◉「手段」と「目的」は、矛盾してはならない。
これは、ひとつの真理だと思います。
それは即ち、
・お金持ちになるために、貧乏に耐える
とか
・自由を得るために、我慢する
とか
・幸せになるために、苦労する
というのは、成立しないということです。
構造的に不可能、原理的にあり得ない、そう理解して良いと僕は思います。
一見、手段と目的が矛盾している様に見えても、
よく考えると、それは、異なるプロセスが動いています。
例えば、「自由」を得るために、「不自由」が必要に見えるのは、
不自由な場所に行くと、人は徹底的に「自由」を考えるからです。
自由を追求し、自らを縛るもの自覚する。
だから、解放される。
確かに「不自由な場所」が、「自由」につながる「気づき」を得るための
「良い、きっかけ」にはなりますが、「不自由な場所」は必要条件ではないのです。
あっても良いけど、なくても良い。
だから、「我慢をしないこと」を学ぶために、
わざわざ「すごく我慢をしなくてはならない場所」に行かなくても良い。
(もちろん、行ってもいいですし、行くことによって学ぶという選択もあります)
自由に生きるために必要なのは、我慢をやめる決断です。
その瞬間、人は自由になります。ただ、決めるだけです。
「ものすごい我慢が必要な場所」に自分を置く・・・というプロセスは、
なくても良いのです。
同じです。
幸せになるには、今、幸せを感じ、幸せなプロセスを重ねていくこと。
可能な限りの純度で、幸せだけを重ねていく時、さらなる幸せがやってくる。
もちろん、「不幸せ」は意味がないのか・・・というと、そうではありません。
大いに意味があります。
上述の通り、幸せを本当に望み、自分を不幸せに括りつける枷を発見するために
そのような場所に自らを送り届ける決断をすること、
それは、大いに勇気ある決断ですし、意味があるコトです。
しかし、
・幸せを得るために苦労する
・自由を得るために、不自由に耐える
という文法を信じている必要はないということです。
それを信じていると、「実現」のために、必ず「苦しみ」を経由する癖が
ついてしまう。
夢を叶える過程を愉しめた者だけが、夢を叶え、
現状に満足した者だけが、次の場所に呼ばれる。
幸せを生きる者は、さらなる幸せに出会い、
豊かな時間だけが、さらなる豊かさを連れてくる。
そのためには、
・今、できていないこと、できないこと、足りないこと
ではなく
・今、できていること、できること、あること
にフォーカスすることです。
それがどんなに小さなモノでも、些細なコトでも、
「ある」、「できている」、「できる」という肯定のエネルギーは
必ず、次なる「ある」、「できている」、「できる」へと、つながっていきます。
それを、重ねていくプロセス自体が、ハッピーで美しく、パワフルな道程になる。
春、始発の季節に向けて、
今、自分が持っているもの、できていること、できるもの、
それを見つめてみるのも良いかもしれません。
きっと、発見があると思います。