千代田3331で、現代アートの展覧会に。
お目当ては、面白いご縁の、若手女性作家さん。かわいい風貌とは裏腹に、エッジの効いた作品に、刺激を受ける。
彼女と話をしたのは、作品を手段にしないこと。伝えたい事や、表現したい事が、まずあって、そのために作品を創る時、作品は手段になる。すなわち、自分の意思の下に置かれ、作品は「私」に従属する。その時、「私」以上のモノは出てこない。
けれど、作品を目的にする時、作品は解放される。すなわち、なぜ創るか、何を表現したいか、とかとか、そんなモノを差し置いて、出てきてしまったモノ、結果、表現されてしまったモノ、それは、「私」を超える。小さはエゴを超えたモノが顕現する。それは、作品が私を従えるという構図。作品が私を使って自己創造をしていくプロセス。
アートとは、その、自我を超えたモノとの出会いの場であって、そこに触れる経験を共有する営み。
彼女の作品には、そんな本人を超えたモノが立ち現れていて、僕は、とても好きになった。
さらなる活躍を祈りつつ、さて、自分も!と良い刺激をもらった一日でした。
お目当ては、面白いご縁の、若手女性作家さん。かわいい風貌とは裏腹に、エッジの効いた作品に、刺激を受ける。
彼女と話をしたのは、作品を手段にしないこと。伝えたい事や、表現したい事が、まずあって、そのために作品を創る時、作品は手段になる。すなわち、自分の意思の下に置かれ、作品は「私」に従属する。その時、「私」以上のモノは出てこない。
けれど、作品を目的にする時、作品は解放される。すなわち、なぜ創るか、何を表現したいか、とかとか、そんなモノを差し置いて、出てきてしまったモノ、結果、表現されてしまったモノ、それは、「私」を超える。小さはエゴを超えたモノが顕現する。それは、作品が私を従えるという構図。作品が私を使って自己創造をしていくプロセス。
アートとは、その、自我を超えたモノとの出会いの場であって、そこに触れる経験を共有する営み。
彼女の作品には、そんな本人を超えたモノが立ち現れていて、僕は、とても好きになった。
さらなる活躍を祈りつつ、さて、自分も!と良い刺激をもらった一日でした。