昭和20年(1945)7月28日の艦載機による機銃掃射を目撃した人々の証言第9弾です。

 これまで、出雲市・松江市・安来市各所の空襲の様子を紹介してきました。

 今回は、この日島根県内で一番大きな被害が発生した玉造温泉周辺の様子についてお伝えします。

 玉湯町布志名附近での列車襲撃の様子です。

 『新聞に見る山陰の世相百年』 山陰中央新報社百年史編纂委員会 S58.3刊に掲載されている山本 健吉さんの証言を紹介したいと思います。

 

⑪ 松江市玉湯町布志名の様子【玉湯の山本健吉(当時39歳)さんの体験】
 私は、この頃玉湯村に疎開して、松江にある島根新聞社で記者の仕事をしていました。
 この日、玉湯駅を1時間遅れて列車は出発しました。

 発車前に空襲警報がありましたが、列車は松江に向け出発しました。しばらく走ると、布志名の山間の谷で停車しました。
 「ここでしばらく停車します。荷物は身に付けておいてください。」

という車内アナウンスがあります。
  すると、「敵機が見えるぞ。」という乗客の声。

 車掌から、よろい戸を下ろすよう指示がありました。

 「敵機が引き返して来るぞ。」という乗客の声が続きます。
 攻撃目標を発見したにちがいありません。私は、ふとこの列車がねらわれているのではないかと思いました。

 乗客はみんな座席をはずし、空襲にそなえて下にもぐりこみました。私は、窓ぎわの男性と二人で座席を頭の上に支えました。

 爆音が近づき、「ダダダダ…」と機銃の音。私の頭のすぐ近くでパッと火花が散りました。その時、私はてのひらに傷を受けました。

 横を見ると、いっしょに座席を支えていた男性が、顔を真っ赤に染めて倒れていました。私から30センチも離れていない所に、機銃が破裂したあとが残っていました。
 

【写真  山本 健吉さん 福岡県八女市立図書館HP・山本健吉資料館所蔵より】