仕事で東京に出かけて、帰りにとある出版社
へ立ち寄る。

親しくさせてもらっている副社長のNさんに
会うためである。

この人、なかなかの好事家で、特に車には目
がない。

愛車はポルシェとマセラティ(イタリア・フ
ェラーリ社)というスーパーなお車。マセラ
ティは性能もさることながら内装も渋い。

全面革張りの座席で、計器類はスピードメー
ターだけ。さすがイタリア車、じつにシンプ
ルで美しいデザインだ。

それに対して日本車は、機能だらけのマッ
サージチェア。

この日、用事があるというので、飯田橋から
新橋までマセラティの助手席に乗せてもらっ
た。じんわりと優越感が。横を走るプリウス
が貧相に見える。

健全で優等生タイプのエコカーもいいけど、
人にこびない超わがまま娘は、もはや別世界
のしろものだ。

これが本物ってやつだ。イエーイ。

「じゃ、ちょっとだけ加速しますね」
とNさん。

その瞬間、ロケットのような速さで内堀通り
を100メートルほど疾走。

あまりの速さに背中がシートにへばりつき身
動きができない。

こ、これがうわさのGか。

「ひえー」

すると、一気にスピードダウン。

血の気が引いて。心臓がバクバク。少しちび
ったかも。

スガ婆だと、完全にウ○コ漏らしてるっす。

「どうです、いいでしょ?」

とNさんが澄ました顔でおっしゃる。

「早すぎませんか?」

「普通ですよ」

私には老いた母がいまして、介護中なんです、
とも言えず、

「すみません、今日は早く帰らないといけな
くて」と嘘をつく。すると、

「東京から横浜まで15分くらいで行けますよ。
おくりましょうか?」

新幹線より早いじゃないですか。おいら死に
たくないです、とも言えず、

「今度お願いします」と丁重にお断りする。

飯田橋から新橋まで、ほんの数分間の旅がこ
うして終わった。Nさん、また乗せてくださ
い。(制限速度内でお願いします)

最近、デイサービスのスタッフに変化があった。



若いスタッフが増え、ベテランが減った。



聞くと、そのデイでは市内数ヵ所にあるデイのスタッフを時々移動しているという。



おかげで若い女性スタッフが送迎してくれるのだ。



大きな声では言えないが、こちらとしても楽しみが増えたのは、ありがたいことである。



だが、若い女性はオバサンのように認知症の婆さんたちに、てきぱき接しない。遠慮しているのか、それとも気持ち悪いのか、



「はい、車から降りてくださいね」と、離れたところからやさしく言う。



だが、そんなやさしい掛け声に、上の空の老人たち。



オバサンスタッフであれば、老人の手をとってさっさと降ろし家族に引き渡す。



ボクは若い女性スタッフに代わり、車にいたスガ婆の手を取り、外に連れ出そうとした。その時、ちらっと車の中に目が行く。



中には三人の老婆がいて、ゾンビのように僕を見ていた。



(怖えー)



「早くしてくれ、母ちゃん」



ゾンビの視線と、なかなか降りないスガ婆に焦るボク。



やっと降りたスガ婆に女性スタッフが、



「じゃあ、また明日ね、スガ子さん」と、やさしく微笑む。そして、ボクにも。



まさに地獄に仏、掃き溜めに鶴(はきだめにつる)←ルビは強調の意味ではない



ボクはなぜかバイオハザードを思い出す。(ゾンビではなく、女主人公のほう)



夜の老人はたしかに怖い。若い女性でなくても、身の毛がよだつ。



運転中、後ろから噛み付かれるのが怖いのか、女性スタッフは老人たちのシートベルトを確認して、次へと向かった。(本当は安全のためだと思う)



何げない送迎のひと時だが、介護スタッフのやさしい笑顔は、(あくまでも若い女性の)ボクのすさんだ心を癒してくれるのだ。



(また明日~、バイオハザード~)





最近、何にでも話しかけるスガ婆は、

特にテレビは一番の話し相手だ。

テレビをつけると、すぐに画面に近づき、ほぼ独占する。

「それじゃ見えないだろ!」と言うと1mほど後ずさりするが、再びじりじりとテレビの前に。

そしてまた、「見えないぞ、母ちゃん」

そんなことを繰り返すのもバカらしいので、2回であきらめる。

テレビ画面の3分の2がスガ婆で、残りが画面。

スガ婆で隠れた画面を想像しながらボクはテレビを見る。

ニュース番組でキャスターの言葉に、

「そうですか、それは大変でしたねー」と応え、殺人事件のニュースでは、

「バ、怖かー」と言って、数センチだけ画面から離れる。

たわいないことだが、以前はカンにさわり、確実に怒鳴った。

そう思うと、今こうして平静でいられる自分が不思議だ。



歌番組を見ていたスガ婆が言った。

「おとうさんはたち――だって」

「お父さん、はたち? 何だそれ」

不思議に思ってテレビを見ると、そこに写っていたのは

「細川たかし」だ。

「細川たかし」が「おとうさんはたち」。オイオイオイ!

