国道に出ると風は潮の匂いがした。
側道に入り、原付を停め、ヘルメットを外した途端、
行き交う車の音の向こうから、波音が聞こえてくる。
海岸へつながる地下道を抜けると、目の前に海原が広がった。
西日の中で、青い砂浜に、絶え間なく波が寄せている。
数人のサーファーが波間に浮かんで、高波を待機している。
僕は、思い出している。
あれは、2年前、夏の終わりのこと。
もう日暮れの頃のことだ。
もう一度、泳いでみたいの。
そう口にした祖母を連れて、僕はここに来たのだ。
夏の終わり、日暮れ間近の吉浜海岸は、人影まばら。
犬の散歩のおじさんと、トレーニング中のライフセーバーの姿が見えるだけ。
希望通りの”誰もいない海”は、まるで彼女を待っていたように
静かな時間が流れていた。
静かな時間が流れていた。
水着に着替えたり、準備をしたりして、海に入るんじゃないの。
波打ち際を歩いて、少し泳いで、また上がって、また泳いで。
歩いたり走ったりするのと同じように、自然に海に入るのよ。
昔ドキュメンタリーでそんな光景を見たときに、
ものすごく憧れて、それと同時に、すごく懐かしいような不思議な感覚だった。
なるほど彼女は、薄いコットンの上下を着ていて、
晩夏の夕暮れの砂浜に、それはとても似つかわしく思えた。
いつか、そんな風に海に入ってみたかったの。
気がついたら、こんな年になってしまったけれどね。
いざとなったら、ライフセーバーに助けてもらうわ
そう笑うと彼女は靴と眼鏡を僕に預けて、波打ち際に向かって静かに歩き始めた。
はじめはゆっくりと、しかし、次第に足を速め、そのまま波の中へと入っていく。
僕は、慌てて携帯電話を取り出し、ビデオを回した。
波は思ったより荒く、彼女の姿は波に上下し僕は、少し心配になる。
そんな僕のことなどおかまいなく、波の中の彼女は満面の笑みだ。
こちらに向けて手を振って、波にたゆたうその姿に
僕は、なんだか胸が熱くなった。
僕は、なんだか胸が熱くなった。
時間にして10分くらいだったろうか
彼女は四つん這いになるようにして、重たい身体を水から引き上げ、
ゆっくりと身体を起こした。
ゆっくりと身体を起こした。
僕が、彼女の元へと駆け寄って、タオルをわたすと、
彼女は水をしたたらせながら、ふーっと大きく息を吐いた。
彼女は水をしたたらせながら、ふーっと大きく息を吐いた。
僕らは、顔を見合わせて、笑った。
ひとつの達成と、安堵と、可笑しさと。
この不思議な出来事に、僕らは言葉を見失って、
ただ笑うしかなかったのだ。
見上げれば燃えるような夕焼けに、山の輪郭が際立ち、
茜色の雲が空一面に広がっている。
帰ろうか
うん、帰ろう
美しい夏の思い出。
座椅子に腰掛けている時間が長くなり
身体の痛みはあるけれど、彼女は、まだまだ健在。
このふいに与えられた、共に過ごせる日々を、大切にしよう。
いつだって僕らは、二人だけにわかる世界を眺めてきたのだから。
|祖母へ (2014年)
あなたが
ニューヨークから帰ってくる日を待って
僕は、生まれた
病室の窓辺から
桜の花びらが、舞い降りて
小さな祝福をくれた
あなたはその胸に僕を抱き
母となった娘を
誰よりも誇らしく思った
小さな少年の目に
世界のすべては不思議だった
魅せられたあなたも、幼き少女になって
2人は世界の旅に出た
風と話し
木々と語らい
三日月の物語に耳をすませて
手をつなぎ
どこまでも、どこまでも
川沿いの道を歩いた
あなたは、小さな僕に、教え
小さな僕から、多くを学んだ
時は過ぎ
あなたの背を抜いたころ、
僕らは友達になった
あなたの元を離れても
僕はあなたに会いに戻り
東京の暮らしを語り、
夢中で哲学の話をし
それは、仕事の話へと変わった
あなたはいつだって
少女のようにまっすぐで
傷つきやすく
転げるように笑い
その瞳には
いつの日も忘れられぬ
哀しみをたたえていた
あの春の日に出会ってからずっと
あなたは、あなただった
あとどれくらい
僕らは、共に この世界を生きるのだろう
あの夏の日
僕らは並んで、夕焼けを見ていた
蚊取り線香が炊かれていて
重く熟れた太陽が水平線に落ちようとしていて
僕らは共に闘った戦士だった日のことを
思い出していた