10/7
季節外れの麦わら帽子をかぶってるから。
そう言って、彼女は電話を切った。
僕は笑いながら、まわりを見渡し、すぐにその姿を視界にとらえた。
彼女も同時に僕を見つけると、嬉しそうに手を振った。
10月7日、時刻は午後4時前。代々木公園は少々肌寒かったけれど、
緑色の光の中を歩いてくる麦わら帽子姿は、この見事な秋晴れの1日に、
とても似合っていると思った。
湯河原はどう?
のんびり過ごしているよ。
セラピーの仕事は?
うん、しばらくやめようかなとも思ってる。
そっか。
そちらは?
わたしも、会社をやめようかなと。
そっか。
僕らは大いに笑い、しゃべり続け、
ひときわ騒がしい二人組みだったと思う。
芝生に並んで座った僕らは、きりなく語り合い
時に黙って、暮れていく夕陽を眺めた。
これから何するの?
踊り子になろうかなと。
踊り子?
うん。それと小説家と旅人と。
なりなよ!すごくいいと思う。
日も暮れた頃、僕らは公園を後にして、
彼女行きつけのオープンカフェへと向かった。
心地よい風を感じながらしばらく外で話をすると、
屋内のソファ席に身を落ち着けた。
お互い、大変だったね。
大変だったって、わかった?
そう尋ねる僕に、彼女は大笑いして、すごいやつれていたものと答えた。
ばれてたかー
うん。
その瞬間、彼女の目に、真剣な光が宿った。
そうか。
いつからだろう。幸せ?と聴かれることが増え、
その答えに、詰まるようになってしまったのは。
取り繕うように、充実しているとか、たくさんの学びがあると
口にするようになったのは。
僕は、大変だったと言った。
その言葉は、初めて口にする異国の言葉のように感じた。
僕は、もう一度、確認するように、その言葉を口にしてみた。
大変だったな。あー大変だったんだ。
その言葉の輪郭が定まり、その質量を感じた瞬間、
僕の体はがくんと力が抜けてしまった。
僕はソファに深く身を沈めて、しばし、言葉を失った。
そうか、僕は、こんなところまで来てしまったのか。
彼女は、隣で、優しく笑った。
僕は、気がついていた。
未熟な自分でありたくない、過つ者でありたくないという、自分の虚栄心に。
僕は、優しい人間でありたかった。人格者でありたかった。
そして、自分が学んできたこと、伝えてきたことが、
正しいのだと、証明したかったのだ。
ゆえに、僕は、許せなかったのだ。自らが「苦しむ」という現象が。
大丈夫。何百回、何千回と口にしてきたこの言葉。
その言葉の後ろで、僕は途方にくれ、解放を夢想していた。
諦めるしかないんだね。
うん。諦めるしかないんだ。
僕は、自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を繰り返した。
できないものを、できないといい。
やりたくないものを、やりたくないということ。
ただ、それだけのこと。
あまりに簡単で、あまりにシンプルなこと。
Honesty. 正直であること。
それが、どれだけ人を傷つけるとしても。
それが、どれだけ非常識で、理想とかけ離れていたとしても。
変えられないものなら、避けられないものなら、
傷ついても、抱きとめるしかないと思ってきた。
もちろん、他の選択肢を自らに禁じていただけなのだけど。
振り返るに、そのように生きる以外に、選択肢はなかったのだとも思う。
もちろん、別に大それた不幸に見舞われてきたわけではない。
大変なことばかり振りかかってきたわけではない。
ただ、僕が勝手に、不可能に挑戦してきただけのことだ。
そして、その”必ず行き詰まる挑戦”は、
結果として、まわりの人を傷つけてきたのだ。
傷つけないように生きることが、何より、人を傷つける。
隣にいてくれた人たちが
何度も何度も、伝えようとしてくれたことに、
僕はようやく手が届いた気がした。
教えてるつもりが、ただ、教わっていたのだ。
先頭を走っていたつもりが、周回遅れだったのだ。
僕は戻っていく。当たり前の自分に。
等身大のちっぽけな自分に。
中央線は夜の街を走っていく。
車窓に揺れる夜景を、僕はずっと眺めていた。