これを空耳というべきか、あるいは病気というべきか。

<では、次のゲストは、「おとうさんはたち」さんです>

と、司会者が紹介したら、

どれだけの人が細川たかしとわかるだろうか。

ううん、なかなか興味深い実験かもしれない。

認知症を理解することは、空耳を理解するということ。

少し違うかもしれないが、それほど難しいということだ。

(どういう結論だよ)




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冬の寒い朝、なかなか寝床から出ようとしないスガ婆。

朝の支度をしていても、動じることはない。

ミノムシのように丸めた布団の中で冬眠中だ。

夜7時に床に入り、朝は昼まで寝ることもある。

時間にして16時間。

それが、春になって温かくなると、

ボクが起きた時のかすかな振動で、スガ婆は目覚め、

そして、言う。

「バッ、寝てしもうたばい」

わが家の朝の第一声だ。

「もっと寝ててもいいんだけど」

というか、もっと寝ててくれ。


だが、そんな願いもむなしくスガ婆は、

「はよ、帰らんとー」と言い、布団をたたみ始める。

87歳の身で、しかも起きたばかりなのに、

布団を押し入れの上段にスイスイとしまう。

体の数倍もある大きな餌をせっせと運ぶアリのように

老婆が布団をしまう。

手伝ってよ、などという弱音はいっさい吐かない。

不気味だが、すげー。

何なんだろう、このサイボーグのような体は。

医学的にいうと脳が弱い分、体がそれを補うために

屈強なボディへと変化したということなのだろうか。(たぶん違う)

あるいは、これが大正生まれの基礎体力か。

「なめんじゃないよ、この若造が」

「ひえー」


いずれにせよ、この春、スガ婆は無事に冬を越し、装いも新たに、

今年も暴れるっぺやー、と力強く押し入れの戸を閉めた。

そしてトイレへ。

用も足していないのに、カラカラというトイレットペーパーの

小気味いい回転音が。続いて水の流れる音。

春、それは老婆を元気にする季節。

大量のトイレットペーパーと水が失われたのち、

「春のせいよ」と、スガ婆がトイレから出てくる。



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ボクは介護者の会に入っている。

隣のオバさんが市内の介護者の会で副会長をしていて、

いつの間にかボクも入会させられてしまった。

今年最初の会合が行われることになったが、出席者が足りないということで、

なかば強制的に出席させられる羽目に。


今年最初の会合は新年会を兼ね、とある日本料理店で行われることになった。

場所は隣の市なので、いったん社会福祉事務所に集合し、

そこにお店の送迎バスが来て、店まで送り届けてくれる予定だ。

10時に集合というのに、隣のオバさんは8時半にボクを迎えに来て、

社会福祉事務所に9時過ぎに着く。


あまりある時間がのろりのろりと過ぎていく。

やがて続々と介護者たちがやって来る。ほとんどが、60、70代の女性だ。

そして、やっとこさ10時に。

だが、数名の介護者がまだ来ていない。

「困るんですよ、次の予定もあるんだから」

バスの運転手は、時間を気にしていら立ちはじめる。

「あら、次があるの? お気の毒ねえ」

などと他人事のように言うオバさん介護者。


10分ほどして、ようやく全員揃う。と思ったら、

「あら、私、車のドアちゃんと閉めたかしら?」

と一人のオバさんが、駐車場に止めた自分の車の心配をし始めた。

ほとんど出発しかけたバスに、

「止めて! 降ろして」と叫ぶオバさん。

バスは急停車し、オバさんは慌てて外に飛び出る。

待つこと10分。すでに20分遅れている。

「ごめんなさい」

オバさんが戻ってきて、皆に謝る。

「大丈夫だった?」と誰かが尋ねると、

「うん、ちゃんとドア閉めてたみたい」と嬉しそうに言う。

すると、

「よくあるのよね、そういうこと」と、まるでそれが当然だというように同情する。

周囲の介護者は誰も文句を言わない。

「おかしいでしょ、それ。バスを止めてまですることかよ?」

とボクは心の中で抗議する。


「それでは出発します。かなり遅れましたが」と、運転手が最大限の皮肉を言う。

そんな運転手に目もくれず、

送迎バスの中はオバさんの笑い声が絶えず、歌い出す者も出る始末だ。

そして、いつしか送迎バスは観光バスと化していったのであった。


やがて国道をそれて、気づけば狭い道路を走るバス。明らかに裏道だ。

マイクロバスが徐々にスピードを上げる。

時おり、カーブで大きく揺れ、ギャーという断末魔のごとく歓声があがる。

ボクの頭の中には、トラックと衝突し大破したバスの姿が移し出され、

翌日のニュース番組で、「乗客30名のオバさんと中年男性一人が死亡」

といった文章を読む女性キャスターの声が聞こえていた。

嫌だ、こんな人たちと一緒に死ぬなんて。

「お、降ろしてくれー」

と、心の中で叫ぶ。




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