今年も3月11日がやってまいりました。

 

 あの日は週末、金曜日でしたね。

 午後2時46分―。

 あの瞬間と、そこから続いた日々の事を、私はずっと忘れないでしょう。

 

 今年は1年の始まりから能登半島で大きな地震が起きてしまいました。

 

 改めて、被害に逢われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

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 今回は、重松清先生が東日本大震災の後、残された人々の姿を描いた短編集より、表題作「また次の春へ」を、ちょっぴりふり返ろうと思います。

 

 前回のレビューでは、一番最初のお話「トン汁」をちょっぴりご紹介しています。

 

 ‥‥‥はい、どちらも"ちょっぴり”です。やっぱり、内容が辛くて上手くまとめられないんですよね。

 

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 東北地方を襲った大震災から半年経った9月―。

 

 東京で暮らす洋行(ヒロユキ)が帰宅すると、両親宛の手紙が届いていました。

 差出人は、北海道のM町という聞いた事もない街で、公用らしい封筒には町名の下に《メモリアルベンチの町》というキャッチフレーズが印刷されています。

 

 転送されてきたその封書をいまいましく思いながら、洋行は年齢がバラバラの両親の写真に「ただいま」を言いました。

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 まだ若々しい父と年齢を重ねた母の写真―。

 親戚中を探してやっと手に入れたそれらを、洋行は"遺影”とは呼びたくありません。

 

 巨大な津波が、実家どころか街ごと流しさってしまったあの日から、いまだ洋行の両親は見つかっていないのです。

 

 親戚からも「そろそろ区切りをつけて葬式を出そう」と言われています。無論、このままではいけない事は洋行もわかっています。12月には、元々4月の予定だった娘・奈々の結婚式も控えています。新婦の祖父母が行方不明とあって、入籍だけは済ませ、式と披露宴は延期していたのです。

 

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 冒頭に《オーナー様へ》とあったその手紙を読み、両親が10万円もするベンチのオーナーになっていた事を知った洋行―。

 

 元々はイギリスで故人を偲ぶ目的で作られたという《メモリアルベンチ》

 いつしか"メモリアル”の部分だけが一人歩きし、M町の町おこし事業となっていました。

 

『厳しい冬が来る前に、是非ともベンチのある公園にいらっしゃいませんか』

 

 洋行のスケジュールは―奈々の披露宴も含め―これから先、色々予定が詰まっています。

 

 11月の始めに地元で一斉捜索があり、洋行も"最後の行方不明者”の家族として参加します。

 実家のある集落の、3月末時点での行方不明者は20名―。

 その後の捜索で見つからなかった人達も、お盆やお彼岸のタイミングで家族が死亡届を出しました。

 自治体としても復興に向けた工事を加速させる為の、"区切り”の捜索なのです―。

 

 そのすぐ後―、

 洋行には、経過観察の結果が思わしくなかった"肺の影”を切除する手術が控えています。

 そして―、

 遠巻きに聞いた妻と娘の会話から、おそらく来年の春には自分はお爺ちゃんになる‥‥‥

 

(‥‥‥厳しい冬が来る前に―)

 

 ※

 

 いったい、両親は何を"記念”してベンチのオーナーになったのか。これまで二人からM町について何も聞いた記憶がない洋行は、術後の痛みの残る身体を押してM町を訪れます。

 

 オーナーが座る事のなかったベンチへ腰掛けた洋行の耳に、鮭が遡上(そじょう)するという川のせせらぎが聞こえてきます。

 M町の担当者が思い出した両親の言葉―。

 

「春になって、稚魚がまた海に向かう頃に、またここに来ます」

 

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 海へ出て、何年もかけ成長し、産卵するために再び故郷の川へ戻ってくる鮭―。

 故郷を離れた洋行も、次の春には孫が生まれます。

 

 

 なお、割愛しておりますが、作中では被災状況やその後の利害関係によってバラバラになった被災地のシビアな現実も書かれています。

 ※

 こちらは"文庫版のためのあとがき”の中の一文でございます。

 

 怖くなった。悲しい場所に置かれた手向けの花は、悲しみを抱えた誰かが訪れて、置いていったから、そこにある――そんな当然のことさえ気づかないまま、僕はこれまでいくつの大切な靴跡を見逃して、あまつさえ、無遠慮にその上を歩き回って自分の靴跡を重ねてきたのだろう。

 その想像力の乏しさは、二〇一三年三月に単行本版が刊行された本書にも及んでいるかもしれない。

(後略)

 

 各被災地を幾度となく訪れてれてくださっている重松清先生―。

 ここに書かれた真摯な姿勢を、私も肝に銘じたいと思っています。

 

 大きな不幸に見舞われた方々に寄り添うという事は、口で言うほど簡単な事ではありません。しかもそれは、可能なかぎり継続していかねばならないのです。

 

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 1月の能登地方の地震で被災された方々や、世界各地で行われている戦争行為の犠牲になっておられる方々に―

 

 穏やかな春が訪れる事を祈念してやみません。