昨日の続き。
昨日書いたのは、
僕らは、誰もが、自分自身の現実を、
必要に応じて作り出している。
そして、その自分に必要な体験を作り出すために、
誰かにサポートしてもらう・・・ということ。
例えば、自分一人で、傷つくことは、できないので、
「傷つけてくれる人」を演じてくれる人を、呼んでくる。
自分一人で、奉仕することは、できないので、
「奉仕させてくれる人」を呼んでくる。
すると、「した側」と「された側」という区分が、もはやナンセンス、
論理構造上、そのような二者は、存在し得ないという結論が出てくる。
つまり、誰もが、「その経験を、創造した側」だということだ。
この知見に立つと、見えてくる風景がある。
それは、誰もが、自分自身の創造した現実に、
責任を持っているということ。
このように書くと、「ふーん」と思うだけかもしれない。
でもね、それは
・傷つけた側に、責任はない。
・傷ついた側に、責任がある。
ということ。
それは、安易な自己責任論・・・ではない。
常識的な責任所在を反転させるということ。
小学校の風景。
「先生!Aくんが、Bくんを、叩きました!」
「Bくん、君は、Aくんに叩かせるという現実を創造することで、
何を実現したかったのか??」
・・・そう、この話は、実は、自分の「常識」のアップデート、
パラダイムのシフトを要する話なのです。
(ちなみに、セラピストなど、心理ワーカーって
基本は、この考え方をしてるんじゃないかな?)
閑話休題。
さて、では「責任」って何だろう?
それは、そこにアクションを起こし、
その経験をマネジメントする立場を選択するということ。
そう、それは、「権利」だ。
自分自身が、アクションをすることが、「できる」という宣言である。
その現象を、「我が事」として、取り扱うことを決めた時、
人は、はじめて、その問題を、リードすることができる。
・批判的な上司にいじめられる私
というポジションにいる限り、
その状態を変化させる権利は、一切放棄されている。
・批判的な上司にいじめ「させる」私
というポジションを採用した時、人は、その現実を自分の可変域へと引き寄せる。
ここに、責任という言葉が、自由という言葉と重なってくる。
責任を逃れている限り、人は常に、問題にリードされ、
生殺与奪の権利を相手に、現実に与えることになる。
責任をとろうとする限り、人は、問題をリードできる。
生殺与奪の権利を自分自身に与えることになる。
ここに、自由の本質がある。
・人が味わえる自由の限界は、
自分の現実に対して、「自身が作り出した」と認められた範囲
だということだ。
だから、コミットメントと自由は、責任と自由は、
同じモノの違う呼び名のことなのだ。
現実に対して、責任をとるということ、
自分が作り出したモノとして、受け入れること、
それは、自分がその現実から学び、その現実を変容させていく、
権利と、その自由を得ることに他ならない。
さて、ここまで読んで、
「そうか、すべて、自分が悪いんだ・・・」と思わないように!!!
ここに、善悪の話は、一切関係ありません。
現実とは、
自分が、より自分らしい生き方をしていくために、
自分が、自分を承認し、より深く自分を愛していくために、
自分が、作り出したもの。
そして、それは、自分が生まれてから死ぬまで、
すべての瞬間、ありとあらゆる体験において、
機能している原理だということ。
自分自身が、何かをされるという経験すら、
それは「させた」という経験であり、そのように捉えることが、
自分を変容できる地平、自在に生きられる地平へと、自分を解き放つ第一歩だということ。
・・・・とまとめたら、ここだけ書けば良いじゃん!って感じになったけど、
時々、原理的なこと、しっかり「理解」しておくことも大切・・・
ということにしておきます。