経験を、与え合うこと。 | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

最近の気づき。

人と人の関係というのは、ただ、

「経験を与え合う」モノだということ。


自分が必要な体験があり、相手が必要な体験がある。

ゆえに、出会い、互いに機会を贈与し合う。


表面的には、与え手と受け手という関係が見えたとしても、

経験の贈与という点において、両者は、完璧にフラットだ。


親と子。

子は、親に、「親である経験」を与える。

親は、子に、「子である経験」を与える。


クライアントは、セラピストに、「支援する経験」を与える。

セラピストは、クライアントに、「支援される経験」を与える。


それは、互いを、「利用している」ということだ。

セラピストは、クライアントを利用して、学び、

クライアントは、セラピストを利用して、学ぶ。


この関係は、普遍的なモノだ。


だから、

親は、子に育てられ、師は弟子によって磨かれる。

先生は生徒に、上司は部下に、育まれるのだ。


この関係は、される側(被害者)とする側(加害者)にも当てはまる。

(今回は、あえて、この、あまり耳触りの良くない、2つの言葉を使おう)


被害者は、加害者に、「加害する経験」を与える。

加害者は、被害者に、「加害される経験」を与える。


被害者は、加害者を作り出すことで、

自分に必要な経験を得ているのだ。


ここは、とても、大切な視点だ。


僕らは、自分を中心に風景を眺める時、

知らず知らずのうちに、自分を「被害者」とおく。

・自分が、傷つけられた。

・自分は精一杯やったのに、報われなかった。

・自分は我慢しているのに・・・etc


しかし、実は、相手の立場に立つと、必ず逆の風景が見える。

相手も、こう思っているのだ。

・自分が、傷つけられた。

・自分は精一杯やったのに、報われなかった。

・自分は我慢しているのに・・・etc


そこで、一般的に、社会的に、どちらがより「被害者であるか」の討論に、

生産性はない。説明する必要もないよね・・・。

(誰もが、その不毛なやりとりを、経験しているだろうから)


「~されて、傷付いた。」「こっちだって、傷付いた。」

この終わることない、やりとりを解決するには、

僕らは、新しい地点に立つしかない。

その視点が、ここまで述べてきた

「関係性とは、互いに、必要な体験を与え合っているだけ」という視点だ。


その視点を、あえて、被害者・加害者という言葉を使って表現するのなら、

加害者とは、被害者によって、加害を「させられている人」だということになる。

すなわち、加害者とは、被害者の、被害にあっている人ということになる。


「する側」と「される側」という区分は、もう意味がないのだ。


僕らは、誰もが、自分自身の現実を、必要に応じて作り出している。

そして、その自分に必要な体験を作り出すために、誰かにサポートしてもらう。


自分一人で、傷つくことは、できないので、

「傷つけてくれる人」を演じてくれる人を、呼んでくる。

自分一人で、奉仕することは、できないので、

「奉仕させてくれる人」を呼んでくる。


僕らの目の前には、いつだって今、自分に必要な体験が、ある。

自分に必要な人間関係が、ある。


だから、目の前の人間関係は、常に、自分が自分に宛てた手紙であり、

神様がくれたギフトなのだ。


そう、自分が自分に戻っていくための。

自分がより自分の可能性を花開かせるための、契機。


僕らは、ただ、互いに、今、互いにとって、必要な経験を、

懸命に贈与しあっている。


 あなたは、その人生を使って、私にひとつの経験をくれている。

 私は、その経験がどうしてもしたくて、あなたに出会っている。


その実感を持てた時、

所有するでも、支配するでもなく、変えようとするのでも、変わろうとするのでもない、

ただ、そこにある経験への、本質的なフォーカスが、

目の前にいる相手への、純粋な出会いが生まれてくる。


さて、この話は、頭での理解はけっこう簡単だけど、

それを生きる地平に立つのは、なかなか難しい(・・・と僕は感じている。)


そして、僕は、まだそんな地平に立っているわけではない。

でも、なぜ書いたかというと、ほんの少し、覗いたからだ。


先日、僕に、この感覚が、この視座が、訪れた。

世界のすべてがフラットに見渡せる視座。深い実感と理解。

突然感覚が降ってきて、「きたー!!」って感じ。プチ不思議体験。


これは、時々ある、「ギフト」。

ちょーっと先を見せてくれる経験。

ビギナーズラックみたいなモノなのかしら。


だから、僕は、もう、この視座には、居ないのだ。

この視座に本当にたどり着くためには、

もうしばらくの経験が必要になりそうだ。


けれど、本当にたどり着いてしまったら、

僕はもう、この話を書かないと思うので、

ここに、記しておこうと思ったのだ。


今日は、こんなところで。