言語がしゃべれない、とは一体どういうことなのでしょうか?
人は会話をするとき、「相手が自分の言っていることを理解するであろう」と推測し、それが裏切られると落胆します。
例えば、こんな経験はないでしょうか?
スーパーのレジで店員さんに話しかけられたけど、理解できなかった。
相手は自分を馬鹿にしたような目でみてきた、というようなことが。
そして、相手が言っていることを理解できなかった自分は駄目なんだ、と責めたことはないでしょうか?
日本で生まれ育ち、アメリカ生活を経験したかたであれば、何度もこんな場面に遭遇しているかと思います。
そんな経験を毎日、毎時間、毎分受ける。
これが語学力がない帰国生の現地校学校生活なのです。
そして、言語が分からないというのは、ただ単に会話ができないという表面だけの問題ではありません。
語学力が不十分なために、自分の思ったことや感じたことを他の人と共有できないのです。
人の心(特に子供の心)というのは、他の人と感情や意見を共有したり、ぶつけあったりして成長していくものです。
“私はこう思うけれど、何々ちゃんはこんな風に考えていたのか。なるほど、それも一理あるかもしれない”
という発見や、心の成長がありながら、子供は成長していきます。
しかし、語学力の足りない帰国生には、そのような機会は劇的に減少してしまいます。
この機会の減少は、心の成長に何かしらの影響を当然あたえてしまいます。
言語ができない、というのは、ただ単に周りで起きていることが理解できない、会話ができない、ということにとどまりません。
心の成長の機会の減少。これが語学力がない帰国生が対面しなければいけない問題なのです。