昭和20年(1945)7月28日の艦載機による機銃掃射を目撃した人々の証言第10弾です。

 前回、玉湯町布志名附近での列車襲撃の様子をお伝えしました。

 この時、旧玉湯小学校東隣の神社の横にある自宅から湯町水上基地が攻撃される様子を見たり、襲撃された列車に乗っていた夫の話を聞いたりした須田春江さんの体験が、『いしずえ』 玉湯町遺族会 S53.12刊に掲載されています。

 

12 松江市玉湯町布志名の様子 【玉湯の須田文興さんの体験】
 東の空から爆音をたて、敵機がきました。八勝園の方向へ何度も急降下して爆撃します。その様子を目撃し、戦争の恐ろしさをまざまざと味わいました。
 しばらくして、汽車で松江へ出たはずの夫が旧玉湯小学校東隣の神社の横にあるわが家へ帰ってきて、こんな話をしました。

 乗っていた列車が攻撃され、乗客は外へ退避するよう指示されました。大きな松の木の下へ退避しましたが、湯町へ敵機が急降下する様子を見て、「急いで家へ帰らねば」と思い、松の木を離れた時、私たちは爆撃され松の木は折れてしまいました。

木の下に退避していた方は、手足や頭に傷を受けたり、即死されたりしました。

もし、私がその場を離れていなかったら、おそらく即死していたと思います。
 足にけがをされた方から「汽車に乗せてほしい」と言われたので、背負って汽車に乗せてあげました。その時、背中がぬれていることに気づきました。おかしいと思って手を当てると、血がべっとりと着きます。

自分もけがをしていたことがわかったのです。体の中にロケット弾の破片が入っていたことが、後になって分かりました。

 

 この日、玉湯川土手では地元の玉湯国民学校の生徒によって草刈作業が実施されていました。

 7月26日から8月1日までの1週間毎日作業が実施されており、まさに作業中に機銃掃射を受け大混乱の内に学校へ避難するという事態が発生していました。

 

【写真 湯町水上基地に配備された水上偵察機~『玉湯百年のあゆみ』より】