

 

 

 

主要区間には一般式の乗車券の設備もあり、昭和57年9月に発行されました、 「新須知から 園部ゆき」の乗車券です。

 

 

大阪印刷調製の一般式の乗車券が、原則としてA型券となってからの券となります。

 

 

 

 

 

先に申しましたように、園福線廃止の時点で「須知」バス停は無くなっていて、別に「新須知」バス停が設置されていたワケですが、この点について少々調べてみました。

 

国土地理院の1/25000の地図より、須知付近の地図です。

 

 

○で囲んだ部分は旧山陰街道と現在の国道9号線が分岐する地点で、園福線が開業した頃には右側の現在の国道9号線の部分は開通しておりませんので、園福線のバスは左側の旧山陰街道を通り、須知の街の中心を通っていたハズで、「須知駅」も緑色に塗った須知の街中に設置されていたものと思われます。

 

現在の国道9号線の部分は、昭和38年3月に亀岡市から地図の上側の○印の国道27号線が分岐する丹波町蒲生(こも)交差点までが1次改築された際に開通したもので、昭和38年3月は亀岡市から蒲生交差点までの改築が完工した月ですから、須知付近の上下の○印の間の現在の国道9号線の部分は、改築区間の全てが完工する前に部分開通して供用開始となっていたものと考えられ、これより少し前の昭和37年10月10日に園福線に「丹波水戸~新須知~須知高校前」の支線が開業し、この時に国道9号線沿いに「新須知」バス停が設置されたものと思われます。

 

「新須知」と「新」を冠したのは、現在の国道9号線の部分の支線が開通した段階では、園福線の本線はまだ旧山陰街道経由で旧道に「須知」バス停が存在していたため、区別するために「新」を冠したものと推察され、旧街道の「須知」バス停と国道の「新須知」バス停は恐らくは数百メートルしか離れていなかったものと思われます。

 

昭和40年7月1日に、「丹波水戸~新須知~須知高校前」の支線が「丹波水戸~須知~須知高校前」と旧山陰街道経由に変更され、この時に園福線の本線が「新須知」を通る現在の国道9号線経由に変更されたものと考えられますが、地図の「★←新須知」の上の交差点から左に延びる黄色の県道を経由して桧山へ向かう支線が、「須知~何鹿(いつしか)神社前~桧山」と須知が起点となっておりますので、本線が「新須知」経由となっても、「須知」は支線のバス停として生き残っています。

 

昭和41年1月25日に、支線に格下げされた「丹波水戸~須知~須知高校前」が廃止(新須知~須知高校前は昭和40年7月1日から本線の区間になっていた。)となり、「須知~何鹿神社前~桧山」の支線も「須知~何鹿神社前」が廃止となって「新須知~何鹿神社前」が開業し、「新須知~何鹿神社前~桧山」に区間が変更されておりますので、この時点で支線の旧山陰街道経由便が無くなって、「須知」バス停も廃止となったものと考えられますが、この時に「新須知」を「須知」に改称しなかった事由は不明です。

 

以上のように、「須知」と「新須知」は昭和37年10月10日から昭和41年1月24日までの3年余りは双方のバス停が併存していたものと考えられ、この併存期間に「須知」と「新須知」の双方に出札窓口が設けられていたのかどうかは不明ですが、昭和40年7月1日に園福線の本線が「新須知」経由となった際に、「須知」の出札窓口が無くなって「新須知」に窓口が移転したのかも知れません。