~2012年4月16日のメモより~
僕らは、毎日歩いている。それに、走ったり、歌ったり、踊ったりする。
でも、僕らはそれでお金をもらえたり、ご飯が食べられるわけではない。
では、それを職業にしている人たち、陸上選手、ヴォーカリスト、ダンサー・・・
どうして、彼らは「プロフェッショナル」と呼ばれ、それを「職業」にできているのか。
僕らと彼らの間にある隔たりの正体は何か?
この問いを、こんな風に言い換えてみよう。
・僕らが「走る」ことと、陸上選手が「走る」ことの違いは何?
・僕らが「歌う」ことと、ヴォーカリストが「歌う」ことの違いは何?
・僕らが「書く」ことと、コピーライターが「書く」ことの違いは何?
そこには、違いがあるのか?
違いがあるなら、その違いはどこから来るのか?
今回は、この中で、一つ、「走る」を取り出してみる。
陸上選手でなくとも、「速く走る」ことを、誰もが一度は考えたことがあると思う。
運動会で、部活や体育の授業で。その時に僕らは、どんな試みを行ったのだろう。
・スタートの体勢を低くしてみる
・腕の振り方を大きくする
・歩幅を小さくしてみる etc etc・・・
こんな「工夫」を行ったのではないだろうか。
ここで、僕らが行っているのは、「”走り”の解体」なのだ。
「走る」という一言で表現されていた「一連の動き」を、
例えば「足を上げる」、「着地する」、「地面を蹴る」、「腕を振る」へと解体する。
そうすることで、最適な足の上げ方、着地の仕方、地面の蹴り方、腕の振り方を、意識し、改良できる様になる。
・走る(1) → 分解 → 足を上げる+着地する+地面を蹴る+腕を振る(4)
さて、この解体作業を通じて、「走る」は、分解されてしまうのだが、
しかし、「走る」という行為自体はなくなっていない。
引き続き「走る」は僕らの前にあり、僕らは「走る」。
しかし、再統合された後の「走る」という言葉は、もっと「分厚い動作」に変化している。
この分解によって変化し、新しく生まれた「走る」こそ、自分にとっての「新・走る」なのだ。
実は、走ることのプロ、陸上選手がやっているのは、
この様に「走る」を徹底的に解体し、組み直すという行為である。
(・・・と、友人のランナーが教えてくれました)。
筋肉一つ一つ、呼吸や骨の位置まで、限界まで細分化し、それらを最適な動作へと改良していく。
その結果、新たに組上げられた「走る」は、もはや僕らが知る「走る」とは、
全く異なる次元の行為になっていることは想像に難くない。
もちろん、「歩く」や「歌う」、「踊る」という行為についても、構造は同じ。
そして、「企画する」も、「文章を書く」も、「意見を伝える」も、「デザインする」も、
「営業する」も同じ。
モデルも、ヴォーカリストも、ダンサーも、企画屋も、営業マンも、コピーライターも、
プロフェッショナルと呼ばれる人たちは、
その行為を誰よりも細分化し、その根本から問い直し、もう一度統合するというプロセスに
拘り抜いた人達だということだ。
そして、そうやって創られた新しい「言葉」は、
創った人にとってのオリジナルなモノになる。
すなわち、「新・走る」は、「自分にとって」の「走る」である。
他の誰の「走る」とも異なる、意味と厚みを持った「走る」がそこにある。
言葉の解体と統合のプロセスとは、行為を「自分のモノにするプロセス」に他ならない。
それは、誰かの定義した言葉を生きるのを辞め、自分の定義した言葉を生きることに、他ならない。
自分にとっての言葉を、自分の経験を持って、定義し続けること、
そこに、自分を生きるということ、自分の人生を生きるというコトの本質がある。
あなたにとって、「愛」とは?「信頼」とは?「友人」とは?「仕事」とは?
「生きる」とは?「自分」とは?
その終わりのない、言葉の解体と統合のプロセスが、
きっと僕らを、どこまでも導いてくれる。
* * * * * *
<感想>
あなたにとって、「愛」とは?「信頼」とは?「友人」とは?「仕事」とは?「生きる」とは?「自分」とは?
→ 日々、問うているな。まさに、終わりのない作業。
でも、2012年よりは、少しだけ、「愛」がわかった気がするね。