ある意味で、江戸時代のお殿様達の"生態”に迫っている本でございます(笑)。
「お殿様の人事異動」
安藤優一郞著 日本経済新聞出版社
(238頁)
本書は、大名達が幕府から命ぜられた国替え(領地替え)にまつわるアレコレを紹介しております。
国替えの目的は、やらかした大名への"懲罰”もあれば、反対に出世に付随するモノだってあります。
ただ、その多額の費用は全て大名持ちでした。仮に新領地の石高が以前より増えたとしても大変な負担だったようです。
必死に経営してきた領地を取り上げられるお殿様もかわいそうですが、一蓮托生で引っ越さねばならない藩士やその家族の苦労だって相当なモノでした。
なお、今回はそれらの悲喜こもごもには触れずに(笑)、作中に登場する有名人達にスポットを当ててみたいと思います
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まず一人目は―
大岡越前守忠相(オオオカエチゼンノカミタダスケ)でございます。
彼は8代将軍徳川吉宗が行った、享保の改革を支えた能吏
将軍直属の家来である《旗本》の中でも、名門の血筋だった忠相。
しかし将軍に直接会う事の出来る旗本であっても、江戸城に就職出来るのはその総数の1/3程でした(時代劇に出てくる貧乏な旗本は、残り2/3の方なんですね)。
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激務の為、長くても4~5年という奉行職を忠相は20年弱務めました。
―町奉行と言えば、何をおいても"お白州”の場面が有名です。
ですが、そもそも町奉行とは江戸の行政のトップです。さらに閣僚として幕政にも関わり、警察機構や司法も束ねる存在なのです。
つまり、都知事兼国務長官兼最高裁長官兼警視総監みたいなモノでした
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忠相が在任中、特に奔走したのは物価―と言うか、お米の値段―を安定させる事でした。
経済が安定すれば、やっぱり犯罪は減るんです
その為に商人達とバチバチにやり合いましたが、かえって市中を混乱させてしまいます。その結果、忠相は奉行職を退く事になるのです。
ただ彼の果断な政策がショック療法になったのか、忠相の退任後に物価は安定し始めます。
なお、そんな忠相の更迭人事は"栄転”でした
彼は、旗本(=将軍の家来)でありながら、大名(=藩主)であることが就任条件である《寺社奉行》になったのです。
ただ、当初は大名"格”という待遇であったため同僚(寺社奉行は4~5名)からいじめられていたみたいです
しかしそこは海千山千の政治家。その圧倒的な実務能力でもって若輩の同僚達(忠相は20くらい年長でした)をフォローし、自らのポジションを固めていきます。その後、彼は本当に領地を貰い正真正銘の大名となるのです
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もう一人、有名人をご紹介いたしましょう。それは―、
《鬼平》こと火付盗賊改方・長谷川平蔵(ヒツケトウゾクアラタメカタ・ハセガワヘイゾウ)でございます。
(こちらの舞台は寛政の改革でございます)
平蔵も名門旗本長谷川家の分家に生まれ、父は京都町奉行まで務めました。
父同様に城内での職務と火付盗賊改方(以下"火盗改”)を兼務した平蔵は、その後どんどん出世するはずでした。
―この火盗改と言う役職―。
どうしても武骨なイメージが先行しがちですが、少なくとも平蔵は江戸の町人から"町奉行待望論”が出る程の人気を得ていました。
彼は捜査に協力した者にはポケットマネーで蕎麦を振る舞ったりして、とっても気前が良かったんです。
‥‥‥ただ、こういう人気の影にはかならずアンチが居ます。彼の場合は、その"反鬼平勢力”の存在が最後までネックになったようなのです。
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寛政の改革の施策として必ず登場する《人足寄場》の創設は、実は平蔵が老中首座松平定信に建議したモノでした。
コレは《無宿》と呼ばれた"住所不定無職の流民”達の為に作った職業訓練場です。
平蔵は、犯罪を根っこからの部分から減らそうと考えていたんです。
ただ、その運営は幕府からの予算だけで到底足りず、平蔵は身銭を切ってやり繰りするハメに‥‥‥。そして、やっぱり行き詰まりまして(笑)、公金で相場に介入するという荒技を使うんです。
商才にも長けた平蔵は、まんまと人足寄場の運営費を捻出するのですが、これがまたアンチからの攻撃材料になりました。
―当時、武士が相場に手を出す事は自体かなり"グレー”な事だったんです
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その能力は買っていても、平蔵の事があまり好きではなかったらしい松平定信は、彼を積極的に登用しませんでした。
その背景には平蔵に付いて回るアンチ勢の影響も少なからずあったようです。 (平蔵は、結局火盗改止まりでした)
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こちらはかなり初期に書いたブログでございます。
当時の方針が、内容には"極力触れない”でした