【随筆】四文字熟語 | シュガー・ドラゴンのブログ

シュガー・ドラゴンのブログ

シュガー・ドラゴンのブログ

 朝。コーヒーを飲んで、タバコを吸って、ご飯を食べて。また、タバコを吸って。そろそろ出かける時間かな、という時になって、テレビを付ける。特に何かが見たいということもないのだが、天気予報と時報代わりに付けている。
 林修先生のことば検定というコーナーがあって、色んな言葉の語源などを、三択のクイズ形式で出題するのだが、その日は「汗牛充棟」という四文字熟語の問題だった。ことわざとか慣用句とか、わりと好きな方なのだが、「汗牛充棟」は知らないなと思い、もう顔を洗う時間になっていたのだが、ずるずると見てしまった。
 「汗牛充棟」は、どういう意味かというと、蔵書がたくさんあることの例えだそうだ。唐の時代の中国の「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」という言葉が出典になっているとか。簡単に言うと「本がたくさんあって、積み上げると天井の棟木にまで届き、車で牽けば牛馬が汗をかく」となるのだそう。なるほどなと思いつつ、ちょっと待てよとも思った。
 「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」が、元になっているのなら、なぜそうとは言わず「汗牛充棟」と、短くしたのだろう。この言葉ができて、短くなっていった経緯について、妄想を広げた。
 単に短くしたいというのなら、そもそも「本がたくさんある」とだけ書けばいいものだ。だが、それではあまりにも味気がない。そこで、読んだ人がイメージしやすいように、多分、本当に積み上げたわけでも、牛に牽かせたわけでもないのだろうが、ちょいと気取って「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」と、書いたのだろう。
 読んだ人は、「なにこの表現、なかなか気が利いてるじゃない」と思い、なんなら「よし、今度オレも使ってみよう」とまでなる。そして、いざ本がたくさんある場面に出くわした時、ここぞとばかりに「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」と言う。また、その場でそれを聞いた人も「なにその表現、よし、今度オレも……」と、広がっていく。
 広がっていったはいいが、そのうちに、だんだん「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」と、いちいち言うのが、面倒になってくる。全部言うのは、ハッキリいって長ったらしい。そもそも「本がたくさん」で済むはずなのに、ちょっと気取ってみたいからと、わざわざもったい付けているからだ。「其の書為るや、処れば則ち棟宇に充ち、出ずれば則ち牛馬に汗す」は、もうじゅぶん広がった。じゃあ、ちょっと短くしても、意味は伝わるだろう。
 こうして、四文字熟語の「汗牛充棟」は誕生した。「汗牛充棟」と表すだけで、意味は同じで、イメージも伝わる。尚且つ、気取ったままでいられる。おお、これは面倒でなくて便利じゃないか。
 そこで、思ったわけだ。「ちょっと待てよ。もしかしたら、四文字熟語って略語なんじゃない?」と。

 略語というと、真っ先に思いつくのが、「チョベリグ」と「チョベリバ」だ。実におじさん丸出しだが、実際におじさんだから、許してほしい。これはそれぞれ、「超ベリーグッド」と「超ベリーバッド」の略語だというのは、改めて言うまでもない。そもそも「超ベリーグッド」とか、日常会話で使うかどうかは別として、若者の間で一時はやっていたことは間違いない。
 これが更に発展して、今では「チョベリグ」も「チョベリバ」も、「ヤバイ」の一言に収斂されている。全く正反対の意味の言葉を、「ヤバイ」で片付けた上、会話が成立していることは、ある意味ではすごい事なのかもしれない。けれども、やはりおじさんの目線からすると、言葉が乱れているとか、語彙が貧困になっていると、感じてしまう。
 略語にはマイナスのイメージが付きまとっていたのだが、今まで知的と感じていたはずの四文字熟語が、実は略語なんじゃないかと考えると、ちょっと面白い。
「この前、引っ越したんだけどさ」
「うん、うん」
「漫画とか好きだから、本が多くて」
「その書たるや、どれくらい?」
「積み上げたら、天井まで届くし」
「なにそれ、充棟じゃん」
「牛で牽いたら、汗かくし」
「ウケる、マジ汗牛」
「だから売ったんだけど、どうしても手放せないのがあって」
「その書たるや、なに?」
「やっぱ『YAWARA!』でしょ」
「なにそれ、柔道じゃん」
「ラスト泣けるし」
「わかる、マジ感泣」
 最後の方はだいぶ話が逸れてしまったが、「汗牛充棟」が、かなり親しみやすくなった。またまた話が逸れてしまうが、私は『YAWARA!』を読んで、本当に泣いてしまう。

 短くなった言葉は、気が付かないだけで、私たちの周りにたくさんある。「いただきます」が、「あなたの命をわたしの命にさせていただきます」というのは、永六輔のラジオで聴いた。「さようなら」は、「左様ならばこれにて失礼仕る」だという。「いただきます」は、仏教的な考え方が元になっているのだろうし、「さようなら」は、明日にも戦地に赴くかもしれない武士の別離の挨拶だったそうだ。
 丁寧と言えば丁寧だし、元の意味を知ると、ハッとなることも多い。だが、やっぱり堅苦しいし、短くすることで、親しみやすくなる。親しみやすくなったのはいいが、何度も口にするうちに、いつしか言葉が持つ本来の意味が、失われてしまっているような気がする。
 私たちの「いただきます」と「さようなら」は、本当に「いただきます」と「さようなら」なのだろうか?
 先達て、お世話になっている方から、年末の挨拶が送られてきた。「良いお年をお迎えください」そうか、「良いお年を」は「良いお年をお迎えください」だったか。その方とは、酒の席では、どうしようもない話ばかりして、砕けた印象を持っていたが、たった一言の挨拶で、急にピリッと気が引き締まるような気がした。
 なんでもかんでもバカ丁寧に言う必要はないだろうし、普段親しみがあるからこそ礼儀を正した時の緊張が生まれるのだろう。肝心なのは、その言葉に込めれた想いなのだ。
 それでは皆さん、さようなら。


(終)